No13:邪馬台国の位置(2)

 前号に続いて前原市の東南部にある3つの遺跡と史書等との関係について見てい
きたいと思います。次は、井原鑓溝遺跡です。最初に発見されたのは江戸時代の中
頃であり、出土物等が散逸しているため詳しい状況は今後の調査を待つよりほかあ
りませんが、墓の年代が1世紀後半〜2世紀初頭の間であると推定されていること
は、前号で述べました通りです。この時期に対応する史書の記事は、同じ後漢書の
倭伝にある「安帝の永初元年(107)、倭國王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を
願う」という記述くらいしか見当たりませんが、三雲南小路遺跡と場所的、また、時間
的に無理なく繋がるという点から、井原鑓溝遺跡は倭國王帥升に関連した遺跡であ
る可能性が高いように思います。

 同じ後漢書の倭伝の中で国名が、直前の金印の記事では「倭奴國」と記載され、こ
こでは「倭國」となっております。同じ倭伝の中ですから記述の対象は当然同じ倭
(国)であると考えられますが、表記の仕方が異なることについて少し考えてみたいと
思います。後漢書を書いた范曄(はんよう)は、特に対象や国名に対する異動の記述
はしていないことから見て、金印の「委奴国(後漢書の表記は倭奴國)」と帥升の「倭
國」の記事には50年の時間の経過はあるものの、対象自体は同じ国と認識していた
と考えて良いと思います。

 字面だけからみれば、金印時点では「委奴国(倭奴國)」であり、帥升の時点では
「倭國」に変っていた、ということになります。金印の読み方として、前メールで明確に
は分らないものの「委奴国」は、「いどこく」「いぬこく」「いのこく」などが考えられるとし
ましたが、問題は「奴」をどう読むかということであります。万葉以前は日本の漢字表
記は一定していませんが、ある範囲には収まっていたようで、音は中国音を使ってい
たと考えられております。万葉仮名の研究者でもある当マガジンのアドバイザー福永
晋三氏によりますと「奴」の字は「ぬ」「の」「ど」と読む場合に使われているようです。
因みに「な」と読まれた例は無いようで、このことからも金印を「漢」の「倭」の「な」と読
むことは出来ないようです。

 「いどこく」又は「いぬこく」の可能性は捨てきれませんが、金印の読み方が「いのこ
く」であったとした場合、「いの」の「の」を助詞の「の」とみれば「委の国」であったとい
う可能性が出てくるように思います。武蔵国を「むさしのくに」と言い薩摩国を「さつま
のくに」と言うように倭人が「委国」を「いのくに」と言っていたのを中国側が「いの国」
と思い、表記を「委奴国」としたということが考えられなくもありません。少し正確に表
現するならば、発音としては「いの国」よりは「ゐの国」の方が近いと思われますが、
所詮外国の音(言葉)を自国の音(言葉)で表記するわけですから、ある程度以上の
厳密性を求めても限界があると思われます。

 いずれかの時点で、中国側がそれに気づき、或は倭人側が指摘して表記を「委奴
国(倭奴國)」から「委(倭)國」に改めたという可能性が考えられます。もしそうであれ
ば、「委(倭)」といわれた国はどこかという新たな疑問が生じてきます。見方を変えれ
ば「い(ゐ)」といわれた国(場所)が見つかれば問題解決に一歩近づくのかもしれま
せん。

 そのことはしばらく置いて史書と遺跡の関係をもう少し見てみたいと思います。
 倭國王の帥升等が永初元年に献じた生口百六十人の意味については、今までは
殆ど取り上げられたことは無かったように思われます。生口とは文字通り生きている
口でありまして、判りやすく言えば奴隷のことであります。戦に敗れ捕虜となったもの
が生口とされたと考えられております。

 わざわざ生口を献上する意味がよく分らなかったわけですが、最近古代史探求者
で当マガジンのアドバイザーでもあります飯岡由紀雄氏が、中国洛陽郊外から発見
された、後漢時代中期の囚人の集団墓の磚(素焼きのレンガ)に彫られた、申し訳程
度の墓誌の記録の中に、死亡年が永初元年となっているものが多いことに気づかれ
ました。その墓は皇帝の墓(陵)を作るために使役(強制労働)されていた人々が葬
られた場所であったようで、頭蓋骨に打撲痕等の異常が見られるものも少なくないこ
とから、過酷な状況下で使役されていたことが窺われるようです。

 漢の皇帝は即位すると同時に自分の墓(陵)を作り始めます。これを寿陵と言うよう
です。寿陵には多くの労働者が必要だと思われ、倭國王の帥升等が永初元年に献じ
た生口百六十人も、或は寿陵に際しての労働力として提供されたのかもしれませ
ん。もしそうだとすれば、当時の交流の一端が垣間見えたような気がします。恐らく献
上された生口は二度と故郷の土を踏むことは無かったのではないでしょうか。古代の
残酷な一面が窺われるようです。

平原遺跡と史書
 前原市の最後は平原遺跡です。三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡の西側の少し小
高くなった曽根丘陵の中央部に位置しています。曽根丘陵では三雲のような生活や
政治関連と思われる遺構は発見されておらず、主に埋葬遺構が発見されていること
から、この墓の埋葬者も普段の生活の場は三雲が中心であったのかもしれません。
平原遺跡は、前の二つの遺跡が三国志の直前の後漢時代の遺跡と見られるのに対
し、時代的には、まさに倭人伝の時期に重なり、倭人伝で伊都国とされている時期に
相当するようです。

 それだけで見れば、委奴国がそのまま伊都国になった、と考えたくなりますが、話
はそう簡単ではないようです。という訳は、後漢書に「桓・霊の間、倭國大いに乱れ、
更(こもごも)相攻伐し、歴年主無し。一女子有り。名を卑弥呼と曰う。年長じて嫁せ
ず、鬼神の道に事(つか)へ、能く妖を以って衆を惑わす。是に於いて、共に立てて王
と為す」という記述があるからです。つまり、後漢の桓帝(147〜167)と次の霊帝(167
〜188)の間(の期間)に、倭国が大いに乱れ攻伐を繰り返し、歴年主(王)がいない
状態が続いていた、というのです。

 この記事は三国志・魏志倭人伝の「其の国、本亦男子を持って王と為し、住(とど)
まること七・八十年。倭国乱れ、相功伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為
す。名付けて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年己(すで)に長大
なるも、夫壻(ふせい)なく」を下敷きにして書かれていることは間違いないと思われま
すが、倭人伝では(三国志の対象期間外のことであるため)時期的なことが書かれて
いないのに対し、後漢書では時期的には桓帝と霊帝の間(の時期)である、と書かれ
ています。

 これは後漢書が書かれた5世紀初め頃までは、何らかの形で倭国が乱れた時期に
ついての記録等が残っていたことの反映と見られます。その点においては倭人伝に
足りない部分を補足していると考えられます。が、卑弥呼が「是に於いて、共に立て
て王と為す」とされた時は、その前に「年長じて嫁せず」という文言があるところを見る
と、著者の范曄は、共立された時点で、卑弥呼はかなりの年齢であったと見ているよ
うに思われます。

 仮に、共立された時点を霊帝の最晩年(188)だとしても、卑弥呼の没年は、倭人伝
によれば「卑弥呼以て死し、大いに冢を作る」のが正始8年(247)のことですから、共
立された時点から約60年後のことになります。「年長じて」から共立され、それから少
なくとも約60年間王位に居たことになります。「年長じて」という感覚が現在と異なって
いることは十分考えられるにしても、やや疑問が残ります。

 他方、6号メールでもご紹介しましたように、韓半島の史書である三国史記には、新
羅の阿達羅王20年(173)の記事に「倭国女王卑弥呼が使臣を遣わし修交した」とい
う記載があります。これは後漢書に言う、桓帝のある時期に倭国内で相攻伐する状
況が発生し、霊帝のある時期に和解が成立して卑弥呼が共立され、程なく新羅に使
いを出したとすれば、納得できます。

 その場合、(共立されたのは173年以前と考えられますから)共立されてから75年近
く王位に居たことになります。いくら当時とは感覚が異なるといっても、「年長じて」か
ら共立され75年近くも王位にいるというのは考えにくいのではないでしょうか。これは
范曄が陳寿の三国志を読み違えたのではないか、ということを考えてみる必要があ
りそうです。倭人伝を素直に読む限りでは、卑弥呼が共立された時点の年齢を示唆
する記述はありません。倭人伝の「年己に長大なるも」、というのは魏使が卑弥呼に
会った時点で受けた印象を表していると考えられます。范曄はそれを共立された時
点のことだと思い違いをして書いたと考えれば納得できると思います。卑弥呼は共立
された時点では6号メールで書きましたように10代半ばであり、共立されてすぐに新
羅に使いを出したとすれば全てが説明できるように思いますが、皆さんはどのように
お考えでしょうか。

倭国が乱れる背景
 後漢書に言う「桓・霊の間、倭國大いに乱れ」ということについて少し考えてみたい
と思います。これを期間的に見れば、大乱は桓帝の即位(147)と同時に始まり、霊帝
の最晩年(188)に終わったとすれば最長で約40年間続いたことになります。しかしな
がら、卑弥呼が新羅に使いを出した173年以前には収まっていたと考えられますの
で、大乱の終わりはもう少し早くなると思います。始まった時期は明確には分らない
のですが、新羅本紀には阿達羅王5年(157)に倭人が修交に来るという記事があり
ます。この記事ではそれがどのようなものであったかは不明なのですが、大乱の最
中には修好に使いを出すような余裕は考えにくいと思いますので、それまでは大乱
はなかったと考えても良いのではないかと思います。157年は桓帝の中頃に相当しま
す。大乱はこの頃以降に始まり173年までに終わったと考えれば、およそ15年程度乱
れた状態にあったことになります。腰だめ的に言えば、大体10年前後戦乱状態にあ
ったと考えてよいのではないでしょうか。

 三国志と後漢書を合せ考えますと、帥升の死は桓帝の中頃と見てよいと思います
ので150年代の半ば頃と見られます。帥升が安帝に使いを遣わした永初元年(107)
が、王位についてからどの程度経過した後かはよく分りませんが、住まること七・八
十年で倭国が乱れたということは、王位に就いたのは大体AD80年頃で、帥升の治世
は7〜80年続き、その死後倭国は混乱状態となったと考えると旨く説明できるように
思われます。

 もしそうだとすれば、帥升の前の王が金印を貰った王である可能性が高いように考
えられます。金印を貰った王の統治はその後30年弱続き、その後帥升が70〜80年
間王位にあり、帥升の死後約10年間戦乱状態が続き、その後卑弥呼が共立された
という倭国の流れが見えてきたように思います。古代人は短命だという漠然としたイ
メージがありますが、平均寿命は短かったとしても、王となるような人は体力や健康
にも恵まれていたと考えられますので、かなり長命な人が居た可能性も考えられるの
ではないでしょうか。

 「倭国大いに乱れ、相功伐すること歴年」という理由を倭国内の要因だけで考えれ
ば、全く想像するしかありませんが、東アジアの中での変化が、その一角にある倭国
にも及んだのではないかということは考えてみる必要がありそうです。

  漢(前漢)末の乱れに乗じ王莽が新を建国(AD8年)しましたが、基盤が固まらな
い内から強権的な政治を行ったため周辺部族等の離反を招き混乱が生じ、光武帝
により建武元年(AD25)後漢が建国されました。光武帝の治世は、従う限りにおいて
は、周辺の夷狄(と見ていた)諸部族等を安心させるものであったようで、年々朝貢
に訪れる周夷の範囲も広がりを見せています。委奴国が、建武中元2年(57)に奉貢
朝賀したのも、そのような周囲の状況と無関係ではなかったと思われます。つまり、
従う限りにおいては安心を与えるが、従わないと見れば討伐が待っているという、光
武帝の治世のあり方が辺境の倭人の国にも及び奉貢朝賀することになったのではな
いかと考えられます。

 その後しばらくは後漢の安定期が続きますが、漢が匈奴の帰順の申し出を蹴って
和帝の永元元年(89)北方に遠征を行い、長年の匈奴との抗争に決着をつけたこと
が裏目に出ることになりました。匈奴が居なくなった空白地帯に遊牧民族の鮮卑族
が入り込み、漢に対抗するようになったのです。1世紀の終末頃から鮮卑族が漢に侵
入を繰り返すようになります。

 比較的小規模のせめぎあいは毎年のように繰り返されるのですが、永寧元年
(120)には鮮卑と?貊(わいはく)が結んで遼東を寇し、漢が反撃して?貊(わいはく)の
首領を捕らえて斬ります。それに対抗するように高句麗が大軍を出して遼東を攻め、
漢は内地から援軍を繰り出して防戦一方となるなど、東北アジアでは遼東をめぐって
攻防が繰り返されるようになります。この中では高句麗が建国後しだいに体制を整え
漢の辺境を脅かす存在までに成長していることが注目されます。

 攻防を繰り返す中で鮮卑にも優れた統率力を持つ指導者が現れるようになり、檀
石槐(だんせっかい)という指導者が出ると鮮卑が大統一され、発展することになりま
す。強い指導者の下では餓えることがないので人々が集まっていったものと思われ、
発展に伴い人口が増えて食料が不足するようになります。その結果、食糧を求めて
鮮卑族の漢への侵入も本格化し、檀石槐は最初に漢に攻め入った永壽2年(156)以
降侵入を繰り返し、大きな被害を与えるようになります。

 手を焼いた漢王朝は使者を遣わして印綬を授け王に封じようとしましたが、檀石槐
は印綬を受けず、その侵略はますます激しくなり、大鮮卑王国を建国するまでになり
ます。この頃には年に何度となく侵略を行うようになっていました。多くの遊牧民がそ
うであるように、侵入して定住するのではなく、農耕地域の収穫時期を狙って侵入し
食糧を略奪して引き上げるというやり方ですが、略奪振りは徹底していたようで、農
民にしてみれば命からがら通り過ぎるのを待つか、新天地を求めて移動するよりな
かったのではないかと思われます。

 漢王朝もいつまでも見捨てては置けず、ついに決心して攻伐軍を編成して出撃した
のですが、檀石槐の迎撃に遭い大敗北を喫する結果となりました。結局侵入は檀石
槐が死ぬまで止めることが出来ませんでした。檀石槐は霊帝の光和年間(174〜84)
に45歳で死んだとされています。鮮卑族はその後も発展を続け200年程後には征服
王朝の北魏を建国することになります。

 2世紀の後半になると、鮮卑の侵入に有効な対処ができないことからも明らかなよ
うに、隆盛を誇った漢王朝も力の衰えは隠しようがなく、周辺では遊牧民族の独立の
動きが盛んになり、内には中平元年(184)に黄巾の乱が発生し、内乱の中に滅亡に
向かうことになります。

 檀石槐と倭人との関わりについて、後漢書に注目すべき記事があります。鮮卑伝
の最後に、「田畜射猟、食を給するに足らず。檀石槐乃ち自ら徇行し、烏侯泰水を見
るに、広縦数百里、水停りて流れず、その中に魚有るも之を得るあたわず。倭人善く
網捕するを聞く。ここにおいて東の方倭人国を撃ち、千餘家を得、徒(うつ)して泰水
の上(ほとり)に置き、魚を捕らえしめて以て糧食を助く」とあります。

 即ち、鮮卑の人口が増加して食糧不足がおこったので、倭人の国を撃って千餘家
を移住させて烏侯泰水という湖(と思われる)で魚を獲らせ食糧の足しにした、という
のです。烏侯泰水は広縦数百里とあり、これは短里で考えたとしてもかなりの広さで
すが、残念ながら場所はよく分っておりません。数年前、バイカル湖周辺には日本人
によく似た民族が居て漁に長けているという記事を読んだことがありますが、或はこ
の話と関連があるのかもしれません。驚くほどの距離をたいして苦にせず移動する
遊牧民族であることを考えると全く無関係ともいえないように思いますが、それにして
もあまりにも距離が離れていますので検討課題としておきたいと思います。ここに出
てくる倭人国については研究も少なく定説はありませんが、海を越えて撃ったとは考
えにくいので、韓半島付近にあったと考えるのが理解しやすいのではないかと思って
おります。

 さて、帥升の死後倭国が乱れたと考えられるわけですが、時期的には檀石槐が出
て鮮卑の漢への侵入が激しくなった時期に相当します。後漢の力も衰えを見せ始
め、遼東をめぐっての漢と周辺の民族との攻防にも変化が生じました。周辺民族は
漢が強ければ楽浪郡に従っていますが、力が弱まると見れば攻撃するという具合
で、漢も辺境の維持には手を焼いていたようです。

 漢が衰え辺境が混乱することは、漢にとっては辺境の問題ですが、周辺諸民族に
とってはまさに存立そのものが脅かされることになるわけで、混乱を避け、或は混乱
に乗じ新天地を求める動きは大量の流民という形になって次々に波及して行ったこと
が考えられます。その影響は倭国にも及んだことでしょう。穏やかな移動も考えられ
なくもありませんが、そのような状況下では武力を伴っていたと考える方が納得でき
ると思います。東北アジアの混乱の影響は倭国では大乱という形で現れたとしても不
思議ではないと思います。

 倭国の大乱の背景には、後漢の衰退により後漢と結びついていた勢力の影響力
の低下も考えられます。また、帥升は生口160人を漢王朝に献じたことからも窺える
ように、かなり強権的な支配のやり方を行っていたと考えられ、生口が寿陵に際して
の労働力として献上されたかどうかはともかく、敗れて生口とされた勢力の恨みは積
み重なり溜まっていたことは十分想像できると思います。帥升の死による倭国内の
力関係の変化により、溜まった不満を抑えきれなくなっていたのではないかと思われ
ます。更には、そのような倭国に東北アジアの混乱に伴う流民の武力侵入等の要因
が複合して大乱といわれる状況が発生したのではないでしょうか。

 さて、10年前後の戦乱で決着が付かず、卑弥呼という若い巫女的な女性を共立し
て国が治まったと思われますが、共立した勢力には少なくとも三つのグループが考え
られると思います。一つは帥升の流れを汲む勢力であり、いま一つは帥升に敗れて
生口とされた勢力の残余の勢力であり、三つ目は東北アジアの混乱を避けて(乗じ
て)半島から渡ってきた勢力です。これらの勢力の南側に倭人伝では女王国に属さ
ず、卑弥呼が「素より和せず」とした男王狗古智卑狗が率いる狗奴國があったことに
なると思います。

 大乱の間、これらの勢力は、ある時は連携し、ある時は対立して攻伐を繰り返した
と思われます。連携や攻伐には狗奴國も参加した場面もあったかもしれません。金
印の時点ではかなり広い範囲を支配下に置いていたと思われる委奴国も、共立時点
ではいくつかに分かれることになったと考えられます。大乱の結果、倭人伝の時点で
は、三雲を中心とした前原周辺一帯が伊都国となったのではないでしょうか。

須玖岡本遺跡群
 前原市以外の漢式鏡の大量出土遺跡では春日市の須久岡本遺跡が注目されま
す。福岡市の南に接する春日市には背振山系が高さを下げつつ東に伸びて平野部
に落ち込む少し手前の牛頸山から北に春日丘陵が福岡平野の中に伸びています。
その春日丘陵を東西から挟むように福岡平野を北流する那珂川と御笠川との間に
ある丘陵・台地上には一部縄文時代を含む弥生時代の主要な遺跡が集中しており、
福岡平野の南部一帯は弥生銀座と言ってもよいような様相を呈しています。

 弥生銀座の中央部付近に位置する、春日丘陵の北端付近から平野部一帯に、確
実なところで、その範囲が南北2km、東西1kmに及ぶ須玖岡本遺跡群と呼ばれる
弥生時代中〜後期の遺跡が途切れることなく続いています。因みにその広さは後で
説明する吉野ヶ里遺跡よりも広いと言えば皆さんはどのような感じを持たれるでしょう
か。

 このことだけでも十分注目に値すると思われますが、残念なことにこの一帯は早く
から住宅地として開発されたため限られた部分で断片的にしか本格的な調査は行わ
れておらず、その全容はいつになったら解明できるのか目処はついておりません。遺
跡にとりましてはまことに厳しい状況下にあるわけですが、建物の建替え時等に行わ
れる限られた発掘調査等により明らかにされた範囲でも、遺跡の密度もさることなが
ら出土物はただならぬ内容のものであることを示しております。

 この遺跡が最初に見つかったのは明治32年(1899)のことです。家屋建設に際し、
この地にあった大石を動かしたところ、その下から甕棺と供に漢式鏡30〜40面を含
む多数の遺物が出土したとされます。まことに惜しまれることにその時の出土物は一
部は大学の研究室などで保存されているようですが、多くは散逸しており所在も不明
となっております。

 上記の鏡が出土した須久岡本遺跡は王墓とされております。その周辺には南側の
春日丘陵上には赤井手、竹ヶ本、大南、大谷など弥生中期から後期の集落が重な
り、多くの甕棺墓が見つかっております。また、北側の低地には須玖岡本、須玖永
田、須玖唐梨と言った遺跡が存在し、これらの遺跡からは青銅器・ガラス製品・鉄器
の生産関連の遺物が多く出土しており、当時としては最先端の生産拠点であった可
能性が高いと考えられております。

 詳しくは次号で見てみることにしましょう。
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参考文献
三国志 陳寿 岩波文庫
後漢書 范曄 岩波文庫
三国史記 金富軾(著) 金思○(火+華)Y(訳) 明石書店
平原遺跡 前原市教育委員会
須久岡本遺跡 春日市教育委員会
親魏倭王 大庭脩 学生社
古代中国の刑罰 冨谷至 中公新書
日本神話の考古学 森浩一 朝日新聞社
兼川晋 私信
飯岡由紀雄 私信
福永晋三 私信

参考Webサイト
伊都国通信
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/files/itokoku/tusin/honbun/tusintop.htm
春日市奴国の丘歴史資料館 
http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/hakkutu/sakamoto.html



第13号 邪馬台国の位置(2)


























































































































































































































































































































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