No6:邪馬壹國(3)

魏と女王国との関わり
 三国志によれば魏使の来訪は卑弥呼への贈り物を運んだとき限りというわけでは
なく、塞曹掾使(さいそうえんし)という地位にあった張政という人物がこの後、女王国
と関わりを持つことになります。最初の使いから7年後の正始8年(247)に遣わされ、
難升米に拝仮して詔書と黄幢(こうどう)を授けています。これは卑弥呼が敵対関係
にあった狗奴国と戦うために使者を遣わして魏の出兵を求めたのに対し、魏は卑弥
呼の後ろ盾であることを明確にするとともに、卑弥呼に対して(無益な戦いはしない
よう)告げ諭したものです。

 ここで少し横道に入るかもしれませんが、卑弥呼の年齢ということについて考えて
見たいと思います。三国史記の新羅本紀に「阿達羅王20年(173)、倭国女王卑弥呼
が使臣を遣わし修交した。」という記事があります。三国志と三国史記という全く異な
った二つの隣国の史書が、卑弥呼という女王のことを記録していることから見て、少
なくとも卑弥呼が実在したことは疑えないように思います。

 卑弥呼が女王の位に就いたときを倭人伝は「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及
(すなわ)ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、
能く衆を惑わす。」と記しています。鬼道の実態は良く分かりませんが呪術のようなも
のではないかと考えられます。倭国が乱れて戦乱状態にあったときに有力者同士の
話し合いの中で共立されたという状況からは、あまり自己主張などは行わない若い
巫女のような女性が想像されます。恐らく10代半ばといったところではないでしょう
か。仮に15歳としておきます。擁立されてすぐに新羅に遣いを出したと思われます。

 最後の場面は張政が遣わされた時です。張政は難升米に拝仮しています。本来な
らば卑弥呼に拝仮するはずですが、それができず、そのすぐ後に「卑弥呼以って死
し」とありますから、恐らく卑弥呼は死の床にあり、まもなく死去したと見てよいのでは
ないでしょうか。

 そうすると、173年に15歳と仮定すれば、最初に魏に使いを出した景初2年(238)に
は80歳ということになり、倭人伝に「年已に長大なるも(略)」とされていることに合っ
てきます。また、張政が遣わされた時(247)には90歳近かったことになり、当時として
はかなり長命だということになると思われます。

 さすがに長命すぎるのではないか、ということで、色々受け取り方があるかも知れ
ませんが、これをどう判断するかは皆さんにお任せすることにしたいと思います。

 さて、卑弥呼の死後男王が立ちましたが皆が承服せず戦乱状態になったために、
卑弥呼の宗女で当時十三歳の壹与を立てて王とすることで国中遂に定まる、と記さ
れています。これから見ると宗女の壹与は卑弥呼が生んだ子供ではないようです。
また、卑弥呼が擁立された歳を十代半ばとみてもあながち見当違いとは言えないよ
うに思います。

 この時の年代ははっきりしませんが、このときに張政は壹与を告諭しています。そ
して張政の最後の関わりが、壹与が、魏に対する朝貢使節を遣わす時に合わせて、
張政を都(洛陽)まで送らせた時です。倭人伝にはこのときの年月が書かれていない
のですが、後の時代に成立した晋書他の記述から、時代が晋と変わった泰始2年
(266)のことであると考えて先ず間違いないと思われます。すでに蜀は滅び西晋の建
国を見て、三国鼎立の時代は終わっております。著者の陳寿としても三国志が対象
としている時代を超えてしまうので、明確な年代を書かなかった(書けなかった)と考
えられます。

 張政が最初に女王国に来たとき(247)から送られて帰国したと考えられる時(266)
まで、約20年が経過しております。あるいは途中で帰国したことが無かったとは言え
ないかもしれませんが、軍事顧問のような立場であったと想像される張政が約20年
の間に倭人の国々の状況をよく把握したであろうことは想像するのに難くありませ
ん。その報告が東夷伝および倭人伝の下敷きになっていると推測するのは決して無
理なことではないと思います。むしろ、その報告があったからこそ倭人伝が書かれ
た、と考えてもよいのではないでしょうか。さらに、張政が帰国した頃は陳寿(233-
297)は三十代初めであり、体力、気力とも最も充実していた時期ではないかと思わ
れます。その時すぐかどうかはともかく、張政を見た或は直接話を交わした場面が無
かったと想像するほうが難しいのではないでしょうか。

 倭人伝は魏使が実際に女王国に行き、卑弥呼に会ったことに加え、何年かの滞在
実績の報告を踏まえて書かれている、ということを疑うのは難しいと思います。

女王国への道筋
 さて、当時の状況が良くつかめたところで、倭人伝に沿って女王国への道をたどっ
てみることにしましょう。

 狗邪韓国からは海路になります。
 原文では「始度一海 千餘里 至対海国」となっています。
 始めて一海を度(わた)る、千餘里、対海国に至る。
 という読みに異論は無いと思います。

 対海国が現在の対馬であることは異論がありませんが、あまり聞きなれない名前
であるため、対海国は中国側の呼び方であるとの解釈も出来るかもしれません。
が、この領域はすでに倭地と認識されていること、また中国人としては初めて正式に
踏破した記録に基づいて書かれていることは間違いないと思われることから、当時
倭人側での呼び方がそうなっていた、と理解するよりないようです。一応の支配機構
もあったようで、大官を卑狗(ひこ)と曰(い)い、副を卑奴母離(ひぬもり)と曰う、と書
いてあります。さらに、居る所絶島、方四百餘里なるべし、と続きます。

 居る所絶島、とはぴったりの感じがします。ご承知のように対馬は南北に長く上島
と下島に分かれています。比較的平らで人も多く住んでいたと思われる上島を、4百
余里四方と見たと考えられます。土地や住まい・生活に関することも書いてあるので
すが省略して先を急ぐことにします。

 次いで、また南に一海を千里渡って一大国(壱岐)に到着します。こちらは方三百
里なるべし、とあります。一大国とはいかにも聞きなれない名前なので、位置関係か
ら壱岐であることは間違いないものの、これも中国側の呼び方ではないか、という見
解も多く見られます。この領域は対海国同様すでに倭人の領域と認識されていると
考えられますので、やはり倭人側の呼び方がそうなっていたと考えざるを得ないと思
われます。これも後に詳しく触れることになりますが、最近の古代史の探求の結果、
壱岐を中心に天国(あまくに)と呼ばれる領域があったと考えられるようになりまし
た。「あま」は海人が好字を当てたとも考えられますが、今は深入りはしないでおきま
す。

 三国志全体の字の選び方から見て、文字というものに想像以上の吟味を重ねたと
思われる陳寿にとりまして、天国とは天子(中国の皇帝)のいうなれば親元でありま
す。とても使える文字ではなかったと考えられます。それで天という字を分解して一大
とした、という考えが有力であります。

 一大国を過ぎると次は、また一海を千里渡って末盧(まつろ)国とあります。
ついに九州に到着しました。

 九州への到着点である末廬国は現在の松浦半島付近という理解が大勢であり、
私もそのように考えているのですが、一つ難点があります。狗邪韓国から対海国を
経て一大国までの間は海と島ですので、他の所に行きようがありませんが、一大国
からは北部九州のかなり広い範囲に到着することが可能です。倭人伝では狗邪韓
国〜対海国、対海国〜一大国、一大国〜末廬国がそれぞれ1千里とされておりま
す。地図上で直線距離を測ってみると、狗邪韓国〜対海国は約100キロ、対海国〜
一大国は約75キロです。少し幅がありますが海上ということもあり多少の誤差を見れ
ば短里で表示されていることはうなずける範囲でしょう。一大国〜末廬国を同じく直
線距離で計ってみると約25キロ(三百里見当)となり、海上ということを考慮しても誤
差の大きさが気になります。

 一海を度(わた)る、と言うことを1千里とみなした、と割り切れば済む問題ではあり
ますが、このことを問題と考える論者のなかには到着点を壱岐から1千里見当の福
岡県北部に求める方もおられます。対海国から一大国へは、南に一海を度(わた)
る、となっているのに対し、一大国から末廬国へは単に一海を度(わた)る、となって
いることも到着点を分かり難くしていることは否定できないようです。

 九州への到着地点の問題は、倭人伝の記述に従って納得性のある女王国の場所
に到ることができるかどうか、と言うことで判断するよりないと思われます。ここでは
到着後の進行方向が、末廬国→伊都国→不彌國となっていることからみて、末廬国
は松浦半島の辺りだと見て次に進むことにします。

 多くの論者は、いわゆる邪馬台国論争におきまして、九州に到着してからが本当
の場所探しだとして色々な説が展開されていることはご承知の通りです。皆さんも興
味をお持ちのポイントだと思います。重要なところですので少々煩わしいかもしれま
せんが、先ず一大国から末盧国を経て女王国にいたる読み下し文を見ておくことに
したいと思います。

 又、一海を渡る、千餘里、末盧国に至る。四千餘戸有り。山海に濱(そうて)居る。
草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕え、水、深浅と無く皆沈没
して之を取る。東南陸行、五百里、伊都国に到る。官を爾支(にし)と曰い、副を泄謨
觚(せもく)・柄渠觚(へこく)と曰う。千餘戸有り。世々王有るも、皆女王國に統属す。
郡使の往来、常に駐る所なり。東南奴國に至ること百里。官を蒋馬觚(じまく)と曰
い、副を卑奴母離(ひぬもり)と曰う。二萬餘戸有り。東行不彌國(ふみこく)に至るこ
と百里。官を多模(たも)と曰い、副を卑奴母離と曰う。千餘家有り。南、投馬(つま)
國に至ること、水行二十日。官を彌彌(みみ)と曰い、副を彌彌那利(みみなり)と曰
う。五萬餘戸なる可し。南、邪馬壹國に至る、女王之都する所、水行十日、陸行一
月。官に伊支馬(いしま)有り、次を彌馬升(みましょう)と曰い、次を彌馬獲支(みま
かし)と曰い、次を奴佳幀(ぬかてい)と曰う。七萬餘戸なる可し。女王國自り以北、
其の戸数・道里、得て略載す可し。其の餘の旁國は遠絶にして、得て詳(つまびら
か)にす可からず。

 この後に第4号で記しておきました三十国の名前が続き最後に、「郡自(よ)り、女
王國に至る、萬二千餘里。」として女王国の位置に関する倭人伝の記述が終わりま
す。この中にも色々と興味あることが書いてあるのですが、話を簡単にするため方
角と距離に関連した部分を抜き出してみることにします。

 又、一海を渡る、千餘里、末盧国に至る。
 東南陸行、五百里、伊都国に到る。
 東南、奴國に至ること百里。
 東行、不彌國(ふみこく)に至ること百里。
 南、投馬(つま)國に至ること、水行二十日。
 南、邪馬壹國に至る、女王之都する所、水行十日、陸行一月。
 郡自(よ)り、女王國に至る、萬二千餘里。

 色々言われておりますが、いわゆる邪馬台国探しは、倭国に入ってからの女王国
の位置に関するこれだけの記述をどのように理解するか、ということに尽きると言っ
ても良いかもしれません。

 最後の、「郡自(よ)り、女王國に至る、萬二千餘里。」が帯方郡から女王国までの
総里程を表していることに異論はないと思います。つまり帯方郡から女王国までは一
万二千余里だと言っているわけです。

 念のため、帯方郡から末盧国までの、今までに明らかになっている里程を確認して
おきましょう。(勿論倭人伝の中での計算上の話です)

 帯方郡治−狗邪韓国  =7000余里
 狗邪韓国−対海国(水行)=1000余里
 対海国−一大国(水行)=1000余里
 一大国−末廬国(水行)=1000余里
           合計一万余里

 ということで帯方郡から末盧国までで一万余里が明らかになっております。部分を
合計すれば全体になる、という原則は倭人伝においても通用するとすれば、女王国
まであと二千余里しか残っておりません。

 それでは末廬国から先に進んでみることにしましょう。

 初めは末盧国から「東南陸行、五百里、伊都国に到る。」の部分です。伊都国は現
在の糸島半島付近、つまり前原(まえばる)付近と見てよいと思いますが、少し難点
があります。というのは末盧国は松浦半島付近だとして、東南に陸行を続け500里進
むと山の中に入ってしまいます。前原付近に至るには、里程の500里は問題ないとし
て、進行方向をどこかで東あるいは少し北東に向けなおすことが必要になります。こ
こは最初に進む方向が東南だから(その後の進路変更は省略されて)「伊都国」は
前原付近として大きな矛盾はない、と考えるよりないと思っておりますが、多少の苦し
さが残ることは認めなければならないでしょう。一応その点は留保して次に進みたい
と思います。

 「東南、奴國に至ること百里。」とあります。うっかりすると読み過ごしそうですが里
程を考える上での大きなポイントが隠されております。つまり、伊都国から見て東南
百里に奴國があることには違いないのですが、問題は奴國が女王国に至る途中に
通った場所(魏使が実際に通った行程=主線行程)なのか、単に方向を示している
だけの場所(傍線行程)なのかという問題が含まれていると考えられます。傍線行程
というのは、我々が高い場所などから「あちらがXXだね」、と言って(実際には行かな
くても)場所を確かめる場面を想像して頂けばよいかと思います。

 見分けるポイントは実際の行動を示す言葉(この場合「行」)が入っているかどうか
という点にあります。例によって古田氏が三国志全文を検証された結果、「到(至)
る」という言葉は単に方向だけを示す場合と実際に行動を伴う場合と両方の意味で
使われており、前後の状況からどちらの意味か判断する必要があるようです。先ほ
ど抜き出した例で見ると全てに「到(至)る」が入っていますのでこれだけではどちら
の意味か判断できません。これに対し、「行」という言葉は実際に行った場合のみ使
用されており、漫然と方向を指す意味では使われていないことが明確になっておりま
す。つまり、末盧国から伊都国の場合は「東南陸行」となっておりますので実際に進
んだことを示していますが、奴國の場合は単に「東南」と方向のみが示されておりま
すので、ある場所(伊都国)から見て東南方向に「奴國」があることを確認しただけ
(実際には行っていない)と理解できるようです。

 次に「東行、不彌國(ふみこく)に至ること百里。」とあります。もう問題ありません
ね。「東行」となっておりますから、伊都国から東に百里進んで不彌國に至ります。

 次に「南、投馬國に至ること、水行二十日。」とあります。これはどちらでしょうか。
単に南とあり南行とはなっておりませんので、不彌國から見た「投馬國」の方向を指
していると見られます。投馬國(薩摩とする考えが有力)は遠くて里程がはっきりしな
いため、目安として水行の日程(二十日)を書いていると考えられます。或は、当時、
投馬国までの陸路は確立されていなかったのかもしれません。また、奴国、投馬国
の二国だけが傍線行程に位置しながら特記されていますが、この両国は邪馬壹國
七万に次ぐ奴国二万、投馬国五万、の大国(他は全て千戸単位)であるため特記さ
れたと考えられます。

女王之都する所
 さていよいよ「南、邪馬壹國に至る、女王之都する所、水行十日、陸行一月。」と出
てきました。ここも色々な解釈が生まれている箇所であります。不彌國から南の方向
に女王国があることは分かりますが、それが主線行程なのか傍線行程なのかを判
断する必要があります。投馬国と同じ書き方なので迷われるかもしれませんが、女
王国に向かっているのに女王国が単に傍線行程で書かれるはずがありません。ここ
は不彌國の南隣りに(南に接して=距離ゼロ)邪馬壹國がある、と言う最終到達点を
指していると理解されるようです。そう理解すれば行動を示す言葉が入っていない意
味もうなずけます。そこは女王の都であり、女王国に至る総日程は「水行十日、陸行
一月」というわけです。

 ずいぶんあっさりした感じを持たれるかもしれませんが、不彌國の南に接して女王
国がありました。勿論そこは女王国の入り口であり女王の宮殿はもう少し先になると
思われますが、そこまでは書く必要もないので、筆はそこで止まっていると考えられ
ます。

 そうかもしれないが里数が合わないように思う、という皆さんの怪訝な顔が見えるよ
うです。ごもっともであります。ではこれを里程面から検証してみることにしましょう。

里程の検証
 末盧国までは帯方郡からが一万余里でした。その後末盧国から女王国までは、
500+100+0=600里(末盧国-伊都国、伊都国-不彌國、不彌國-邪馬壹國)ですか
ら合計すると一万六百余里にしかなりません。一万二千余里とは差があります。部
分の合計が全体にならないように見えます。大体あっているから良いではないか、と
して済ましてしまうようであれば折角今まで積み上げてきたものが崩れてしまいま
す。ここで若き日の古田武彦氏は呻吟されたわけです。が、ある時明快な解答を得
られました。

 途中に対海国と一大国という二つの島国があります。我々は通常、島を点として考
えますが陳寿はそうではなかったのです。それぞれの島を、方四百里、方三百里と
書いてあります。およその形と面積を伴ったものとして捉えてあることになります。魏
使はこの二つの島は上陸して徒歩で進んだと思われます。というのは、読み下し文
の対海国や一大国の所を見ていただけば分かりますが、「土地山険多深林」とか
「道路如禽鹿徑」とか「有千餘戸無良田」とか「食海物自活」というように実際に行か
なければ分からないような風物の記述があります。

 ということは、島の反対側に行くのに魏使のような身分の高い人が山越えするとは
考えにくいので、海岸に近いところを廻って進んだと考えられます。であれば、その
各々の島を通過する場合、それぞれの方形を進むことになります。四辺を進めば元
に戻ってしまいますので、二辺を進んだと考えれば、二つの島で400×2+300×2=
1400里が出てきました。上で示した合計と合わせれば丁度一万二千余里になりま
す。(何度も言いますが、あくまで論理上の話です)

 出来過ぎと思われるかもしれません。
 でも、きっちりと部分の合計が全体になりました。論理的に詰めて納得できる結論
が得られたわけです。このことに納得頂ければ倭人伝には誤りや誇張が多いとし
て、都合の良い改定等を行った上で、いわゆる邪馬台国を論者の意図するところに
持っていく類の多くの説が、容易に成り立たないことが実感して頂けるのではないか
と思っております。

 さて、分かってみれば何だと思われるかもしれません。まさにコロンブスの卵という
感じがします。帯方郡から女王国まで総里程で一万二千余里、到着までに必要な総
日程は水行十日、陸行一月ということになります。皆さんには納得して頂けましたで
しょうか。

---------------------------------------------------
参考文献
・三国志 陳寿
・三国史記 金富軾(著) 金思Y(訳) 明石書店
・「邪馬台国」はなかった 古田武彦 朝日文庫
・「邪馬台国」徹底論争(第一巻) 東方史学会/古田武彦(編) 新泉社




第6号 邪馬壹國(3)


































































































































































































































































































































戻る
戻る