No9:三角縁神獣鏡(2)

 前メールで、古代の弥生墓や古墳から出土する銅鏡について、大枠をご理解いた
だいたことと思います。では、なぜ三角縁神獣鏡が魏鏡(卑弥呼が魏の皇帝から賜
与された鏡につながる)とされてきたのか、また、現在でもそれが大勢となっているの
か、という点について少し詳しく見て行きたいと思います。なるべく分かり易く説明する
積りですが、やや細かい話になることをご承知ください。

古代の銅鏡
 まず鏡そのものですが、中国では前漢の頃、日用品の化粧道具として使われてい
た、ということでは異論が無いようです。とは言っても現在とは違い、庶民の誰もが容
易に手に入るといったものではなかったと思われます。時代が下がると用途にも変
化が見られますが、今は一旦横においておきます。表は(顔が映るように)きれいに
磨かれていますので、どの鏡でも大差はありません。裏側には色々な模様や図案、
字などが鋳出されています。裏側の様式等には時代や地域等によって、かなりはっ
きりした特徴があるため、それを研究することで、作られた時代や場所が相当程度
分かるといわれております。少なくともある形式の鏡について、作られ始めた上限は
明確になると言っても良いと思います。

 三角縁神獣鏡と言われているものは、漢式鏡に比べ鋳出してある模様の凹凸が大
きく、図案も神獣(中には仏像等も)に特化しており、外縁部が横から見ると三角形に
盛り上がっているためその名前があります。

 鏡に鋳出された文字や鏡の形式、文様といった鏡についての幅広い研究は富岡謙
蔵氏によって始められ、梅原末治、小林行雄といった方々によって相当程度深化さ
れることになりました。残念ながら結論につきましては必ずしも首肯できない部分もあ
りますが、まずは事実関係を中心に、それらの研究の後を辿ってみましょう。

 まだ漢式鏡とか三角縁神獣鏡というような呼び方が確立していなかった時期、鏡の
研究を学問レベルにまで高めたことで知られる富岡謙蔵氏によって、鏡が中国製か
日本製かということを見分けるポイントが提示されています。(「日本?製古鏡につい
て」富岡謙蔵 *?=人+方 :ぼうせい=倣って作る)

 それによりますと、日本製を見分ける四つの原則が示されています。簡単に紹介し
ますと、
1.鋳上がりが悪いため、文様・図案・線などが曖昧になっている
2.従って、図様(文様・図像)本来の姿が失われている
3.文字が無いこと、もしくは「文字に似て文字ではない」文様めいたものに崩されてい

4.鈴鏡(鏡の周辺に数個の鈴をつけたもの)は、中国にないから日本製である

 鏡研究の初期としてはやむを得ない基準(仮説)かもしれません。が、4.の鈴鏡は
中国にないから日本製だという基準は客観性があり理解できるものの、1.から3.の基
準は、要するに、鋳上がりがきれいで文字がある鏡が中国製で、鋳上がりが悪く、文
字が無いか崩れている鏡が日本製に違いない、という当時の思い込みが述べてある
ように思われます。

 たとえ思い込みであっても、研究の結果実証されれば、それが基準として認められ
ることになると思いますが、実証されなければ基準としては成り立たないことになるは
ずです。特に問題となるのは3.の文字に対する考え方です。

文字ある鏡
 通説では日本に文字が伝わったのは、応神天皇16年に、求めに応じて百済から王
仁が論語十巻、千字文一巻を持って渡来した時だとされています。応神天皇16年の
絶対年代を確定するのは難しいのですが、早い場合でも3世紀末から4世紀前半、通
常は5世紀初頭ではないかと言われております。

 それはともかく、王仁の渡来を求めた訳は応神天皇が、太子の(現代で言う)教育
係であった阿直岐(あちき:よく経典を読んだとあります)に対し、より優れた学問の
師の推薦を求めたからであります。このことだけから考えても、すでに経典が伝わっ
ており、経典を読むことができる人が居たわけで、どこまで普及していたかは別として
も、この時代はすでに文字を認識できる時代になっていたと考えられます。

 それより100〜200年程前と思われる卑弥呼の時代はいかがでしょうか。今一度、
魏志倭人伝に目を通して頂き、魏の明帝が卑弥呼に送った詔書に書いてある、かな
り長い文面を確認して頂きたいと思います。「親魏倭王卑弥呼に制紹す。から始ま
り、故に鄭重に汝に好物を賜うなり」までの部分です。卑弥呼が居た女王国では意味
も分からずにこの詔書をしまい込んでしまったのでしょうか。また魏の明帝は相手が
読めないと分かっていながらこのような詔書を送ったのでしょうか。

 その少し後段には、「倭王、使いに因って上表し、紹恩を答謝す。」とあります。これ
は卑弥呼が魏使に託して上表文を送り、詔書や贈り物に対するお礼を述べたことを
意味します。上表文の内容は書かれていませんが、文字が書かれていない上表文
は想像できません。

 女王国では漢文を読むことも書くこともできた、少なくともできる相当程度の人数が
いた、と考えるのが自然な理解であると思います。もう少しさかのぼれば、AD57年に
後漢の光武帝に朝貢した倭王は金印を貰っております。委奴国王は彫られた文字
の意味も分からず、ただ金印を有難がっていたのでしょうか。

 以上の状況を普通に考えれば、少なくとも紀元前後の頃には文字が入ってきてい
た可能性を全く否定するのは難しいように思います。更には、5号メールで甕棺墓が
長江河口地域から伝わった可能性について触れておきました、そして墓制というもの
が単独で伝わるとは考えにくく、人の移住に伴ったものであると考えれば理解し易い
とも述べておきました。そうだとすれば、(文字文明の中にいたはずの)渡って来た
人々は倭地に着いたら文字を忘れてしまった、と考えるよりは、たとえ一部の人々の
間であったにせよ、文字は伝えられてきた、と考える方が自然な理解ではないでしょ
うか。そのかすかな痕跡として、福岡県の平原(ひらばる)遺跡から、文字らしきもの
が線刻された(現在の判定でも)3世紀のものと考えられている甕棺なども見つかって
おります。

 という状況を踏まえて富岡4原則を今一度確認してみましょう。3.の、文字があれば
日本製ではない、という基準は、その根拠を失ったと言えるのではないかと思いま
す。では、1.2.についてはいかがでしょうか。

 中広・広型銅矛に見られるように、それ程きれいな仕上がりとは思えないような製
品が出土していることから、当時の技術レベルはあまり高くなかったという見方もあり
ますが、鋳型が発見されるまでは舶載(はくさい:大陸製)と考えられていた、例の細
型銅剣の鋳型が北部九州から出土していることから見て、当時の倭人社会にはかな
り高いレベルの技術者がいたことも疑えないと思います。また、北部九州を中心に巴
形銅器と呼ばれている独特の銅製品が多く出土しています。それらのことから、かな
りの鋳造技術の蓄積があったと考えてもおかしくはないと思います。

 以上から富岡原則のうち、1.2.3につきましては考え直す必要があるでしょう。すなわ
ち、銅鏡の鋳上がりや文字の有無だけで中国で製作された鏡かどうかを判定するこ
とはできない、ということです。

前漢式鏡の発見
 実は、?製とされた鏡にも文字があるものが有るのではないかと、最初に気がつい
たのも富岡氏その人でした。富岡氏は当時の常識(文字初伝は5世紀初め)に従って
文字がある鏡を中国鏡と考え、銘文の調査に取組む中で、福岡県の須玖(すく)遺跡
から出土した鏡の破片や三雲遺跡から出土した鏡(連弧文清白鏡)にある文字の書
体の研究から、これらが前漢の様式を備えた鏡であることを発見しました。日本で出
土する鏡は後漢末から三国時代のものと思われていた当時としては画期をなす発見
でありました。しかしながら、富岡氏は発表には慎重でありました。前漢の様式を備
えた鏡であっても、製作された時期は前漢とは限らないのではないかという疑問符を
つけての発表であったわけです。(?=人+方)

文字ある?製鏡(?=人+方)
 同じ富岡氏が調べた鏡の中に、後に方角規矩鏡(ほうかくきくきょう、別名TLV鏡)
と呼ばれる、新の王莽の時代をはさんで前漢から後漢にかけて作られた鏡がありま
す。鏡の模様にT、L、Vと読める模様があることからこの名前があります。そのTLV
鏡の範疇に入る鏡の中に、明らかに他のTLV鏡とは異なった外見(Tが無い、Vがバ
ランスを失するくらい大きい、模様も時代の異なる色々な形式の鏡の模様を雑然と
寄せ集めてある)を持つものがありました。数多くの中国鏡を見続けてきた富岡氏は
他のTLV鏡との比較からこれを?製鏡とされました。現在の目で見ても、この判定自
体は間違っていないと思われます。が、この鏡には文字がはっきりと鋳出してありま
した。(?=人+方)

 未発表となった富岡氏の遺稿からは、文字がある鏡が日本で作られた可能性に対
して、驚き逡巡する様子を読み取ることができるそうです。しかしながら、このことは
富岡氏の後継者によって深く掘り下げられることは無かったようです。このような早い
時期の形式で、文字ある鏡が日本で作られたとなると、応神期の文字初伝が崩れる
ことになる、更には今まで積み上げられてきた歴史観をも揺るがすことになりかねな
い、というようなことに対する漠然とした防衛反応的な本能が働いていたのかもしれ
ません。

鏡の文字が語るもの
 文字の有無だけに止まらず、書かれた(鋳出された)文字の内容分析にも富岡氏
を初めとした研究者の力が注がれました。まず、鏡の中に「陳氏作鏡」とか「張氏作
鏡」といった製作者の名前が入っているものがあることから、製作者は中国人だとさ
れました。中国風の製作者名が入った鏡が中国人によって作られたことは疑いにく
いと思います。また、国分神社(大阪府)所蔵の、茶臼山から出土した、三角縁神獣
鏡などの銘文にある、「銅出徐州」「師出洛陽」や「東王父・西王母」といった文字が
注目されました。

 「銅出徐州」とは鏡に使われた青銅は徐州産であり、「師出洛陽」とは鋳物師は洛
陽の出身である、ということを意味するようです。つまり、洛陽出身の鋳物師が徐州
の銅を使って作った鏡である、という意味です。また、「東王父・西王母」は神仙思想
の反映と考えられます。これらの文字から富岡氏はこの鏡の製作年代を、一旦は次
のように判定されました。

1.「洛陽」は漢代には「?陽」と書かれていたが、魏の時代(220〜)に「洛陽」と改めら
れた。 (?=各+隹)
2.「徐州」は宋の永初3年(422)以降「彭城郡」と改められた。
3.従って、この鏡の年代は220〜422年の間に作られたものである。
4.ところが、晋の時代(266〜420)は「師」の文字は始祖の縁者に司馬師がいた関係
上、「師」の字を使うことを避けた(中国では避諱といって、天子の名に当たる文字を
避ける慣例がある→いみなを避ける)。
5.従って鏡の年代は3.から4.の期間を差し引いた、220〜266年間、又は、420〜422
年間に作られたものである。
6.一方、三角縁神獣鏡に多く書かれている「東王父・西王母」といった神仙思想は六
朝期(東晋から南朝の宋にかけて)に流行した。
7.従ってこの鏡は南朝の宋(後の時代の宋と区別するため通常劉宋と言います)の
初期(420〜422年間)に作られたものである。

 ところが、その後になって、後漢時代に作られたことが明らかな鏡の中に「東王父・
西王母」という文字があることが見つかり、神仙思想が広まった時期はもっと前だと
いうことになりました。そして、死後発表された文章の中で、前の結論は間違っていた
として、判定を変更し「魏鏡(魏で作られた鏡)」と断定されたのです。

 しかしながら、皆さんお気づきのように、神仙思想の広まった時期が早くなったこと
は、この鏡が作られた時代の幅が広がった、という以上のものではなく、「魏鏡」と断
定するには材料不足です。

 今ひとつ、致命的な判断ミスがありました。晋の時代に「師」の字は避諱されてはい
なかったのです。明確な例として三国志があります。天子から正史として公認された
この史書の中で「師」の字は頻繁に出てきます。「避諱」のありかたは、時代によって
対象(天子だけか、皇后等も含むか)等にかなり幅があるようです。天子ではなく初
代天子の伯父であった司馬師の「師」が「避諱」されていたかどうかという点に関して
は、確認不足は否めないでしょう。まことに惜しまれることでした。

 富岡氏の研究は梅原末治氏によってさらに深化することになります。まず、「?陽」
が「洛陽」と書かれるようになった根拠を文献上に見出されました。「魏略」(三国志よ
り後に成立し、色々な版本などに注として引用されていることから信頼性の高い史書
と見られるが、完全な形のものは現存しない)の中で洛陽について書かれた部分に、
「?変じて洛となすなり」とあるところから、「洛陽」が用いられ始めた上限の年代が確
定し、そのことから三角縁神獣鏡が魏鏡とされました。 (?=各+隹)

 これも、洛陽という文字が使われ始めた上限が確定しただけで、三角縁神獣鏡を
魏鏡と断定するには材料不足であることに変わりはありません。このあたり、結論に
あわせて論旨作りが行われているような印象が無きにしも非ず、という感じがしま
す。或は文字ある鏡は中国製という当時の常識が強く影響していたのかもしれませ
ん。

 しかしながら、梅原氏は三角縁神獣鏡を魏鏡とするものの、中国や朝鮮から出土し
ないことに悩み、「将来の発見に期待したい」とされました。

同笵鏡理論
 その後を受けてさらに論を進めたのが小林行雄氏でした。小林氏は三角縁神獣鏡
の模様を細かく観察し、同じ鋳型(正確には同じ原型)で作られたものがあることを発
見されました。これを同笵鏡(どうはんきょう:正確には同型鏡ですが本メールでは同
笵鏡としておきます)といいます。そして、何回か使うことによる型の損耗度合いが反
映される僅かな仕上がりの違いから、同じ模様の鏡であれば、鏡が作られた前後関
係が分かることを見出されました。

 さらに、京都府の椿井大塚山古墳から出土した30数面の三角縁神獣鏡の中に多く
の同笵鏡があること、及び日本各地の古墳から出土した三角縁神獣鏡を丹念に調
べた結果、各地から出土した三角縁神獣鏡の中に、同笵関係にある鏡がかなりある
ことが発見されました。このことから、同笵鏡の分布は椿井大塚山古墳の被葬者が
その配布を行ったと考え、その背後には第三者が影響力を行使していた、という理
論を打ち出されました。

 つまり、魏鏡である三角縁神獣鏡は卑弥呼が贈られた鏡と類似性が強く、近畿の
一首長である椿井大塚山古墳の被葬者から各地の首長へ同笵鏡が配布された。こ
れは貢納(こうのう)ではなく恩賜(おんちょう)の意味であった。同笵鏡の分有関係に
ある各地の古墳の被葬者は、鏡の分配を通じて、椿井大塚山古墳の被葬者、ないし
彼に代表される、より大きな政治勢力(大和王権)に、結び付けられていた。とする壮
大な理論でした。意味するところは、大和王権による日本統一が済み、大和王権は
鏡の分配を通じて各地の豪族をその支配下に置いていた、ということになります。

 単に三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から贈られた鏡だから邪馬台国は近畿にあり、と
するだけではなく、同笵鏡の配布ということから、各地の古墳の被葬者を大和王権に
結びつけるという、一見完璧な理論でしたから、邪馬台国近畿説の大きな理論的支
柱となりました。現在でも小林氏が作成された同笵鏡の精密な関連図は色々なとこ
ろで引用されております。

 しかしながら、同笵鏡理論(正確には同型鏡理論)は、その精密な同笵鏡の分布関
係の調査とは対照的に、結論には飛躍が大き過ぎるように思えます。同笵関係は椿
井大塚山古墳と他の古墳ということだけではなく、椿井大塚山古墳以外の古墳間に
おける同笵関係も見られます。更には、同じ型から作られた鏡の全国の分布関係
が、なぜ分配関係とつながるのか、また、それが支配関係とどのように結びつくの
か、といったことに対する説明はありません。そうあって欲しいという願望が理論の形
をとって顔を出している、と言っては酷かもしれませんが。

 小林理論では服属に対する恩賜の意味で鏡が与えられたことになりますが、日本
書紀の記述ではそのようなことが行われた場面は見られないようです。逆に、服属の
しるしとして鏡を奉呈したと言う説話は何ヶ所かに出てきます。日本書紀に記載の、
時点、場所、人名等につきましては、時に疑問点も無しとしませんが、説話の持つ内
容につきましては特別な場合を除いて、史実の反映があるとしても差し支えないと思
われます。

 雄略紀9年条に、小鹿火宿禰(おかひのすくね)が朝廷を去って角国(つのくに)に
引退しようと考えたときに、八咫鏡(やたのかがみ)を大伴室屋に捧げてその旨を願
い出た、と言う記述があり、校注には、鏡の奉呈は統治権の委譲や誠意の披瀝を意
味するようである、となっております。

 また、景行紀12年、熊襲征伐に向かった景行天皇が周芳のサバに至った時に、そ
の辺りを支配していた部族の長である神夏磯媛(かむなつそひめ)が八咫鏡ほか三
種の宝物を捧げて帰順を願い出た、と言う記述があります。仲哀天皇紀にも同様の
説話が出てきます。

 これらの記述を見る限り、小林氏の労には敬意を払いつつも、鏡の分配を通じた
支配関係の確立、という結論を支える史実はなく、むしろ逆であると言わざるを得な
いと思います。

紀年銘鏡
 富岡氏から梅原氏に受け継がれ現在まで論議が絶えないテーマの一つが紀年銘
鏡の問題です。銅鏡の中には年号が記してある鏡がありますが、三角縁神獣鏡の中
にもそれほど多くはないのですが紀年銘が入った鏡があり、それらの中には魏の年
号が記してあるものも見られるところから、魏で作られた鏡であり、卑弥呼が貰った
鏡につながるとするものです。

 先ず、どのような紀年銘が入った鏡があるのか、銅鏡全体の中で主なものを見て
みることにしましょう。尚、鏡に入った年号は必ずしも完全にそのように読めると言う
ものばかりではありませんが、一応そのように読まれている、という物も含めて、紀年
銘、形式、出土場所の順に列挙しておきます。

 青龍三年、方格規矩鏡、大田古墳/京都
 青龍三年、方格規矩鏡、安満山古墳/大阪
 赤烏元年、平縁神獣鏡、狐塚古墳/山梨
 景初三年、画文帯神獣鏡、和泉黄金塚古墳/大阪
 景初三年、三角縁神獣鏡、神原神社古墳/島根
 景初四年、斜縁盤龍鏡、広峯古墳/兵庫
 正始元年、三角縁神獣鏡、蟹沢古墳/群馬
 正始元年、三角縁神獣鏡、森尾古墳/兵庫
 正始元年、三角縁神獣鏡、竹島古墳/山口
 赤烏七年、平縁神獣鏡、安倉古墳/兵庫

 これらの鏡からどのようなことが分かるのか、また、どのように理解されてきたの
か、というようなことについて次号で述べてみたいと思います。

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参考文献
三国志 陳寿
日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫
ここに古代王朝ありき 古田武彦 朝日新聞社
三角縁神獣鏡 藤田友治 ミネルヴァ書房
太宰府は日本の首都だった 内倉武久 ミネルヴァ書房


第9号 三角縁神獣鏡(2)

































































































































































































































































































































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鏡縁型式図
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方角規矩鏡
方角規矩鏡