最初のテーマは、いわゆる邪馬台国を取り上げたいと思います。

  皆様は邪馬台国と言われてどのような感じをお持ちになりますか。
古代史における最大の論争点で、長年論争されてきており未だに決着がつかないも
の、という感じでしょうか。或は「邪馬台国? なにか怪しげな判じ物の世界で、専門
家が重箱の隅をつつきあっているらしいが、しょせん根拠が曖昧な話で、まともに考
えるのは時間の無駄」というようなことでしょうか。それとも日本の原点としてそこは
かとないロマンを感じる、とお考えでしょうか。

  書店の古代史のコーナーには「邪馬台国」を扱ったものが沢山並んでいます。
沢山ありすぎてどれを選んでよいか分からない。また、読めば読むほど分からなくな
ってくる、という感じを持たれるかもしれません。はたして「邪馬台国」は今でも謎のま
まなのでしょうか? そしてその先は?

  現在手にすることができる文献等を、先入観なしに学問的に吟味し、事実に基づ
いて合理的な推論を積み重ね、更に出土物等でその結果を確認する、という手続き
を丹念に行うという方法によれば、邪馬台国の実像は明白だと言えるところまで研
究は進んでいると申し上げてよいでしょう。

  根拠等は追々ご説明する積もりですが、結論を先に申し上げておきますと、それ
は北部九州、もう少し詳しく申し上げれば福岡県の一角と考えて、まず間違いないと
思われます。

  それでは早速ご説明に入りたいと思います。
 
  いわゆる邪馬台国はどこか、ということについて考える時、先ず始めに、邪馬台国
という名前は現存する日本の歴史書には出てこない、ということを念のために確認し
ておきたいと思います。初めからなかったのか、或はいつかの時点で消失してしまっ
たのか、考え出せばきりがありませんが、推測以上のことは難しいと思いますので、
今は深入りすることはやめておきましょう。

東北アジアにおける日本の歴史的位置
  日本の歴史を振り返る場合に忘れてならないことは、日本は非常に恵まれた位置
にある、ということです。日本の古い時代のことを書き記したものは、それほど古いも
のは残念ながら残っておりません。考古学的な出土物等はあってもそれを理解する
手段は非常に限られているのです。

  しかし、幸いなことに日本のすぐ近くには中国大陸や朝鮮半島があり、近隣から見
た、比較的冷静な目で見た記録が残っています。ことに中国は文字の国であり、歴
代王朝の史官が以前の王朝のことを書き記す伝統があり、その王朝から見た日本
の状況や日本との交渉等についてかなり書き残してくれているのです。それらのもの
と日本国内に残っているもの、或は国内から出土したもの等を突合わせて考えると
かなりのことが分かってくる訳です。というより、今の我々にとってはそれしか手掛り
がないと言わざるを得ないでしょう。

「倭」が出てくる中国の史書
  中国の史書によれば、日本は古い時代は「倭」という名前で出てきます。
倭人という記述が、明確に日本の人を指しているとして異論がないものは、「楽浪海
中倭人あり」と記述された「漢書」が最初ですが、それ以前にも断片的ではあります
が、「倭人」という記述が出てくるものがあります。それらについては稿を改めて述べ
ることにしたいと思います。より詳しく「倭」のことが出てくる史書を成立年代順に並べ
ると、三国志(魏志倭人伝)、後漢書(倭伝)、宋書(倭国伝)、隋書《?(たい)国伝》、
旧唐書(倭国伝)と続きます。この中では時代的には後漢が一番古いのですが、後
漢書の成立は後漢滅亡から約200年後で、三国志よりも150年程度後の時代なの
に対し、三国志は三国時代の直後、つまり資料も豊富で史官の記憶も鮮明だと思わ
れる時代に成立していることに留意しておきたいと思います。
?=人+妥

  史書の書き方として、認識や事実が前の史書と大差ない場合は重複を避けて共
通部分は簡単な要約程度に留め、その後おこった出来事や、新しく判明した事実を
詳しく記述するという形になっています。一連の史書の中で倭国の様子は、基本的に
魏志の記述が踏襲されていて、一貫して中国側から見て倭国の状況には大きな変
化がなかったと見なされる記述になっています。

三国志の中の魏志倭人伝
  先ず、初めて「倭」のことが具体的に取り上げられ「倭」に至る道筋や、風俗、産
物、統治の様子等が詳しく紹介されている「魏志倭人伝」から見てみることにしましょ
う。通常「魏志倭人伝」ということでお馴染みかと思いますが、正確には三国志の中
の、魏志の最後の段を占める東夷伝、そのまた最後に「倭人伝」が配置されており
ます。

  多くの皆様は「倭人伝」には「邪馬台国」と書いてあり、その場所をめぐって、近畿
だ、九州だという説が飛び交っていると、思っておられると思います。私も以前はそう
でした。ところがその漠然とした認識を、根本から変えることになったのが、古田武
彦氏の「『邪馬台国』はなかった」という著作物でした。初版が出版されたのは30余
年前になります。その後、これに触発されて多くの方が古代史探求の道に進まれ、
先入観に捉われない文献解読、理化学的なデータ等も踏まえて、今まで埋もれてい
た新しい事実等が数多く見つかっております。

  本マガジンでは、古田武彦氏によって掘り起こされた古代史の新しい局面をベー
スとして、その後、多くの古代史研究者によって得られた成果も踏まえながら、私なり
に分かり易く噛み砕いて話を進めていきたいと考えております。

「邪馬壹国」とは?
  さて、倭人伝ですが、その白眉は何と言っても女王「卑弥呼」であり、「卑弥呼」の
都がある「邪馬壹国」であります。このように書くと皆さんは、「邪馬台国」の書き間違
いではないか、と思われるのではないでしょうか。多くの「邪馬台国」の氾濫の中で、
そう思われるのも無理はないのですが、実は「魏志・倭人伝」にはハッキリと「邪馬壹
国」と書いてあるのです。現在残っている「三国志」は紹熙本、紹興本、汲古閣本、北
宋本等いろいろな版本があり、どれも後の時代に「書写」されたものですから、原本
にどのように書いてあったかは今となっては確かめる術がありません。しかしながら
現在残っている色々な写本のどれを見ても「邪馬壹国」と書いてありますから、何の
証明もなしに「邪馬壹国」は「邪馬台国」の誤りだとして書き換えるのは慎重さに欠け
る、と言わざるを得ないと思います。

  実際は「魏志倭人伝」は誇張や間違いが多い、と言うのが定説になっています。
間違いだとされている個所は何箇所かありますが、その一つが「邪馬壹国」で、「壹」
の字は「臺」の字の誤りだということになっているのです(「台」は「臺」の略字)。なぜ
誤りなのかという説明はされておりません。定説がそうである以上、間違っていたり
紛らわしいケースがかなりあるのだと想像されると思います。上記「『邪馬台国』はな
かった」の中で、三国志六十五巻全体の中にでてくる「壹」の字と「臺」の字につい
て、間違っていたり取り違えられていたりするケースがあるかどうかの確認作業が行
われました。

  結果は「壹」86個、「臺」60個の字が使われていましたが、その両字間に錯乱とし
て確認できるものは一例もないということが明らかになりました。

  ではどうして「邪馬台国」と改定されたものが定説とされてきたのか、ということで
すが、江戸時代に松下見林が「異称日本伝」の中で、「ヤマト」と読めないから間違い
だとして「邪馬台国」と改め、それは九州説の新井白石にとっても筑後山門に比定す
る上で好都合であったため暗黙の了解事項となった、という以上の理由を見つける
のは難しいようです。

  定説の根拠も意外と薄弱だったようです。

  次回以降、具体的に倭人伝に沿って「邪馬壹国」の場所を追ってみることにしたい
と思います。

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参考文献
「邪馬台国」はなかった:古田武彦  朝日文庫



第1号 邪馬台国(1)











































































































































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