No12:邪馬台国の位置

 三角縁神獣鏡につきまして縷々説明してまいりました。これが魏朝から贈られたも
のではなく、呉の工人が日本に来て作ったものだということはまず間違いない、という
ことは納得いただきましたでしょうか。この結果が指し示すところは、卑弥呼が魏朝
から贈られた鏡は、三角縁神獣鏡ではなく漢式鏡であるということになると思います。

 鏡につきましては、その材料となる青銅の原料の産地が問題とされたこともありま
すが、残念ながら日本で産出される原料と中国のものとは成分の特徴に共通部分が
多く(日本産出の原料の成分特徴は完全に中国産出の原料の成分特徴の範囲に入
る)、決め手にはならないようです。

 仮に、原料の産地が特定できたとしても、海東鏡で説明しましたように、青銅の原
料を持ってやってきたと思われる工人(青銅の持つ《不思議な》力で「海東」に至った)
もいたわけですから、鏡が作られた場所と直接結びけるのは難しいと思います。

 鏡につきましてはこの他にも、多数埋納されるようになった背景とか、工人の渡来
の痕跡とか興味深いテーマは尽きないのですが、別の機会に関連して述べることに
なると思いますので、この辺りで一旦打ち切り、邪馬台国の位置の検討に入りたいと
思います。

邪馬台国の位置
 前号まで、邪馬台国(倭人伝では邪馬壹國)について三国志(魏志倭人伝)をその
まま読めばどのようなことになるか、また、その結果は出土物等による物的裏づけが
得られるのか、と言ったことに関して説明してまいりました。一応、簡単に振り返って
みたいと思います。

・三国志(魏志倭人伝)の記述に素直に従えば、女王国は帯方郡から一万二千余里
(短里)のところにあり、所要日程は水行十日+陸行一月である。
・陸行の大部分は韓地で消化されている。
・この条件を満たす場所は北部九州の範囲にある。
・弥生時代における銅剣・銅矛といった青銅製の武器、また、刀・戈・鏃といった鉄製
武器の出土は、全国で北部九州が圧倒的に多い。
・弥生時代の絹の出土も北部九州に集中している。
・通説で強調される三角縁神獣鏡は中国では一面も出土しないことから中国製では
なく、文字や様式等の解析結果から呉から亡命した工人が日本に来て作ったものと
言える。
・卑弥呼が魏朝から贈られた鏡は漢式鏡と見られ、その出土は北部九州に集中して
いる。

以上、文献解読の結果と考古学的出土物の両者が一致して北部九州を指し示して
いることはご理解いただけたことと思います。それでは北部九州の中で上記の条件
に合うような場所(遺跡等)は具体的にどこが考えられるのか、ということについて掘
り下げてみたいと思います。その前提として、現在言われている遺跡の年代判定は、
問題も無きにしもあらずということで、一旦白紙に返し、倭人伝の記述や出土物を中
心に見ていくことにします。

まず卑弥呼の墓について検討してみましょう。倭人伝では「卑弥呼以って死し大いに
冢を作る。径百余歩。」と記載されております。この記載に該当するような形の墓が
北部九州にあれば決定的と言えると思いますが、7号メールでも触れましたように、
卑弥呼を葬った冢がそのままの形で残っている可能性は少ないと見られますので、
現在残っている塚や小型の円墳から直接卑弥呼の墓を見つけることはまず無理と
見て、倭人伝の記述や出土物等を吟味しながら迫ってみたいと思います。

 次に、現在分かっている範囲で、大量の漢式鏡が出土した遺跡(群)を押さえてお
きたいと思います。全国の大量の漢式鏡出土遺跡は全て北部九州に位置しており、
前原市の三雲南小路遺跡(57面以上)・井原鑓溝遺跡(約20面)や平原遺跡(約40
面)、春日市の須久岡本遺跡群(30〜40面)、飯塚市の立岩遺跡(10面)が知られて
おります。数についての歯切れがいまひとつなのは、割れて破片状態で発見される
ケースが多く完全には復元できない場合が少なくないことと、早い時代に発見された
ケースでは散逸して現在所在等が不明となっているものがあること等によります。

 そのほか注目される遺跡としては佐賀県の吉野ヶ里遺跡、福岡市の吉武高木遺跡
等があります。これらの遺跡を念頭に置きながら倭人伝を検証していくことにしたいと
思います。

 倭人伝では魏使の九州での上陸地点は末廬国です。一大国から千里という記述と
やや開きがある感じはありますが、海上である点を大目に見て、ここでは現在の松
浦半島付近と見て先に進むことにします。

 次に記載されているのが伊都国です。「世々王有るも、皆女王國に統属す。郡使の
往来、常に駐る所なり」と記載されています。倭人伝に記載がある三十国のうち「王」
がいるとはっきり書かれているのは女王卑弥呼がいる「邪馬壹國」と、この「伊都国」
だけです。このことから見て「伊都国」は倭人伝の中でも他の諸国とは一格違った位
置づけにあることが窺われると思います。

 この伊都国は現在の福岡県西部に位置する前原(まえばる)市付近ではないかと
いうのが大勢であり、この件に関しては私もそうではないかと考えておりますが、末廬
国から「東南陸行、五百里」と記載されており、最初に東南に進みだした後、唐津湾
に従って方向を東及びやや北東に向ける部分が省略されている、と理解せざるを得
ない難点があることは6号メールでも述べました通りです。その点は留保しつつ前原
市にある遺跡を見てみることにしましょう。

 前原市は海に突き出した北側に糸島半島があり、南に背振山系に属するピークの
一つである雷山を擁し、中間部が糸島平野となっています。前原市の南部、雷山の
北麓一帯は今でものどかな田園地帯で、背振山系を発していくつかの川が北流して
扇状地を形成しています。東南部の雷山川、瑞梅寺川、川原川に囲まれた辺りに弥
生時代から古墳時代にかけての遺跡が集中しています。

 西から、雷山川と瑞梅寺川に囲まれて平原(ひらばる)遺跡、瑞梅寺川と川原川に
囲まれて三雲南小路遺跡、そのすぐ南に井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡と言った具
合です。この狭い地域にある三つの遺跡だけで約120面の漢式鏡が出土していると
いう事実は過小に評価されてはならないと思います。全国で現在までに発見された
漢式鏡の約7割に相当します。

 念のためこれらの遺跡を古いと思われる順に概観しておきたいと思います。

三雲南小路遺跡
この遺跡は江戸時代の文政5年(1822)に発見されました。発見当時の様子を記録し
た『柳園古器略考』(青柳種信著)によりますと、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二
尺許」即ち、高さが90cm以上、胴の直径が約60cmの巨大なもので、その巨大な甕棺
が二つ、口を合わせて(合せ甕棺)埋められていた(1号甕棺)と書かれています。銅
鏡35面を含む豪華な副葬品もあったようですが年月を経て散逸しており、僅かに博
多の聖福寺に銅鏡一面と銅剣一本が伝えられているのみです。

最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、福岡県教育委員会によって発掘調査
が行われ、新たに高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な合せ甕棺(2号甕棺)が発
見されました。これも盗掘されていましたが、副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の
勾玉1個、ガラス製の勾玉1個、ガラス製の管玉2個、ガラス製の垂飾1個などが出土
しています。同時に、1号甕棺があったと思われる場所から江戸時代に取り残したと
見られる、ガラスの璧(へき)*8枚、金銅製四葉座金具8個分が見つかりました。銅
鏡は二つの棺から合わせて57面以上が出土していることになります。

 *璧:玉やガラスで作られ扁平な円盤形で中央に円孔を有する。表面に粒状文が
あり、穀璧ともいわれている。また玉の場合玉璧(ぎょくへき)ともいわれ、古代中国
で発達したが、日本でも福岡県前原町三雲遺跡・須久遺跡など弥生時代の遺跡から
発見されている。(日本考古学用語辞典)

この時の調査では、2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発
見されており、甕棺の上には墳丘があったと考えられます。墳丘は東西32m×南北
22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものであります。
周溝内には他に埋葬物等が見つかっておらず、墳丘は2基の甕棺の埋葬のために
造られたものと考えられております。

 出土した銅鏡(連弧文鏡)は、中国の前漢時代の遺跡から発見されたものとの比
較から、前漢時代(紀元前1世紀頃)の形式を備えた鏡であるとの判定には異論がな
いようです。このことからこの鏡をストレートに前漢時代に作られた鏡(前漢鏡)とされ
るのですが、私は鏡が作られなくなった年代(下限)は不明とするべきではないかと
思います。その点は留保しつつも、作られてから墓に納まるまでの時間等も考慮し
て、この王墓は紀元前後の頃に造られたものとする見方は首肯できるものです。こ
の時代にこれだけの副葬品を伴った王墓は全国で例を見ないようです。また、金銅
製四葉座金具は、中国の皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜するものだとする
説明が有力だとされております。これがどのような意味を持つのかは三遺跡を見渡し
た後で検討することにしましょう。

井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき) 
 上記三雲南小路遺跡の300mほど南に井原鑓溝遺跡と呼ばれる遺跡があります。
同じく『柳園古器略考』には、
「天明年間(1781〜88)に日照りで水不足のため井原村の次市という農民が、鑓溝
(三雲村との境界)というところで水口を開こうと棒で突いたところ、岸から朱が流れ
出し、怪しんで掘ってみると一つの壷が発見され、中から古鏡数十・鎧の板の如きも
の・刀剣の類が出土した。鏡の破片は数百片で、中には全うきものもあるが、そばで
見物していた者等が取ろうとして終には無くなった。その破片は彼農民の家に今もあ
り、そのうちの小片を拓本墨を用いて載せる。 文政6年(1823)4月」
と記されているようです。

 青柳種信は農民が保管していた鏡片27、巴形銅器2の拓本を残していますが、拓
本から復元される鏡はすべて方格規矩鏡で、21面分になるようです。上記でお分か
りのように、青柳種信が記録を残したのは、発見されてから30年以上後のことで、そ
のときにはかなりの数の鏡や鏡片は失われていたわけですから、発見当時はもっと
多くの鏡があったことは間違いないと思われます。

 拓本から分かる範囲では、鏡の多くが早い形式の方格規矩鏡であることから、1世
紀前半の新および後漢初期の製作と見られ、このことから、墓の年代はおよそ1世
紀後半〜2世紀初頭の間であると推定されております。この墓が上記三雲南小路遺
跡に次ぐ時代のものであることは異論を挟みにくいと思います。

 井原鑓溝遺跡はその後場所が分からなくなっていたのですが、近年、前原市教育
委員会による発掘調査が継続して行われ、甕棺墓・木棺墓・石棺墓など、弥生時代
後期に属する墓群と、それを切るように流れ、旧地籍図と一致する水路が検出され
ています。また、ガラス小玉170個とともに、割れた状態の方格規矩四神鏡ほぼ一面
分が出土しており、復元の結果は「柳園古器略考」拓本中の鏡片と細部は異なって
おりますが同型式で、この形式は、中国での制作年代が紀元1世紀頃とされていま
す。これらのことから、日本に伝来して副葬された時期幅を考慮すると、遺構の年代
は弥生時代後期頃と考えられるようです。いずれにせよ、ほぼ当時の場所を探し当
てたと考えられ、今後の調査が期待されております。

平原遺跡(ひらばるいせき)
 平原遺跡は昭和40年真冬の夕方、偶然に発見されました。巨大な白銅鏡の破片
や多くの内行花文鏡・方格規矩鏡がガラガラしていたそうです。在野の考古学者原
田大六氏が中心となって急遽発掘が行われました。直径約46cmの巨大な内行花文
鏡4面、方格規矩鏡32面、内行花文鏡3面、?(き)龍文鏡1面、あわせて銅鏡40面、そ
のほか、素環頭太刀1本、ガラス勾玉3個、メノウ製管玉12個、など多くの副葬品が
出土しています。

 その後、何度かの発掘・調査等で分ったことは、2基の墓が東西約14m、南北約10
mの周溝で囲まれており、このことは以前には墳丘があったことを示しております。ま
た、周溝から出土した土器からこの墓が造られた年代はAD200〜250頃と見られるよ
うで、鏡の形式もそれと矛盾していないようです。

前原三遺跡群と史書との関係について
 北部九州には韓半島との強い結びつきを窺わせる支石墓(ドルメン)*が多く見ら
れますが、この糸島周辺にもかなりのものが分布しており、縄文時代から弥生時代
の初期のものと考えられております。このことは遅くとも弥生時代初め頃からこの一
帯が栄えていたことを示しております。支石墓は稲作と時期を同じくして韓半島からも
たらされたのではないかとして、これを稲作の始まりと結びつける考えも有力なので
すが、稲作に関しては江南からの直接ルートも考えられており、ここでは深追いはし
ないでおきます。

 *支石墓:周囲に数個の支え石を置いた上に大石を置き、その下に遺骸を埋葬す
る墓。大石(蓋石)は地上に露出しており墓を保護すると共に一種の墓標を示してい
る。世界的に広い範囲で分布が見られる。(日本考古学用語辞典)

 そのような、古代から栄えていた地域の一角に上記三遺跡群が位置しています。
出土品は王墓というのにふさわしく、少なくとも紀元前後の頃には王国と言えるだけ
のかたちを備えていたことは疑いにくいと思います。

 まず、三雲南小路遺跡ですが、この付近には規模はそれほど大きくはありません
が2基の前方後円墳、また、後の時代の官衙の跡と見られる柱穴なども発見されて
おり、かなり長い期間にわたってこの一帯の中心地であったことが窺われます。この
遺跡の年代は紀元前後であることについてはおおむね一致しておりますが、紀元前
というほうに力点を置くか、紀元後に力点を置くかは分かれるようです。また、出土し
たガラス璧は中国では王侯クラスの人物が身に着けるベルトの下げ飾りとして知ら
れています。ただ、ガラス璧をペンダントに加工したものなども発見されていることか
ら、こちらでも中国と同様の使い方をされたのかという点については疑問も出ている
ようです。

 金銅製四葉座金具は、中国の皇帝から身分の高い臣下に葬具として下賜されるも
のであったようで、中国では木棺の飾り金具として出土しています。三雲では当時木
棺は使用されていなかったため甕棺の中に入れられたと考えられます。いずれにせ
よ普通に手に入るものではなかったようで、三雲から出土した四葉座金具も、中国の
皇帝から身分の高い臣下に下賜されたものだとする考えが有力なようです。ここでは
慎重に「王」という言い方は避けられており、何か個人的な関係を示すものというニュ
アンスを感じますが、それよりは、当時中国王朝が王と認めた者に葬具として与えた
ものと言う見方に説得力を感じます。中国王朝を宗主とする冊封体制にすでに組み
込まれていた、或は、列島側からある種の見返りを求めて朝貢を行うということが、
すでにこの頃から行われていたことを示していると見てよいのではないでしょうか。

 そのように見た場合、中国王朝から見て遠方の夷蛮の王から朝貢があることは、
天子の徳化が遠くに及んだ(版図が広がった)として歓迎されることであったようで、
何らかの形で記録に残っていると考えてもあながち見当外れということではないよう
に思います。

 三雲南小路遺跡から出土した金銅製四葉座金具やガラス璧を朝貢の見返り(の一
部)と考えた場合、まず考えられるのが、中国から見て日本とのかかわりが明確な形
で現れる一番早い時代の記録である、後漢書の「建武中元二年(AD57)、倭奴國、
奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭國の極南界也。光武賜うに印綬を以てす」とい
う記事であります。志賀島から出土した金印が、このときに下賜されたものである、と
いうことには異論がありません。その読み方については通説の「漢の委(わ)の奴
(な)国王」と細切れに読む読み方は成立しないこと、また、区切り方としては「漢、委
奴国王」とならざるを得ないことは4号メールで説明した通りです。

 そうした場合、「委奴国」とはどの辺りにあって、どの程度の広がりを持っているの
か、また、何と読んだら良いのかというようなことについては、明確なことはよく分らな
い、とするほかありませんでした。

 しかしながら、志賀島の金印と、ほぼ同時代と思われる三雲南小路遺跡から中国
王朝が夷蛮の王と認めたとも考えられる金銅製四葉座金具やガラス璧が出土してい
ることを、全く別の二つの事実と見るか、或は関連していると考えるか、としたとき
に、北部九州の中でも隣り合せと言えるくらい接近したエリアの中に、ほぼ同時期に
志賀島を中心とした勢力と三雲を中心とした勢力の二つの勢力があり、夫々が夷蛮
の王と認められ、一方には服属のしるしとしての金印が贈られ、他方には葬具として
の金銅製四葉座金具や、ガラス璧等が贈られて、一方の金印だけが記録された、と
いう可能性が全くないとは言えないかもしれませんが、いま一つしっくりこない感じは
否めないと思います。

 また、二つを相互に関連がない別の事実の表れと見た場合、夷蛮の王と認めて金
印を下賜することは理解できますが、それ以前に接触等がない相手に対して、いき
なり葬具を下賜するということは考えにくいと思います。それよりは一つの勢力に対し
て贈られた二つの事実があり、そのうちの、より重要と思われる一つ(服属)だけが
記録に残された、と考えるほうが理解しやすいのではないでしょうか。つまり、奉貢朝
賀した時には金印が贈られ、後に死去が伝わって葬具が贈られたと考えるわけで
す。

 もしそうであれば、金印にある「委奴国」の範囲は、少なくとも糸島平野から志賀島
までを含む現在の前原市・志摩町から福岡市の西北部一帯(或は東部まで?)であ
り、その王墓が三雲南小路遺跡である、ということにならざるを得ないと思います。そ
うした場合、当時としては比較的大きな勢力圏と見られますが、それが一つとしてま
とまっていたのか、中がいくつかに分かれていたのかというような新たな疑問が生じ
ますが、それは今後の課題ということにしたいと思います。やや踏み込んだ推測かも
しれませんが、仮説として提示しておきたいと思います。

 「委奴国」の読み方については、残念ながらはっきりしたことは分りませんが、「奴」
の字を普通に読めば「ど」「ぬ」であり、「の」の可能性もありえます。従って、4号で挙
げておきました「いど国」、「いと国」のうち、「いと」とは読み難いように思い直しました
ので、訂正の上「いと国」は外すことにさせて頂き、代わりに「いぬ国」、「いの国」を案
として入れたいと思います。なお、金印自体の読み方からはこのようにならざるを得
ないと思いますが、後漢書には「倭奴國」と記載されております。これを当時あった何
らかの資料に基づくものと考えた場合、もう少し違った読み方が出来るかもしれませ
ん。或はしばしば見られるケースですが、金印のほうは倭の人偏が省略されている
だけかもしれません。いずれにせよ、推測の域を出ませんのでこれ以上の深追いは
避けたいと思います。

 また、三雲南小路遺跡が日本における銅鏡の大量埋納遺跡の最初のものである
と見られることにも注意が必要ではないかと思います。近畿地方で三角縁神獣鏡の
大量埋納が始まる時代よりも250年程度は早いと見られます。
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参考文献
平原遺跡 前原市教育委員会
日本神話の考古学 森浩一 朝日新聞社
大宰府は日本の首都だった 内倉武久 ミネルヴァ書房
兼川晋 私信
福永晋三 私信

参考Webサイト
伊都国通信
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/files/itokoku/tusin/honbun/tusintop.htm
全国遺跡旧跡案内 
http://inoues.net/ruins/welcome2.html



第12号 邪馬台国の位置
































































































































































































































































































































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井原鑓溝遺跡位置図
井原鑓溝遺跡位置図