No11:三角縁神獣鏡(4)

  邪馬台国の場所がどの辺りであるかということについて、通説(国内の大勢)では
説明できない問題が多くあることを分かり易く説明してまいりました。その鍵とされる
三角縁神獣鏡ですが、位置を比定するための決め手にならないことをご理解いただ
けますでしょうか。まだ説明しなければならないことは沢山あるのですが、鏡につきま
しては程々で切り上げて次に進みたいと考えております。まだよく分からないと思わ
れる方は発行人までご連絡をいただければ可能な限り対応を考えたいと思います。

  前号でご紹介した、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊氏の三角縁神
獣鏡に関する論考を少し詳しく見てみたいと思います。その骨子は以下のようです。
 
  まず、王仲殊氏が銅鏡の調査を手がけられた経緯ですが、それまで中国では化
粧道具の一つという扱いから十分な研究がされていなかった銅鏡について、出土数
も多く履歴もはっきりしていることから有力な歴史資料として、当時の日中両国間に
おける政治・経済・文化の各方面の交渉往来にかかわる歴史の解明を視野におい
て研究に取り組んだとされます。
 
  このことから窺えるように王仲殊氏の場合、鏡自体の研究に重点があり、その中
で三角縁神獣鏡の製造地の問題が捉えられているのに対し、日本の学者が主として
邪馬台国の所在地問題を考える上での鍵として三角縁神獣鏡の研究に取り組まれ
ているのとは、動機や目的を異にしていることに留意しておきたいと思います。

 それでは王仲殊氏の論考を追ってみましょう。長文ですので、要旨を箇条書きで記
した上で、区切り毎に、私の理解や説明を加えることとします。まず、中国での鏡製
造の歴史について述べられています。長江流域と黄河流域との違いに注目願いたい
と思います。

1.「漢書」や「後漢書」などの関係記事を調べると、長江流域では前漢及び後漢前期
に比べ、後漢中期において社会経済上の発展が認められる。
2.秦の始皇帝や漢の武帝が江南に置いた会稽郡は、後漢中期に呉郡と会稽郡とに
分割され、それぞれ呉県(江蘇省蘇州)と山陰県(浙江省紹興)とが郡治とされた。
3.呉郡の呉県では、後漢中期から、新考案の画像鏡、磐龍鏡、環状乳神獣鏡(年代
の最も早い平縁神獣鏡)の鋳造が盛行し、江南における銅鏡製造の中心となった。
4.会稽郡の山陰も重要な銅鏡の製造地であり、漢末の建安年間(196−220)には山
陰の鋳造業は一段と発展し、重列式神獣鏡と対置式神獣鏡に代表される新式の平
縁神獣鏡を製造するようになった。こうして山陰は、呉県と並ぶ江南第二の銅鏡製造
業の中心地となった。
5.三国時代に入っても呉県の銅鏡製造は引続き隆盛し、呉主孫権が黄初(魏の年
号)2年(221)から黄武(呉の年号)年間を経て、黄龍元年(229)まで都を武昌(湖北
省鄂城)に定めたことで鏡職人も武昌に移動し(させられ)、武昌が第三の鏡製造の
中心となった。
6.武昌で作られた鏡は呉県や山陰と同じく主として重列式・同行式・対置式神獣鏡で
ある。
7.このほか、仏教が次第に隆盛に向ったため呉の中期から長江中下流域では仏像
を図柄とする画文帯仏獣鏡と仏像?鳳(きほう)鏡なども呉から西晋に受け継がれた。

  三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が後漢中期に長江流域で新しく考
案され盛んに作られていたことが述べられています。続いて黄河流域の状況が述べ
られます。

8.永らく政治経済の重点であった黄河流域では、後漢の首都洛陽の尚方工官(中央
の官営工場)を中心に銅鏡鋳造業が究めて盛んであった。
9.後漢の中・後期には、洛陽のある中原から北方にかけての地域で、内行花文鏡・
方格規矩鏡・?鳳(きほう)鏡・獣首鏡・盤龍鏡・双頭龍鳳文鏡などの様々な銅鏡が広
く作られた。
10.このうち、内行花文鏡と方格規矩鏡の二者は、前漢と後漢前期の様式を少し変
えて受け継いだものであるが、他は全て新案の様式として現れたものである。
11.ただし、画像鏡と神獣鏡とは、中原と北方地域では全く流行していない。
12.考古学の発掘の際には環状乳神獣鏡がまれに出土するが、その数は少なく、こ
れらは南方の長江流域からもたらされたものと見たほうがよい。
13.後漢の末年に大規模な戦乱が勃発したために、中原一帯の人口は激減し経済
は疲弊した。考古学的に見ると、この時期に黄河流域で出土する銅鏡は数も少なく、
その種類も、後漢中期様式のものに限定される。
14.また、洛陽などでは、当時作られていた新様式の鏡が多数出土するが、その種
類は、いわゆる「位至三公鏡」に限られ、形式や文様は双頭龍鳳文鏡を受けてはい
るが、大きさは小さく作りも粗雑である。これは銅鏡製造業の凋落を物語る。
15.後漢末の建安年間に江南で流行した重列式と対置式の神獣鏡は、広大な黄河
流域では殆ど一面も見当たらない。三国時代に入ってもこの状況に変化は無い。
16.ある学者が「魏の黄初紀年銘の神獣鏡」と誤認した銅鏡は、実際には呉の職人
が呉都武昌で作って、呉の領域内で使われたもので、魏の鋳造業とは少しも関係な
い。
17.ただ、西晋の泰始年間(264〜274)後期になると、呉の鏡鋳造業の影響を受け
て、中原地区でもやっと、「呉型鏡」と言われる神獣鏡が作られるようになった。
18.しかし、西晋の滅亡にともなって、黄河流域の銅鏡鋳造業も衰亡へと向かい、行
き詰まりの状態になった。

  黄河流域では前漢、後漢を通じて銅鏡の製作が盛んであったこと、(黄河流域の
鏡を代表する)内行花文鏡と方格規矩鏡は前漢時代から作られていたこと、また、?
鳳(きほう)鏡・獣首鏡・盤龍鏡・双頭龍鳳文鏡などが後漢中期以降に新案の様式と
して現れた。さらには、後漢末期以降、戦乱の勃発による経済疲弊が進み銅鏡製作
も衰退に向かったこと、(三角縁神獣鏡と共通点が多い)画像鏡や神獣鏡は西晋の
泰始年間(264〜274)後期までは全く作られていなかったこと等が述べられていま
す。

  後漢末期の黄布の乱に端を発した戦乱により洛陽は焼け野原となり、銅鏡の製造
は疲弊したようで、このころ黄河流域で作られた鏡は粗末なつくりのものが多く、ま
た、鉄製の物まで作られていたようです。このような背景を踏まえると、魏朝から卑弥
呼に下された詔書の中に、銅鏡ばかりをプレゼントします、という言外の意味を感じ
取っておられる学者もおられます。
 また、黄河流域で三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が作られ始めた
のは卑弥呼の時代を下がる西晋の泰始年間になってからだということは、三角縁神
獣鏡が卑弥呼が魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、銅鏡の製造
が衰退していたことを考えると、特注説も物理的に難しいといえるのではないでしょう
か。

  次いで中国の鏡と日本の鏡の比較がされております。

19.以上の状況を踏まえて漢末から三国に黄河流域で流行していた前述の各種の銅
鏡と、日本出土の三角縁神獣鏡とを比べてみると、両者の間にはなんら共通点が無
いことに直ちに気がつく。このことから三角縁神獣鏡は中国の魏鏡ではない、と断言
できるのである。
20.一方、長江流域で出土した呉鏡と三角縁神獣鏡とを比較すると、類似するところ
が少なからずある。
21.まず、呉の平縁神獣鏡と比べると、内区の主文となっている神像と獣形が互いに
似ている。次に、一連の画像鏡と比べれば、断面が三角形になっている縁部、複線
波文帯が二重の鋸歯文帯の間に巡っている外区の装飾が似ている。
22.さらに、一部の三角縁神獣鏡(三角縁仏像鏡)の文様にある仏像と、画文帯仏獣
鏡や仏像?鳳鏡などの仏像を比べれば類似点が見られなくもない。
23.つまり、鏡の形式と文様からすれば、三角縁神獣鏡に含まれる素因は、呉鏡にこ
そ備わっているのであり、三角縁神獣鏡は呉鏡の範疇に属するものと言える。

  黄河流域の鏡と三角縁神獣鏡とには共通点がないこと、また、長江流域の鏡と三
角縁神獣鏡とに見られる共通点について述べられております。続いて三角縁神獣鏡
に見られる特徴について触れられております。

24.しかし、鏡の全体を見ると、魏鏡・呉鏡のいずれも三角縁神獣鏡とは異なってい
る。
25.つまり、北方であれ南方であれ、中国から出土するどの鏡と比較しても三角縁神
獣鏡はこれらに見られぬ特色を持っている。
26.即ち、三角物神獣鏡の巨大な大きさ、高く鋭くとがった外縁部は言うまでもなく、
内区外周のいわゆる「唐草文帯」、文様と銘文の間にはまり込んでいるいくつもの乳
状突起、「笠松形」文様、は魏鏡でないばかりか呉鏡とも異なっていることを示してい
る。
27.これまでかなり広く調べたが、中国全土のどこからも、たとえ一面でも三角縁神獣
鏡が発見されたことはない。
28.以上から、いわゆる「舶載鏡」とされる日本出土の三角縁神獣鏡は、呉の職人が
海を渡って東方の日本に行き、日本で作ったものであると言わざるを得ない。
29.茶臼山古墳(大阪府国分)、大岩山古墳(滋賀県野洲町)から出土した三角縁神
獣鏡には「至海東」という銘文があり、私の説を裏付ける有力な証拠である。

  三角縁神獣鏡だけに見られる独特の形や文様、また、三角縁神獣鏡が中国から
は一面も出土しないという事実から、中国で作られたものではなく呉の職人が日本に
来て作ったものだとの結論の提示、および、その裏づけとして「海東鏡」が挙げられ
ております。次いで問題の「景初三年」「正始元年」の紀年銘鏡についての考察です。

30.これまで日本の多くの学者は、三角縁神獣鏡は中国の鏡であって、これらは魏の
皇帝が景初三年と正始元年に、日本の邪馬台国の女王卑弥呼に与えた贈り物であ
ると久しく唱えてきた。
31.これ即ち有名な魏鏡説で、神原神社古墳(島根県)、蟹沢古墳(群馬県)、森尾古
墳(兵庫県)、竹島古墳(山口県)などから出土した三角縁神獣鏡の「景初三年」「正
始元年」という紀年銘が、この説の重要な根拠とされてきた。
32.三角縁神獣鏡を呉の職人が日本で作ったものとした場合、なぜ、その銘文の中
に魏の年号である「景初三年」や「正始元年」という紀年があるのであろうか。
33.この疑問については、私は1981年発表の「日本の三角縁神獣鏡の問題につい
て」において答えを出している。すなわち、日本に移住してしまった中国の職人の頭
の中では、中国はひとまとまりの国であり、魏と呉の境界などはすでに希薄となって
いる。また、魏は中国の大国であり、その首都洛陽は伝統ある都城、正統性を象徴
する都であった。
34.しかも邪馬台国と魏との交渉は緊密であり、呉の職人はこの邪馬台国に居住して
いたのであるから、三角縁神獣鏡を作るに際して、その銘文に魏の「景初」「正始」と
いう年号を使用したとしても不思議は無かったのである。
35.以上の見方を実証するため上記鏡の銘文について全面的な考察を行った。これ
までの研究者はどういうわけか銘文の中の「景初三年」「正始元年」の紀年には注目
したが、その銘文全体に含まれる意義を丁寧に分析することはなかった。
36.そこで私は、景初三年鏡の「本是京師、絶地亡出」と正始元年鏡の「本自州師、
杜地命出」という銘文には、二つながら次のような意味が込められていると指摘し
た。
37.すなわち、この鏡を作った職人の「陳氏」は元々中国の揚州の京城の鏡作りの職
人であったが、亡命により故郷を出て、絶地(僻遠の地)と称される倭の国に至っ
た。・・という意味である。
38.以上のように私は、景初三年鏡と正始元年鏡の銘文そのものから出発して、三
角縁神獣鏡が東渡した呉の職人が日本で作ったこと、従って、銘文にある紀年は魏
鏡説を成り立たせる根拠にはなり得ないことを証明したのである。

  「景初三年」「正始元年」などの紀年銘鏡の銘文全体の解析から、これらの鏡は呉
の職人が亡命して絶地(僻遠の地)である倭の国で作ったとされる点は首肯できるも
のです。また、呉から来た職人がなぜ魏の年号を使ったのかという点の考察は、一
つの意見として参考にしても良いかもしれません。

  しかしながら、 34.で、呉から来た職人が邪馬台国に居住していた、ということが
唐突に述べられております。その根拠については触れられておりませんので真意は
良く分かりかねますが、王仲殊氏の中では無意識のうちに、倭(女王国)=日本とい
う等式が前提となっているのかもしれません。つまり、当時の日本全体(絶地)が邪
馬台国で、その中心地をめぐって近畿説と九州説等が争われている、というような理
解があるのかもしれません。また、王仲殊氏にとりましては、はじめに述べましたよう
に、鏡そのものが研究の対象でありますので、三角縁神獣鏡の生産地が中国かどう
かという点については深い考察の上で生産地が中国ではないとの結論を得られてお
ります。その反面、邪馬台国問題そのもの(邪馬台国の位置や邪馬台国と三角縁神
獣鏡との関係等)については特に意識されることなく通説が前提となっているのかも
しれません。まことに惜しまれることであると言わざるを得ません。

  続いて「景初四年」銘の鏡についての考察が示されます。

39.1986年、5度目の訪日の時に京都府福知山の広峯15号墳から景初4年銘の盤龍
鏡が出土し、時を同じくして、兵庫県西宮市の辰馬考古資料館に秘蔵されていた同
笵鏡が公開された。両者の実物を見た。鏡を作った日付が「景初四年五月丙午之
日」となっている。銘文の字体と文言から、この二つの盤龍鏡を製作した職人の陳是
(陳氏)と景初三年鏡と正始元年鏡を作った職人の陳是とは同一人である。
40.三国志、魏書の記載によると、明帝は景初三年正月に死去し、少帝(斉王芳)が
直ちに即位した。少帝は新皇帝が位を継承したその年はそのまま先帝の年号を踏
襲するという慣例に従い、その年は景初三年と称しその翌年に改元して正始元年と
した。
41.つまり、景初四年という年は実際には存在しなかったのであり、もしこれらの鏡が
洛陽で作られたとすれば、景初四年という年号が入ることは絶対にあり得ない。
42.しかし実際は陳是その人は遥か「海東」の倭地にあったのであるから、その時点
で陳是は、魏朝が正始と改元したことを知り得なかった。
43.そこで、すでに三角縁神獣鏡の銘文で「景初三年」という紀年を使用したのを継
続し、いまや盤龍鏡の製作にあたり、その銘文の中に(実際には存在しない)「景初
四年」を用いた。
44.魏志倭人伝によると、邪馬台国の使者難升米・都市牛利などが、景初三年六月
に日本から帯方郡に至り、同年の十二月、中国の首都洛陽で皇帝の「引見労賜」を
得て使命を達成した。
45. 難升米などが、たとえ早々と翌、正始元年の正月に帰国の途に着いたとしても、
道程は遥遠、交通も不便であり、恐らく邪馬台国に帰りつけたのは、この年の6月以
後であったろう。

  この段でも基本的な認識ギャップを指摘しなければなりません。明帝が景初三年
正月に死去したため景初年号は三年で終わり翌年には正始と改元されたため景初
四年という年号が存在しなかった、とされるまでは良いのですが、44.では卑弥呼が
使いを出した年が無条件に景初三年とされております。前号で説明しましたように景
初三年とすると説明しにくい問題がいろいろ出てきます。王仲殊氏としては、ここで
も、無条件で通説に依拠しておられるように見受けられます。

  論考は以下も続くのですが、生産地を含めた銅鏡そのものの分析には現物の確
認を背景として隙のない論証を示された王仲殊氏ですが、邪馬台国問題については
必ずしも根拠が明確ではありませんので、以下は省略いたします。

  以上やや長々と王仲殊氏の論考をご紹介いたしました。中国の専門家から見て、
三角縁神獣鏡がどのような鏡であるのか良くご理解いただけるのではないかと考え
たからであります。邪馬台国に関しては、通説に依拠していると思われる部分が見ら
れないではありませんが、私は、だからと言って銅鏡の論考そのものの価値が減ず
るものではないと考えております。

  王仲殊氏の論文は発表当時(1981年)日本の考古学界に晴天の霹靂とも思える
大きなインパクトを与えました。しかしながら邪馬台国近畿説が首の皮一枚で残るこ
とができたのは、王仲殊氏が付け加えた次の一言でした。「邪馬台国所在地が九州
か、はたまた畿内かは、当然、今後の研究を待つべきである。しかし、私は三角縁神
獣鏡が東渡の中国工匠の手で日本で作られたものだといっても、このことによって
『畿内説』が不利な立場にはならないと思っている。」

  王仲殊氏の論文は邪馬台国近畿説、九州説の双方から不評を買いました。理由
は説明するまでも無いと思いますが、近畿説からはいうならば命の綱である三角縁
神獣鏡が魏の鏡ではなく、また中国の鏡でもないという結論に、納得できないという
反応が寄せられ、九州説からは従来九州説の立場から言われていたことと大差はな
いのに結論(邪馬台国の位置)がはっきりしないだけではなく、かえってぼやけてしま
った、というような反応であったようです。結果として貴重な鏡の論証自体が宙に浮い
た感じになっているのは残念なことであると言わざるを得ないでしょう。私は、三角縁
神獣鏡は中国からは文字通り一面も出土していない、ということが裏付けられただけ
でも大きな意味があることだと思っております。

黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡
  さて、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡だという説は、メディア等で大きく
取り上げられる割に裏付が乏しいことは、今までの説明でお分かり頂けたことと思い
ます。そのような表には現れにくい実態を一挙に逆転するかのような状況が出現しま
した。黒塚古墳(奈良県)から大量の三角縁神獣鏡が出土したのです。1997年10月
のことです。

  三角縁神獣鏡は近畿を中心に分布してはいるのですが、その中心である肝心の
大和からは殆ど出土していなかったため、近畿説の方々にも迫力不足は感じられて
いたのだと思います。大和の中心部から大量の三角縁神獣鏡が出土した時に、これ
で決まりだ、という声も聞かれました。三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏の朝廷から貰っ
た鏡であるのは決定的だという意味です。そのような声がメディアを通じて流れました
のでご覧になった方も少なくないと思います。

  幸いなことに、黒塚古墳は未盗掘の状態で発掘調査が行われました。多くの古墳
が程度の差はあれ、過去に盗掘の被害を受けていることを考えれば、僥倖と言って
も良いかもしれません。そのお陰で、埋葬当時の状態がよく分かったわけです。出土
の状況をよく見てみると、いろいろと興味深い事実が判明してきました。それらの事
実は、むしろ三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡ではないことを証明しているように
思われます。

  鏡は全部で34面出土しましたが、木棺内の最重要な場所である頭部に置かれて
いたのは画文帯神獣鏡が一面で、残りの33面の鏡は三角縁神獣鏡でした。それら
の三角縁神獣鏡は、全て木棺の外に置かれ、被葬者を照らすように配置されていま
した。頭部に置かれていた神獣鏡は平縁であり、かつ画文帯で、径の大きさが13.5セ
ンチメートルと小さく、これらの特徴から、この鏡は明確に中国鏡で、しかも魏鏡でな
く、呉鏡であることは間違いないと思われます。

  これらのことから、この古墳の被葬者及び被葬者の親族にとって、一番重要な鏡
は中国(呉)製の鏡であったことは明らかです。三角縁神獣鏡はその他大勢扱いで、
木棺の外から被葬者を照らすように配置されていました。このことだけから見ても、
三角縁神獣鏡が卑弥呼が貰った鏡であることは考えにくいと思われます。

  よく観察すると木棺の外に置かれていた三角縁神獣鏡には興味ある特徴がありま
した。銅鏡にはどのようなものであれ、裏側の中央部に「鈕(ちゅう)」と呼ばれる丸い
突起があります。通常、鈕には穴が開いていて紐(ひも)を通すことができるようにな
っています。手鏡として利用する場合等において、持ち易さのためにあると考えられ
ております。

  使い込まれたと思われる鏡は鈕の穴が滑らかになっているのですが、黒塚から出
土した三角縁神獣鏡の中の相当数の鏡は、鈕の穴がつぶれていて紐が通せない
か、穴が開いている場合でも鋳放しの状態(鋳バリが残ったまま)で、きれいにさらえ
てないためギザギザになっており、紐を通してもすぐに切れるのではないかと想像さ
れる状態になっていました。

  これは黒塚古墳に限らず、他の古墳から出土した三角縁神獣鏡にも見られること
です。このことから、埋納された鏡は被葬者が生前に実際に使っていたものであると
は考えにくいため、(被葬者に限らず)鏡として普通に使用されていたものではなく、
埋葬用に特別に作られたものという可能性が浮かびあがってきました。

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参考文献
三角縁神獣鏡 王仲殊 著 西嶋定生 監修 学生社
三角縁神獣鏡 藤田友治 ミネルヴァ書房
日本神話の考古学 森浩一 朝日新聞社


第11号 三角縁神獣鏡(4)










































































































































































































































































































































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