No4:邪馬壹國(1)

  さて、短里という物指しの準備が整ったところで、いよいよ本格的に倭人伝の女王
国の探求に入るわけですが、このあたりでタイトルも「邪馬台国」から「邪馬壹國」と
改めたいと思います。

倭人伝の書き出しは
  倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。
旧(もと)百餘国。漢の時朝見する者有り、今、使譯通ずる所、三十国。
となっています。

  念のため、分かり易く現代語に直してみますと、
  倭人は(魏の東の端の領土である)帯方郡から見て東南の大海の中にあって、山
や島を根拠として国邑(こくゆう=国や大小の集落)をなしている。旧(もと)は百余国
あった。漢の時代に(漢の)朝廷まで来た者がいる。現在、使譯通ずる(使者、通訳
等を通じ魏に服属している)所が三十国である。
となります。

  「旧(もと)は百余国あった」というのはいつの事を指しているのでしょうか。
  文の構成上は漢より以前には違いありません。その前の短い秦の時代と考えるこ
とが出来ないでもありませんが、素直に読めば周代となるように思います。もしそうだ
とすれば、通常言われているよりは遥か前から中国大陸と日本列島に住む人々の
間に交流があり、そのことが記録に残っていることの現われだと考えられないでもあ
りません。この点はいずれ改めて取り上げたいと思います。

  いずれにせよ、魏から見て、倭人のことは旧(ふる)くから知っているよ、というニュ
アンスが感じ取れるのではないでしょうか。

志賀島の金印
  また、「漢の時朝見する者有り」というのは、後漢書に記載ある、志賀島から出土
したと伝えられる例の金印を後漢の光武帝から貰った時(建武中元2年=AD57年)
や、安帝の永初元年(AD107年)に倭国王帥升が生口(奴隷)を献じて請見を願が
った時の事を指していると考えられます。つまり後漢の時代にやってきた倭人と、今
これから説明しようとする倭人とは同じ(所にいる)倭人であると認識されていること
になります。金印が志賀島から発見されたことから見て、ここで言う倭人は志賀島周
辺一帯で活動していたというのが自然な理解だと思われます。言い換えれば、志賀
島周辺一帯で活動していた倭人はこれから説明する倭人の先祖である(と中国側に
は見えている)、と言っていることになります。

  金印には「漢委奴国王」と刻んであります。これの読み方についても通説の読み
方は筋が通らないということを説明しておかなければならないでしょう。詳しくは後
日、時間の余裕が出来れば改めて取り上げることにさせて頂き、今は、そのポイント
だけを述べておきます。

  歴代中国の王朝は周囲の夷蛮(と見ていた)の王に服属のしるしとして、印(金、
銀、銅印)を与えてきました。しかしそれは直接の服属関係にある国に限られてお
り、その国の中の小国に与えられたケースは見られません。分かり易く言えば、直接
の家来には与えるが家来の子分に与えたケースはないのです。現在の通説の読み
のように、漢の倭(わ)の奴(な)国王と言う読み方は、金印という最上級の印を、倭と
いう家来の、奴国という子分に与えたことになってしまいます。多くの例を検証した結
果、そのような例はないことが明確になっております。また、漢字の読み方としても、
委(わ)、奴(な)、という読み方は少し無理な感じがしないでもありません。

  ではなんと読めばよいかということですが、区切り方は、漢、委奴国王とならざるを
得ません。つまり、漢の委奴国王ということになります。問題は委奴国の読み方です
が、断定は出来ないものの「いぬ国」または「いど国」、「いと国」等が考えられるので
はないでしょうか。

  長年親しんできた呼び方とあまりにも違うため、違和感をお持ちになる向きも多い
かと思います。が、既成概念が常に正しいとは限らないという目で素直に読めば、他
には考えにくいということを述べておきたいと思います。

  さらに、金印をもらった当時は(倭人の)国名が(中国から見て)認識されていたと
いうことに注目しておきたいと思います。倭人伝では文字通り「倭人」として認識され
ており、例えば「倭国」とはなっておりません。このことも倭人伝を読む上での注目点
だと思います。因みに以後の史書にはすべて国名が記載されています。

使譯通ずる国
  使譯通ずるという意味は、通訳等を伴った使者の往来があり、魏に通じている、と
いうことですから、魏と倭人との間に第三者が入り、或は第三者によって邪魔をされ
るということなく、直接意志を通じることが出来る、すなわち魏に服属しているという
意味になるようです。今、その国が三十国あるというわけです。

  三十国につきましては後段に具体的にその国名が記載されています。
  必ずしも読み方は良く分かってはいませんが一応名前をあげておきますと、
狗邪韓國、対海國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國、
斯馬國、巳百史國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇
國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利
國、支惟國、烏奴國、奴國。
以上の三十国です。

  単に三十国があるということではなく、使譯通ずる国が三十国あるという書き方
は、魏から見て直接の統属関係にある国が三十あると見ている、ということになるよ
うです。ということは、女王国(邪馬壹國)という大きな統一体の中に国があるという
形ではなく、主体的な統治が行われている三十国があり、その盟主的な存在として
女王国(邪馬壹國)がある、という中国側の認識を示した表現のようにも考えられま
す。或はそれが、例えば「邪馬壹國伝」というような表現ではなく「倭人伝」となってい
る理由ではないかとも考えられます。

  わずかこれだけの記述からあまり踏み込んだところまで議論するのはいかがかと
思いますが、少なくとも魏志倭人伝と後漢書とでは中国側の(日本側の国の形態に
対する)認識に差があることは言えるようです。

邪馬壹國への道筋-1
  さて、いよいよ倭人伝にしたがって、女王国(邪馬壹國)に至る道筋を見てみること
にしたいと思います。

  少し面倒と思われるかもしれませんが、一応原文を見ておくことにします。
従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千餘里

  論者により読み方に微妙な違いがありますが、ここでは古田武彦氏の読み下しを
掲載しておきます。
郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たち
ま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪(くや)韓国に到る、七千餘里。

  ではこれを吟味してみましょう。
  この段は帯方郡から韓地を経由して狗邪韓国に到るまでのことで、倭への行路
が、郡より倭に至るには、という書き出しで始まっています。出発地が魏の都の洛陽
ではなく帯方郡となっていることに疑問を持たれる向きもあるかと思いますが、帯方
郡までは魏の領域内ですから、いわば自明の理というわけで、それから先の道筋を
示していると考えられます。

  ここで、其の北岸、狗邪韓国に到る、ということの意味について確認しておきたい
と思います。其の北岸の、「その」は何を指すかということですが、ここは倭にいたる
道筋を説明している部分ですので、「その」は倭を指すことは明白です。つまり、韓半
島に倭の北岸があり、そこは狗邪韓国と呼ばれているということになります。倭地は
対馬海峡をはさんで両岸にあると認識されており、対馬海峡北岸にある倭地の狗邪
韓国まで帯方郡から七千餘里あるということになります。

  狗邪韓国への行き方ですが、海岸にしたがって水行し、ということですから帯方郡
を出るとすぐに船に乗ることになります。海岸にしたがって水行し、という意味は、海
岸線に沿って船で行くということです。遠く外洋を進むということではなく、海岸が見え
る範囲のところを進む意味になります。

  ここまでは各論者の中で異論はないのですが、歴韓国乍南乍東、の部分の解釈
が二つに分かれております。

  従来からの大勢は、歴韓国乍南乍東を、韓国を歴(へ)て或は南に或は東に、と
読み、南にまっすぐ下がり、その後東にまっすぐ進むと言う理解です。つまり韓地の
西側及び南側を順次船で廻って狗邪韓国まで行く、というもので、今一つは古田氏
の読みのように、帯方郡から少し水行し、一旦上陸して韓地を狗邪韓国まで陸行す
るというものです。

  狗邪韓国まで水行する解釈は分かり易いのですが、陸行については少し説明して
おきたいと思います。
 「歴」ということは歴訪という言葉にありますように、順次経ていくという意味がありま
す。つまり韓地の中にある国々(集落)を次々に経て狗邪韓国に達する意味になりま
す。また、「乍ち南し、乍ち東し」ということは、南へ進んだかと思えば東に進む、とい
う意味になりますから、曲がりくねった道を南に行ったり東に進んだりすることを繰り
返しながら、全体としてはジグザグに東南方向へ進み狗邪韓国に到達することにな
ります。

  韓国の地図をご覧頂けばすぐに分かりますが、帯方郡から海岸線に沿って南に
水行しますとやがて陸地にぶつかりますので、一旦西に進まないと水行が続けられ
なくなります。この点は狗邪韓国まで水行と考える場合の弱点といえると思います。
また、「歴」を歴(へ)てと読み、「乍南乍東」を、或は南に或は東に、と読んで、海岸
から離れた沖合いを通過する意味が絶対に無いとは言い切れないにしても、韓地を
横目で見ながら通過するよりは実際に次々と経ながら狗邪韓国に到達すると考える
ほうが「歴」という字の意味からみても自然な感じがするように思います。

  水行、陸行の議論はかなり込み入っておりまして、通説はおおむね水行ですが、
古代史探求者の中でも見解が分かれております。私は陸行に分があると考えており
ます。その説明に入るためには少し回り道になりますが、まず三国志に従って当時
の東夷と呼ばれた国々の状況を見ておくことからはじめたいと思います。

東夷伝序文
  実は東夷伝には序文があります。その中で、魏の時代になって新しく分かったこと
を述べるという、一種誇らしげな気分が記されています。つまり、漢の時代に中国は
大きくその版図を広げたわけですが、その立役者となったのが張騫(ちょうけん)で
す。西域に遣わされ、黄河の源を見極め、諸国を経歴し、出先の役所を置いて統
(す)べ治めるようになった。それ以来、西域の事がつぶさに分かるようになった。と
前王朝の功績が述べられております。

  その上で、魏は(それまであまり良くは知られていなかった)東夷のことを実際に行
って見聞し、色々な国々の情報を得て、初めて、従来の認識と同じであった点はそ
れと確認し、また、新しく分かった点を、(中国の)歴史に書き記すことが出来る、とい
う趣旨の言葉で序文が結ばれております。

  つまり、単なる伝聞などではなく、実際に魏の使いが行って得てきた情報に基づい
て東夷伝が書かれているのですよ、また、漢が西域を明らかにしたのに対し魏は東
方を明らかにしました、と言っているわけです。東夷の国々としては長城の北千里に
夫餘(ふよ)、遼東の東千里に高句麗、そのまた東の日本海に面して東沃沮(よく
そ)、また、夫餘の東北千餘里には?婁(ゆうろう)が在り、?婁(ゆうろう)以北はまだ
良く分からない。さらには、高句麗と東沃沮の南に接し、三韓の一つである辰韓の北
側に接して?(わい)があり、その東は海であると記されています。この記述によれば
おおむね帯方郡の東側に?(わい)があることになります。

  簡潔にそれらの国々の状況を記した後に韓伝が続きます。その韓伝の直後に倭
人伝が置かれているのですから、他の東夷の国々と切り離して倭人伝だけ見るより
は、東夷伝全体の中の一部として、また、東夷伝の締めくくりとして倭人伝を理解し
たほうが俯瞰(ふかん)的に見ることができると思います。

  そういう目で見ると、倭人伝直前にある韓伝は倭人伝を読み解く上での重要な鍵
が含まれているように思われます。一里の長さの例にも取り上げましたが、「韓は帯
方の南に在り、東西海をもって限りとなし、南は倭と接す。方四千里なるべし。」から
始まり、韓には馬韓、辰韓、弁韓の三種があると記され、それぞれの状況が説明し
てあります。

  おおむね馬韓は後の百済の地域、辰韓は後の新羅の地域、弁韓(弁辰とも書か
れている)が主に洛東江の西岸で一時代栄え6世紀ころに滅んだとされる伽耶諸国
と言われた地域を指すと見られます。その中で、馬韓は半島の西側にあり五十余国
と記され、また、辰韓と弁辰(弁韓)はそれぞれ十二国、合わせて二十四国あり入り
混じっている(雑居)と書かれています。二十四国の国名も書いてあるのですが、単
純に数えてみると二十六国あるように見えます。これについては同一国名や類似国
名を除外して数えるとする説が一般的のようです。

  それはともかく、馬韓の五十余国は分かるようにはっきりと書いてあるのに対し、
辰韓と弁辰はそれぞれ十二国、合わせて二十四国としておきながら、国名は辰韓と
弁辰を区分しては書いてありませんで、二十四の国名が続けて書いてあるだけで
す。国名の前に弁辰または弁と付いている国を弁辰と見るとされておりますが、順序
は入り混じっております。

  これから見ると、「雑居」ということは単に人々が入り混じって住んでいるという意
味だけではなく、国々が入り混じって存在しているということではないか、つまり辰韓
と弁辰は一応の勢力圏はあるものの、境界はそれほど明確とはなっていない状態を
表しているのではないかと考えざるを得ないように思います。

韓地で鉄を産出
  韓地にある国々の風俗や産物、また生活の様子等も紹介されています。中でも特
徴的なことは、辰韓・弁辰二十四国の説明の中に鉄を産出するとあることです。鉄を
産出していた場所は製鉄遺跡の状況等から、伽耶諸国といわれた弁辰の国々の中
であることは間違いないと思われます。「韓、?(わい)、倭、従いて鉄を採る。」という
記述から見ると、一定の秩序に基づいて韓、?、倭の人々が鉄を採集していたようで
す。辰韓の北側に位置していた?からも人が来て鉄を採集していたと記述されている
ことは注目に値すると思われます。争って独り占めにするのではなく、何らかの基準
によって分け合っていた様子が感じられます。

  その鉄は農具や武器として使用されたことは疑えないと思いますが、同時に「中国
で銭を用いるように取引には皆鉄が用いられる。」と記述してあるところから貨幣とし
ても使われ、また、(楽浪、帯方の)「二郡に供給する。」との記述からは二郡に供給
するための道筋が確立していたことが窺がわれます。韓、?(わい)、倭の間では鉄を
中心とした一種の経済圏ができていたのかもしれません。少なくとも国々が入り混じ
って存在しながら大きな争いはなく、鉄という共通の財産を大切にしながら互いに結
びついている様子が感じ取れると思います。

韓と倭の接点
  韓伝の最後に辰韓・弁辰の二十四国の中に弁辰涜廬(とくろ)国という国があり倭
と界を接している、と記されています。「東西海をもって限りとなし、南は倭と接す」か
ら始まって最後の段で、「弁辰涜廬国、倭と界を接す」となっているので、三韓(馬
韓、辰韓、弁韓=弁辰)とは別のものとして倭があり、その倭と接しているのは弁辰
涜廬国である、という理解になると思います。

  一方、倭人伝では行程上最初に出てくる倭地が狗邪韓国です。ということを素直
に読めば弁辰涜廬国と狗邪韓国が界を接しているということになると思います。この
両国がどの辺りであったかということですが、涜廬は韓国読みではトンノとなるよう
で、釜山の少し北方にある東莱(トンネー)が発音も近く、有力候補と考えられます。
一方、釜山からは縄文土器が沢山見つかっており、縄文時代から日本列島の人々
と交流があったことを示しております。また、その中心部には「カヤドン」と呼ばれて
いる場所があります。以上はわずかな痕跡ですが、狗邪韓国は洛東江の左岸(東
側)の釜山付近が最有力と考えられます。

  一応はそうなのですが、ここ十数年韓国におきましては伽耶関係の研究が進んで
おりまして、最近の発掘調査では金海(洛東江右岸)と狗邪韓国の関係も俎上に上
る状況になっております。韓伝の「東西海をもって限りとなし、南は倭と接す」との記
述とあわせ考えますと、狗邪韓国は釜山から金海にかけての一帯とする考えも無視
できないように思います。釜山は外せないとしても、今後の調査・研究を待たないと
狗邪韓国の明確な場所は言い難いというのが現在のところです。

  その狗邪韓国まで帯方郡から七千餘里というわけです。

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参考文献
・三国志、魏志東夷伝 陳寿
・韓半島から来た倭国 李鍾恒(著) 兼川晋(訳) 新泉社
・伽耶はなぜほろんだか 鈴木靖民 他 共著 大和書房
・「邪馬台国」はなかった 古田武彦 朝日文庫
・失われた九州王朝 古田武彦 朝日文庫



第4号 邪馬壹國(1)

































































































































































































































































































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