邪馬台国(3)  1里の長さ−2

古代天文学から導かれる「里」
  魏志倭人伝の解読の中から得られた「短里」の概念ですが、思わぬところから同
様の結論が得られたのです。

  測量の専門家である谷本茂氏は、周代に書かれた中国最古の天文算術書といわ
れる「周髀算経(しゅうひさんけい)」を研究する中で、周代の1里は76〜77メートルで
あることを見いだされました。

  周髀とは八尺の棒のことで、周代に天子がこれを使って初歩的な三角測量法を行
ったことから周髀と呼ばれるようになったそうです。
周髀を使って、「一寸千里の法」と呼ばれる測量法が行われました。
どのような方法かといいますと、
地球が丸いため、同じ経度にある異なった地点で、同じ日の同じ時刻に垂直に立て
た同じ長さの棒の影は、南にいくほど短くなり、北に行くほど長くなります。この原理
から、同じ長さの棒の影の長さの違いから異なった地点間の距離を知ることができ
るというものです。

  具体的には、ある地点(A:洛陽付近と思われます)で、夏至の日の正午(南中時)
の八尺の周髀の影は一尺六寸でありました。そこから南へ千里の地点(B点)では
影の長さは一尺五寸でありました。また、北へ千里の地点(C点)では影の長さが一
尺七寸でありました。南北に千里離れると影の長さに一寸の差があります。これらの
結果から八尺の周髀に対する影の長さの差一寸は地上の距離にして千里に相当す
る、ということが分かるわけです。

  地球を平面に見ているため、厳密には北に離れた場合と南に離れた場合では、
同じ千里の距離でも影の長さの差は同じ割合ではないことを無視している等、単純
な面は否定できませんが、当時の考え方を知ることは出来ますし、今、古代の距離
の概略を知る程度には十分耐えうると思われます。

  さて、南北に各々千里離れた地点で夏至の日の南中時の影の長さが分かってい
るわけですから、三角法で計算すれば観測地点は北緯35度付近(古代中国の都で
黄河沿いに位置したのはほぼこの緯度)で、一里は約76〜77メートルという答えが
得られます。

  この結果は測定誤差や有効数字の取り方等を考慮したとしても、明らかに通説で
ある周代の一里は約400メートルとは異なっています。その上、三国志の文献解読
から得られた数字に極めて近いと言えると思います。文献解読の結果と科学的な計
算結果とが極めて近い値を示す、ということを単なる偶然として葬り去ることは出来
ないと思います。
  周や三国志の時代に「短里」が使われていた、ということを側面的に裏付けている
ように思いますが、皆さんはどのようにお考えになりますか。

「里」の移り変わりの概略
  中国では細かな変化はあったとしても、おおむね、周(短里)→秦・漢(長里)→魏・
晋(短里)→東晋以降(長里)という変遷をたどったと考えられますが、それぞれの時
代にどのような長さの単位が使われていたかを正確に知ることが出来る資料は極め
て少なく、また、現在残っている史料等は何回かの書写を経てきたものですので、後
代の解釈による修正等の影響があったり、古い時代からの史料等を寄せ集めたた
めに同じ資料の中でも異なった長さの単位が使われている形跡が見られる等、一見
分かりにくいものとなっております。距離や長さ等を判断する際には慎重な吟味が必
要である所以(ゆえん)でもあります。

里と歩の関係
  二点間の距離から推論する方法ではおおよそのところしか掴むことが出来ません
(長里と短里の概略の判定にはこれで十分だと思われます)。これに対して里と歩の
関係が分かればいっそう明確に1里の長さを知ることが出来ます。残念ながら里と歩
の関係については不明な点も多く一刀両断というわけには行きませんが、分かる範
囲で述べてみたいと思います。

  1歩というのは我々が普通考える1歩とは異なり、行進するときに左・右と踏み出し
ますが、その左・右(ふたあし=英語の2Steps)を1歩と言います(因みに片方を踏み
出した場合《一挙足》を?《き》といいます)。唐代以降は1里は360歩となりますが、隋
までは1里は300歩でした。1歩の長さは6尺とされておりますので、1尺がどれくらい
の長さであったのかが分かれば1里の長さが分かることになります。

  その1尺の長さですが、「新字源」によれば1尺は22.5センチと記載されております。
古代中国の「尺」を調べた信頼できる文献「伝世歴代古尺図録」によりますと、秦・漢
時代の墓等からいくつかの骨尺、銅尺、牙尺等が出土しており、それらの長さは僅
かずつ違っていますが平均すると、1尺は大体23センチプラス・マイナス5ミリ程度で
あるようです。これが後の時代になるに従い少しずつ伸びて唐の時代には30センチ
を超える尺も見つかっております。ここでは約23センチと見ておけばよいのではない
かと思います。その場合、1歩は約138センチメートルということになり、始皇帝の1里
は約414(23×6×300)メートルということになります。

  ここで留意しなければならないことは、「歩」は足を基準にした長さの単位であり、
「尺」は手を基準にした長さの単位で、発生の起源を別にしておりますので、1歩の長
さが正確に6尺であったのか、ということにつきましては疑問が無きにしも非ず、とい
う訳で、多少の誤差はあると考えておいたほうが良いように思います。

短歩の痕跡
  今まで述べましたのは、通常言われております「里」、「歩」、「尺」の関係で、1歩は
6尺(約138センチ)ということに疑いはありませんが、それとは別に「短歩」というよう
な概念でないと理解できないような事例も見つかっております。

  四川省の戦国墓(戦国の七雄の一つである秦の時代)から出土した木牘(もくとく
=木簡)によれば、阡陌(せんぱく=あぜみち)の幅が3歩と記されております。これ
を上記の歩(長歩)で考えると4メートル以上の幅となり畦道としては広すぎると思わ
れます。  通常あぜ道は人が一人通れる程度と考えれば80センチメートル弱で十
分と思われます。このことは、1歩が25センチメートル程度の短歩の存在を示唆して
いると考えられます。

  「戦国策、韓一」に強い弓に関して、天下の強弓は六百歩の外を射る、という記述
があります。天下の強弓は六百歩以上の射程があると言っているわけです。弓とい
っても日本の弓とは異なり、現在の洋弓に近い形のものですが、これを長歩で考え
ると射程が900メートル以上となり、いくら強弓といっても現実離れの観がします。何
よりも900メートルも飛ぶとなれば、滞空時間が長すぎて容易に身をかわすことが出
来るため、弓で射る意味をなさないと思われます。これが短歩であれば160〜170メ
ートルとなりまさに強弓の名に値すると思われます。因みに日本の弓場(的場)は古
来、約76メートルで変わっていないそうです。約76メートルといえば短里の長さです。
これを単なる偶然とは思いにくいのですが、それはともかく、短歩の存在を考えない
と上記二つの例はすんなり理解が出来ないようです。従来からわかっている「里」と
「歩」の関係とは別に、「短歩」と短歩に基づく「短里」の系統があったことは疑えない
ように思います。「短歩」とは足のつま先からかかとまでの長さを基準とした単位(英
語のFootに相当)ではないかと考えられます。

  こうみてくると、「尺」と「短歩」という、ほぼ同じような長さの単位があったことになり
ます。私見ですが、上でも述べましたように、「尺」は元来手を基準にした長さの単位
であり、「歩」は足を基準にした長さの単位であります。両者発生の起源を異にしてお
りますので、近い値ではあっても全く同じということでもなかったのではないかと考え
ております。いずれにせよ、基準尺といったようなものが発見されない限り、決定的
なことは申し上げにくいようです。

  正確に説明しようとしてかえって分かりにくくなってしまったかもしれませんが、通常
言われている長さの体系とは別に、その5分の1程度の短い長さの体系の存在が浮
かび上がり、「長里」と「短里」の問題もその中で考えなければならないように思いま
す。

「短里」が使われている例
  最後に、皆様良くご存知の事柄で、「短里」の概念で考えると良くわかるという例を
ご紹介したいと思います。

  春秋・戦国時代、1日に千里を行く馬が名馬とされました(千里馬)。これを長里で
考えると500キロ前後となり、現実の話にはなりませんが、短里ならば80キロ程度と
なって現実感が出てくるように思います。

  千里眼という言葉も短里でないと実感が湧かないようです。

  一瀉千里という言葉は、小舟が急流を勢い良く下る意味ですが、これも短里でな
いと現実感に乏しいようです。

日本における短里の痕跡
  実は日本にも短里の痕跡が残っていました。
  崇神紀(日本書紀の崇神天皇の段→通常××天皇の段を日本書紀では××紀、
古事記では××記と略します)の中に、任那(韓半島南端にあったと考えられていま
す)から朝貢して来る記事があります。その内容については論議がありますが、任那
の位置につきましては筑紫の国を去ること二千余里という記載があります。これを博
多湾―釜山間と考えると直線距離で200キロメートル程度です。単純に割り算すれば
一里は約100メートルという計算になります。起点と終点がはっきりしないことや海上
ルートであることを考慮しても、長里ではしっくりきません。やはり短里でないと理解し
にくいと思われます。

  万葉集に、山上憶良の詠んだいわゆる「鎮懐石の歌」があります(813、814)。伝
承によれば懐妊されていた神功皇后が三韓征伐を前に石で帯を抑えて産気を鎮め
たとされています。伝承の内容自体は慎重な吟味が必要と思われますが、歌の序文
の中に、「子負(こふ)の原 海に臨める丘の上に二石あり 深江の駅家を去ること
二十許里」という記述があります。伝承が行われていた当時の、場所の関係を示す
記述であることは疑えないと思います。石のあった場所は、現在の鎮懐石八幡宮と
いうのは異論がないところですが、深江の駅家がどこに当たるかということを探すに
際しての問題点が、「深江の駅家を去ること二十許里」という記述です。二十許里は
二十里程度ということですから、長里で考えると10キロ程度ということになり、福岡県
前原市の西部に位置する狭い二丈町の深江エリアをはるかに突き抜けてしまいます
(深江エリアは東西2キロ程度)。深江エリアの中で深江駅家と子負の原が両方とも
存在するには「短里」でないと成り立ちません。
序文の中のわずかな記述ですが、日本において「短里」が使われていた場所と時期
があった痕跡ではないかと見てよいのではないかと考えます。

  前メールに引き続き本号でも色々と1里の長さについて検証してまいりました。そ
の結果、三国志・魏志倭人伝に限らず「短里」が使われていた場所と時代があったこ
とは疑えないように思いますが、皆様はいかがでしょうか。
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参考文献
・古代史の「ゆがみ」を正す:古田武彦・谷本茂 共著 新泉社
・里・歩単位の起源について 田島芳郎
(古代史徹底論争:古田武彦 編・著 駸々堂 に掲載)
・歩と里の概念 福永晋三 (古田会ニュース No84)
・ものさし 小泉袈裟勝 法政大学出版局
・新北が津であった時 平松幸一 新古代学第5集 新泉社



第3号 邪馬台国(3)






























































































































































































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一寸千里の法
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