邪馬台国(2)  1里の長さ−1

さて、魏志倭人伝に沿って「邪馬壹国」を追ってみるわけですが、まず基準となる物
差し「里」について、ラフロイグ(ペンネーム)さんから下記メールを頂きました。
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ロマン的に邪馬台国と仮称しますが、魏志倭人伝が伝える、倭人国への距離の算
定は正しいのでしょうか?同じ距離の単位でも1000年前の距離感では違うのではな
いでしょうか?それによって倭国の位置が異なってくると思えます。
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  まことに鋭いご指摘なので予定を変更し、時間的には1800年ほど前のことになり
ますが、三国志に使われている距離の単位である「里」について、最初に確認してお
きたいと思います。実はこの分野は日本におきましても中国におきましても、あまり
研究が進んでいない分野でして、やや難解な点もありますので極力分かり易い説明
に努める積りでおりますが、史料等も乏しく、限界もありますことをご理解いただきた
いと思います。

  前号におきまして、三国志は誇張や間違いが多いとされていると申しあげました
が、誇張があると言われているものは、この距離の問題なのです。

七里よりも二里が長い?
  皆様は1里という単位についてどの程度の距離をイメージされますでしょうか。
と改めてお聞きすると、「そんなものは約4キロに決まっている」とお答えになるかもし
れません。ですが、日本でも昔は時代や地方によって異なった1里があり、その痕跡
が今も残っています。

  長さを取り入れた地名としては千葉県の九十九里浜が有名ですが、和歌山県に
は二里ヶ浜があり、神奈川県には七里ヶ浜があります。実際の長さは九十九里浜が
約60キロメートル、二里ヶ浜が約8キロメートル、七里ヶ浜は約3キロメートルで、二里
ヶ浜は七里ヶ浜の2倍以上の長さがあります。割り算してみると夫々の一里の長さ
は、約600メートル、約4キロメートル、約430メートルとなります。これらはある時代の
1里の長さを反映していると思われます。日本においても大きく異なる里単位が存在
していたのです。

  徳川家康がほぼ現在のものに統一するまでは、西国では主に約4キロメートル程
度の「大里」、東国では400〜600メートル程度の「小里」が使われていたようです。そ
れも各藩によってまちまちであったため、1里の長さを統一し、確認のため塚を築い
た(一里塚)とされております。一里の長さを統一する動きは信長の頃から始まった
ようですが、家康が急いだ理由は、大阪攻めを企図していた家康が各藩の動員に際
しての混乱(行軍速度の違いによる道中や宿泊の混乱等)を防ぐ意味があった、と
いう見方に説得力を感じます。

古代中国の1里
  では古代中国ではどのようだったのでしょうか。
  秦の始皇帝が度量衡を統一したことはよく知られております。そのときの1里は約
435メートルと言われており、その前後を含めて、通説では周代から清代まで、小さな
変動はあるものの概略1里は400メートルから600メートルの間(以下長里と記述)で
推移してきたとされております。(現在、1里は約500メートル)

  古代史探求者による文献等の解読の中で、通説とは異なり、中国の古代には、ほ
ぼ日本の「小里」に相当する「長里」よりも、はるかに短い「里」があったと考えなけれ
ば説明が付かない事実が浮かび上がって参りました。

  もし魏志倭人伝の中での1里が400メートルから600メートルの間であるならば、倭
人伝には魏の帯方郡(現在の平壌付近とされております)から「邪馬壹国」までの総
里程が一万二千余里と書いてあるのですから、多少の進路変更等があったとしても
「邪馬壹国」は赤道付近か太平洋の真ん中辺りになってしまいます。

  明治の東洋史の大家、白鳥庫吉(東京大学)が倭人伝の研究の結果、約5倍の
誇張があるとして誇張説を唱え、これに論敵である京都大学の内藤湖南も応じたた
め、誇張説が定説化することとなりました。

  白鳥庫吉の場合は5倍程度の誇張があるとしながらも、一定の比率を認めた上で
推論の結果、九州説に立ったのに対し、内藤湖南の場合は里程は無視して主に地
名を重視して近畿説に立ち、以後のいわゆる邪馬台国論争は基本的にこの流れを
踏襲しております。

  結論から申し上げますと、白鳥庫吉が5倍程度の誇張と見た認識自体は鋭い着眼
でありました。白鳥庫吉は5倍程度の誇張という指摘にとどまったのですが、実際は5
分の一程度の短い「里」(以下短里と記述)が使われていたことが浮かび上がって参
りました。

文献からの検証
  前メールでご紹介しました「『邪馬台国』はなかった」の中で、当時と現在で、それ
ほど大きな位置のずれはないと思われる二地点を抜き出し、そこに書かれている距
離から1里の長さが概略どの程度であるのかの確認作業が行われました。いくつか
の例を検証した結果、1里は75〜90メートルという結果が得られ、それとは別に古代
の天文書の計算から得られた結果と合わせて、1里は80メートル弱(76〜77メート
ル)程度であると見て間違いないと判断されました。

  最近、古代史探求者である生野真好氏が、三国志において里数の記載がある
300個の事例すべてについて再検証され、長里と短里の区別が可能な50の例につい
てその判別を行われました。その結果、三国志の中で、長里と短里が混じって使わ
れていることを見出されました。生野氏の更なる検証の結果、無原則に混用されて
いるわけではなく、漢王朝の正当な後継を自認する(漢の制度を踏襲した)蜀のこと
を記した「蜀志」では一貫して長里が使われており、周の古制(古い制度)に復する
(戻る)とした「魏志」では、漢の時代にかかわる部分では長里が、魏朝成立後は短
里が使われていると判断できるようです。その中で「呉志」では漢の時代にかかわる
部分でも短里が使われているような形跡が無いでもありませんが、例も少ないため
詳しくは今後の研究に待ちたいと思います。

  実はこのことは、いわゆる邪馬台国論争を考える上での一つの解決のヒントを与
えてくれているように思います。いわゆる邪馬台国論争におきましては、九州か近畿
かという論点のほかに、倭人伝だけが誇大に書いてあり、それは邪馬台国の正確な
位置を魏と対立していた呉に知られたくなかったからだ、とか、邪馬台国のある場所
はジャバ(現インドネシア)だ、といった奇想天外とも思える説も出ております。その背
景には「短里」の存在と共に、「長里」と「短里」の混在も一つの原因になっていると考
えられます。ともあれ、何故同じ三国志の中に二つの異なった里単位が用いられて
いるのか、という新たな問題点が出てきたことは間違いないようです。

  大部分の皆様は、1里が80メートル弱なんて信じられない、何か間違っているので
はないか、と思われるかもしれません。最初は私もそう思いました。そこで、多くの例
を取り上げても煩瑣になると思いますので、三国志の中に出てくる明確な二つの例
をご紹介したいと思います。

  その一つは倭人伝の直前にある韓伝です。念のため韓伝の当該部分を抜き出し
てみます。

韓は帯方の南にあり。東西海をもって限りとなし、南、倭と接す。方四千里なるべし。

  韓は魏の領地である帯方郡の南にあって東西は海で区切られ、南は倭と接してい
る。その広さは四千里四方である。と認識されているわけです。三国志によれば当
時は韓半島の南部には「倭」があったというわけです。当時の「韓」が韓半島のどの
部分を指すのか必ずしも明確ではありませんが、北には帯方郡があり南は倭と接し
ている。また、東西は海で区切られていると言うのですから、ほぼ現在の韓国の領
域から南部の倭地を引いた残りの部分と考えてよいと思われます。

  その部分が四千里四方であるというのですから、確実なところで韓半島の幅が四
千里と認識されていることになります。両海岸線は2千年程度の間では多少の侵食
等を考えても現在と大差ないと見て良いと思われますから、その幅を誤差の余裕を
見て計ってみると概略300〜360キロメートルとなります。これを四千里で割ってみる
と、1里は75〜90メートルということになります。東西の計り方により多少の差が出る
としても、1里が400〜600メートルというのは桁違いという感じがします。

  二つ目の例は皆様ご存知の赤壁の戦いです。
  長江の中流にある赤壁で魏の曹操軍が北岸に、呉の孫権と蜀の劉備連合軍が
南岸に対峙して戦いました。連合軍は、船戦に不慣れな曹操軍を騙して、あらかじ
め、流されないようにと何艘かの船を互いに鎖でつないでおくように仕向けた上で、
北風が南風に変わるときを待って火攻めの計を仕掛けました。 

  孫権の将軍黄蓋が10隻の船に魚油をたっぷりしみこませた枯れ草を積み、幔幕
で隠した上で長江に漕ぎ出し、中ほどまで来たときに部下に大声で「降伏だ」と叫ば
せました。曹操軍が、黄蓋が降伏したぞと油断して見守る中で、出来るだけ近づいた
黄蓋は全船に一斉に火を放ち、用意していた船で逃げ帰りました。

  南風に押された火船は見る見る近づき、曹操の船団に突っ込み、曹操軍が鎖を
解く間もなく大混乱となったときに連合軍が襲い掛かり、連合軍の大勝利となりまし
た。
  問題は黄蓋が火を放った地点が、「北岸を去る二里余」とあることです。この二里
余が通説の通り(長里)なら約1キロメートルとなり、岸に近づく前に、追い風を計算し
ても船は流されてしまうと思われます。何よりも1キロメートルの彼方からでは「降伏」
の声も届くかどうか良く分かりません。

  これが短里であれば130〜180メートル程度ということになり、良く状況に合うと思
われます。さらには、赤壁付近の長江の幅自体が400〜500メートル程度ということで
すから、長里でははじめから話が成り立ちません。長里であれば、仮に中ほどで火
を放ったとしても、長江の幅が2キロメートル以上ないと辻褄(つじつま)が合いませ
ん。

  文献解読から見て三国志では、日本の「小里」よりもはるかに短い「短里」が使わ
れていたと考えなければ理解できない部分がある、ということについてはご理解いた
だけましたでしょうか。実は、日本でも中国でも古代の長さの単位についてはそれほ
ど研究が進んではおらず、「短里」の概念は専門家といわれる方々の間でも意見は
分かれております。その中で大勢は、「短里」を認めない、という立場のようです。皆
様は冷静に考えて、どのように判断されますでしょうか。

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参考文献
・古代史の「ゆがみ」を正す:古田武彦・谷本茂 共著  新泉社
・倭人伝を徹底して読む:古田武彦 朝日文庫
・「邪馬台国」はなかった:古田武彦 朝日文庫
・陳寿が記した邪馬台国:生野真好 海鳥社



第2号 邪馬台国(2)



















































































































































































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