No14:邪馬台国の位置(3)

福岡平野の遺跡
 前号に続いて須玖岡本遺跡群を見ていきたいと思います。順序として、まず福岡平
野の稲作関連の遺跡を概観することにしましょう。前メールでも触れましたように福
岡平野の南部一帯は弥生銀座とも言われるように、縄文時代から弥生時代にかけ
ての遺跡が連なっております。古くから開けていたためその大半は建物や道路等の
下になっており、全貌をつかむのは容易ではありません。が、建替え等の限られた機
会に行われた発掘調査等によって判明しただけでも縄文・弥生期を通じてこの一帯
が引き続いて栄えていたことは疑い難いと思います。

 古代の福岡の地形は博多湾が現在よりも内陸部に入り込んでいました。その入り
込んだ海に向かって警固台地が南から北に張り出して入海を東西に分け、西側は草
香江となり東側は冷泉津となっておりました。どちらの入江も港として適していたと思
われますが、二つの入江を比べると冷泉津のほうが風除けに箕島があり、肥沃な福
岡平野に面していただけ天然の良港としての条件が備わっていたようです。江戸時
代の古地図によりましても、冷泉津の付近には蓑島(現在でも地名が残る)が文字通
り島としてあったことが確認でき、冷泉津には長浜が防波堤の役割を果たし、港とし
て発展していた様子が窺われます。湾の南端の蓑島付近から北東の箱崎方向に向
かって砂丘が続いていたと考えられております。

 蓑島のすぐ南の陸地が平野部の北端で、その辺りから南に福岡平野が広がってい
たと考えられております。現在のJR博多駅は当時は海中あるいは箱崎に向かって延
びる砂丘であったと思われますが、その博多駅付近から南へ1.5Kmほどのところに
広がる低丘陵(標高5〜7m)に日吉神社を中心として山王公園があり、山王公園一
帯約70ヘクタールに比恵遺跡群が広がっております。と言っても現在は殆どが建物
や道路になっており、10m四方ほどの「比恵環溝住居遺跡」が県指定史跡として保存
されているのみですが、ここは弥生時代から室町時代まで連続して営まれた複合遺
跡であります。

 この遺跡に人々が定着したのは、確実なところで、米作りが始まった弥生時代前期
と考えられており、以後、集落や甕棺墓地、墳丘墓が営まれ、弥生時代後期には環
溝集落も出現しております。墳丘墓の甕棺墓には銅剣が副葬されており、また青銅
製品(銅剣・銅矛)やガラス製品の生産を物語る鋳型や取瓶などが出土したことから
弥生時代の集落構造や生産のありかたを知る上で重要な遺跡であると考えられてお
ります。

 比恵遺跡について見逃してならないのは、土坑の一つから戦国時代(前5〜前3世
紀)の河北・遼寧や西北朝鮮(燕)が製作地と考えられる鉄斧(Aa−1型)が出土して
いることです。一緒に出土した土器(須玖II式)から年代判定は旧時代区分で弥生中
期前半から中葉(前1世紀から紀元前後)とされているのですが、燕は前3世紀に滅
亡しておりますので、普通に考えれば少なくとも200年ほどの年代差があることになり
ます。

 そのギャップは次のように説明されております。
 鉄斧30005を出した土坑SK-201は、出土土器が須玖II式古段階に属し、弥生時代
中期後半に位置づけられる。鉄斧30005は(略)戦国時代(前5〜前3世紀)の河北・
遼寧、西北朝鮮(燕)が製作地と考えられている。日本では下稗田遺跡D地区406号
貯蔵穴出土例がある。報告書で前期後葉から中期中葉とされ、以後同様に言及され
るが、伴出土器はなく、鉄斧の型式観(弥生中期は既に燕代ではない)から時期が
論じられているようだ。しかし、概報では同貯蔵穴を中期前葉ないし中葉に属せし
め、これが遺構(貯蔵穴の構造や貯蔵穴群の変遷)に対する認識とみられる(本報
告まで徐々に年代が古くなる)。(略)出土状況と伴出土器の知れる鉄斧30005が中
期後半に属す以上、鉄斧の時期を前期に遡らす必要はなく、概報の認識を支持した
い。かかる視点で再考すれば、日本出土同型式鋳造鉄斧とその候補は中期前半か
ら中葉に位置づけられる。鉄斧30005は同型式最新例であり、Aa−1型の下限は須
玖II式古段階となる。すなわち、同型式鋳造鉄斧は主に弥生中期前半から中葉に流
入したと考えられる。漢4郡設置を契機とした前漢系遺物流入期とされる弥生中期後
半は、戦国系遺物の流入終了期でもあるといえる。(略)この形式の鉄斧は前3世紀
に燕が滅亡すると、その鉄器製作技術は河北・遼寧では廃れたようである。しかし、
朝鮮平安南道大同郡でAa型鉄斧鋳型が出土しており、燕人衛満の建てた衛氏朝鮮
が燕人技術者と鋳造鉄斧製作技術を継受したのであろう。前2世紀末に漢が衛氏朝
鮮を滅ぼすと、戦国(燕)系鋳造鉄斧は消滅し、その技術を漢の領域外で受け継ぐ
者もなかった。さすれば、弥生中期並行期に戦国(燕)系鋳造鉄斧を製作・輸出しえ
た主体は衛氏朝鮮以外に考えられない。燕の滅亡後、衛氏朝鮮が建国し、戦国系
鋳造鉄斧製作技術を自家薬篭中のものとしたのを契機に、戦国系鋳造鉄斧の日本
流入が本格化したのであろう。 『比恵遺跡群21』(福岡市教育委員会:1996)

 この説明では鉄斧の流入時期について、一旦は、弥生前期とする方向があったの
に対し、そこまで遡らせる必要はなく弥生中期に収まるとされております。しかしなが
ら二つの点について疑問とせざるを得ません。一つは制作年代がはっきりしている
鉄斧の流入時期についても、年代判定の基準として土器形式をあくまで中心に据
え、一緒に出土した土器(須玖II式)の年代とされている弥生中期前半から中葉を基
準として説明するべく試みられていること。今一つはそのために平安南道大同郡(北
朝鮮)から出土した同じ形式の鉄斧について、確証がないままに、燕の滅亡後その
鉄器製作技術は河北・遼寧では廃れたが、衛氏朝鮮の建国に伴い燕人技術者と鋳
造鉄斧製作技術を継受し、戦国系鋳造鉄斧製作技術を自家薬篭中のものとした(の
であろう)。それによって戦国系鋳造鉄斧の日本流入が本格化した(のであろう)。と
いう推定を論の中心に据えざるを得なかったように見えることです。

 仮に福岡市教育委員会の推定どおり、衛氏朝鮮が燕の鉄斧製作技術を支障なく
継承したとしても、Aa型鉄斧の日本への流入時期は、前5世紀の戦国時代から漢の
武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされる時(BC108)まで広がるだけであって、衛氏朝鮮
の時代に限定するのは無理があるのではないでしょうか。普通に考えれば前3世紀
の燕の滅亡とともにAa型鉄斧の製作技術も河北・遼寧だけでなく韓半島でも途絶
え、日本への流入時期も燕が活動していた前5世紀から前3世紀の間となるのではな
いでしょうか。旧時代区分では縄文時代のことになります。衛氏朝鮮時代の流入は
可能性としては否定できませんが、二次的な可能性に留まると思います。土器を絶
対年代判定の基準とする限り、説明が今ひとつ歯切れが良くない例がここにも現れ
ているように思われます。

 国立歴史民俗博物館による炭素14による年代判定が報告されて以来、徐々にで
はありますが各所において年代の見直しが検討課題になりつつあるようです。現状
は旧時代区分は問題がありそうだという認識はかなり出てきているように思われます
が、かと言ってそれに代わる時代区分が新たに提示されたわけではないため、組織
や人によってまちまちな言い方がされており混乱が広がる傾向にあるように感じられ
ます。1日も早く本格的な見直し作業が進められ、年代判定が世界に通用するように
なるとともに、新しい時間軸が提示されることは、考古学ファンならずとも待たれるこ
とだと思います。

 比恵遺跡に人が住み始めた時期も一応は旧時代区分の弥生前期としましたが、
以上見ましたように比恵遺跡から出土した鉄斧の時代判定には疑問があるため、も
う少し遡ると考えて良いと思われます。ここで重要なことは、戦国時代(前5〜前3世
紀)にすでに博多湾岸では燕と何らかの交流があった可能性が浮かび上がってきた
ことだと思います。

 比恵遺跡から南へ約1Km、三笠川と那珂川に挟まれたJR竹下駅の近くに、二重
環濠集落跡である那珂遺跡があります。環濠内から縄文時代の最後の形式とされる
夜臼(ゆうす)式土器や石器が出土したことから、稲作が始まった縄文時代晩期末の
遺跡と考えられております。集落を囲む環濠は長径160m、短径140m程度と推定さ
れております。外側の濠は主として東西に掘られており高地から低地に向かって通
水するためと防御用との兼用と考えられております。が、断面がV字形で、幅5m、深
さ1.8m、という形から考えて外敵から守るための意味が強かったのではないかと考
えられます。その内側には5m間隔で外濠に平行して幅2m、深さ1mの内濠が集落
を取り巻く形で巡らされております。次に触れる板付遺跡よりも少し古いという見方も
あり稲作の初期段階と考えられる遺跡ですが、この段階からすでに外敵に備える必
要があったという意味でも注目されます。

 那珂遺跡から南東方向へ2Km足らずのところに、板付遺跡があります。発見当時
は、わが国で最も古く水田耕作を行っていた集落跡として注目を集めました。集落
は、周囲より一段高くなった標高11〜12mの低い台地の上に立地し、その東西の平
地を水田とする構造となっています。集落は外側に水田の用水路を兼ねた環濠が取
り巻き、その内側には幅6m、深さ3〜3.5mで断面がV字形の環濠が東西80m、南北
約110mの楕円形に巡らされています。二重環濠の間は墓地となっており、大正5年
には銅剣・銅矛を副葬した墳丘墓が確認されています。台地東西の低地には用水
路、井堰を整備した水田が縄文晩期末には開かれたと考えられており、集落、墓
地、水田が複合した、縄文晩期から弥生時代初期の様子が分る重要な遺跡です。

 板付遺跡の南西800m、筑紫通りに面した標高23mの丘陵とその周辺に諸岡遺跡
が続きます。先土器時代から縄文時代晩期、弥生時代、中世にまたがる複合遺跡で
す。昭和47年からの発掘調査で、朝鮮系無文土器が出土する小竪穴や、貝輪や細
形銅剣を副葬する甕棺墓など弥生時代の遺構・遺物が検出されています。丘陵上に
は5基の円墳があったとされ、現在も八幡宮裏に1基の円墳が残っています。また中
世には地下式横穴墓が営まれていたことも分っております。朝鮮半島との具体的な
交流を示す朝鮮系無文土器は、この遺跡で始めて見つかり、その後西日本各地に
その出土例を見るようになりました。控えめに見ても2000年以上にわたって営み続け
られた遺跡として注目されます。

 板付遺跡の南東2Km、諸岡遺跡の東やや南より2kmのところに甕棺墓を主とする
墓地遺跡である金隈(かねのくま)遺跡があります。福岡平野の東部、御笠川に沿っ
て南北に伸びている月隈(つきぐま)丘陵のほぼ真ん中あたりに位置する標高30m
の丘陵上に、弥生前期から後期にかけての甕棺墓348基、土壙墓・木棺墓119基、石
棺墓2基が検出されました。甕棺の中には相当数の人骨が比較的良好な状態で残っ
ていましたので、墓地が営まれていた時代の人の様子を知る多くの手がかりが得ら
れました。

 多くの人骨が発見された遺跡としては山口県の土井ヶ浜遺跡が知られております。
日本の土壌はおおむね酸性なので、よほど保存に適した条件が満たされない限り人
骨が残ることは難しいのですが、土井ヶ浜の場合はカルシウムを多く含んだ砂地に
直接埋葬されていたために人骨が残り、金隈の場合は石灰岩の台地である上に甕
棺に埋葬されていたために多くの人骨が残ったと考えられます。出土人骨から割り
出された平均身長は、男性162.7cm、女性151.3cmで、縄文人と比較すると顔が面長
で、身長も高い特徴があります。このことから考えて、ここに葬られている人々は渡
来系と考えられるようです。

 また、348基の甕棺墓のうち214基が小児用で甕棺墓の6割を占めております。これ
は子供の死亡率が高かったことを示していると考えられます。出土人骨の推定から
死亡年齢は40歳代と考えられるようですが、60歳以上と見られる人骨も4体見つかっ
ており全て女性と見られることから、古代から女性が長生きだったことを窺わせま
す。

 土井ヶ浜の人骨もその特徴から渡来系と考えられるのですが、土井ヶ浜では甕棺
は全く用いられておらず、石槨を用いている場合も見られることから、埋葬のやり方
は金隈とは異なっております。このことは一口に渡来人と言っても土井ヶ浜と金隈で
は渡来元が異なっていることを示していると考えられます。

 残された人骨の一部には抜歯の風習があるものがありました。抜歯は古代に特有
な風習で、時代や場所によってその方法に差があることが知られております。金隈遺
跡から発見された人骨の中で、歯の状態がわかる58体のうち5体に抜歯が見られた
のですが、その特徴は二つに分かれており、それに対する解明はまだ十分に進んで
おりません。

 具体的には、3体は上顎の両側の犬歯に抜歯がありました。これは縄文時代の抜
歯の特徴を現しているとされます。残りの2体は上顎の両側の犬歯より一つ中央より
の歯(側切歯)が抜歯されておりました。これは中国東海岸の抜歯の特徴を示してい
ると考えられます。土井ヶ浜の人骨にも見られた抜歯の特徴ですが、韓半島には見
られないようです。

 以上の状況からいくつかの検討課題が出てきます。
 まず、中国東海岸付近での抜歯の風習は春秋時代(BC770〜403)の後期には衰
退していたとされております。とすると、金隈に見られる抜歯の風習は、いつ頃入って
きたのか、また、いつ頃なくなったのか、という点です。単純に考えれば入ってきたの
は春秋時代前期(BC600年頃)ということになり、それは弥生時代が遡ると考えれば
理解できる話ですが、抜歯人骨が埋葬されていた甕棺の形式から割り出された年代
(弥生中期前葉から中期中葉:BC100〜紀元前後)とは大幅な差があります。

 金隈の場合、抜歯がない人骨が大半であったことから考えて、抜歯の風習の終末
期の遺跡と考えられております。それが甕棺から割り出された年代とすると、紀元前
後の頃になります。とすると、抜歯の風習が入ってきてから風習がなくなるまでを現
在の編年で説明すれば、BC600年頃に入ってきて紀元前後まで抜歯の風習が続い
ていたことになります。が、比恵遺跡の鉄斧の例でも判る通りその後も大陸や半島と
の交流は少なくとも断続的には続いていたと考えられ、大陸では抜歯の風習がなくな
ってから数百年近くも日本で続いたとは考えにくいのではないでしょうか。

 今ひとつの疑問は、金隈の場合、3体に縄文時代の風習と同じ両側の犬歯に抜歯
が見られるのですが、弥生人の特徴を持つ人骨がなぜ縄文人の風習と同じ抜歯をし
ているのか、と言う疑問です。しかも、出土した人骨が埋葬されていた甕棺の形式か
ら考えて、縄文時代の風習と渡来系の風習が同時に平行して行われていたような形
跡が見られるという点であります。以上、渡来と言うことを考える場合、検討すべき課
題であると思います。

 いずれにせよ、金隈遺跡は甕棺墓が主体であることから弥生時代の遺跡と考えら
れているのですが、抜歯の風習と合わせて考えると、その年代はかなり古くなると見
てよいように思います。また、ゴホウラ貝の腕輪を付けた人骨が埋葬されておりまし
た。ゴホウラ貝は種子島以南オーストラリアまでの南洋にしか棲まないとされており、
南方との交流も早くから始まっていたことを示しております。

 金隈からは、貝輪のほかには石剣、石鏃、玉なども出土しています。青銅器などの
特にきわだつ副葬品は見られないため、王や貴族は居ず、一般集落の長年にわた
る典型的な共同墓地と考えられております。しかしながら、抜歯の風習から見てこの
遺跡の始まりはかなり古いと考えられることから、青銅器などの副葬品が見られない
ことをもって一般集落と決めることには疑問なしとしないように思います。

須玖岡本遺跡群
 板付遺跡の南西約2.7Kmのところが春日丘陵の北端で、平野部から少しだけ上が
ったところに漢式鏡が出土した須玖岡本遺跡群の王墓と言われる遺跡があります。
このように見てくると主な遺跡を概観しただけで、博多湾と陸との接点から春日丘陵
まで遺跡は場所的にも時間的にも途切れることなく続いていることが実感して頂ける
と思います。この一帯が縄文時代から弥生時代にかけて、栄えていた場所であった
ことは疑いにくいのではないでしょうか。

 それでは須玖岡本遺跡群について検討していくことにしましょう。
 板付遺跡の東南2.5Km、諸岡遺跡からは2Kmくらいの所に須玖岡本遺跡群では一
番北に位置する須玖唐梨遺跡があります。この場所は現在は病院となっております
が建設前に行われた発掘調査により、掘立柱建物群や井戸などの生活環境のほ
か、甕棺墓や土壙墓からなる墓地が発見されました。青銅器鋳型・銅矛の中子・鏡
片・ガラス玉などが出土していることから、青銅器の製造が行われていたことがわか
ります。また、鉄器や鉄片が多量に出土しており、鉄器工房も存在した可能性が高
いと見られております。弥生時代中期〜後期の遺跡と考えられております。

 須玖唐梨遺跡の東500mのところに黒田遺跡があります出土した土器から弥生時
代後期の遺跡とされております。幅1.5mほどの溝が検出され、溝の内部から多量の
土器と共に青銅器の鋳造に伴うと見られる青銅器鋳型・銅矛の中子・銅滓などが出
土しており、青銅器工房が存在した可能性が高い遺跡であると思われます。

 黒田遺跡の南西に接して須久永田遺跡があります。現在はスーパーが建っており
ますが、ここから鏡鋳型、銅矛鋳型、銅矛中子、銅鐸、坩堝など青銅器製作に関係
した多数の遺物が出土しました。周囲に溝が巡る特殊な掘立柱建物跡が青銅器の
鋳造工房跡と考えられております。須久永田遺跡と黒田遺跡は隣接しており出土物
も同じようなものが多く見られることから同じような青銅器生産遺跡であったと思われ
ます。

 須玖唐梨遺跡のすぐ南、須久永田遺跡の西500mのところに弥生時代中期〜後期
とされる須久五反田遺跡があります。弥生中期の甕棺墓地と一緒に、全国で始めて
弥生時代のガラス工房跡が確認されました。ガラス工房と推定された特殊な竪穴住
居跡の内外から、ガラス製品の製作に関連した勾玉鋳型・ガラス坩堝・玉砥石など
の遺物が多数出土しています。

 須玖唐梨遺跡と須久永田遺跡から南へ向けた三角形の頂点付近に弥生時代中期
〜後期の遺跡と見られる須久坂本遺跡があります。各種青銅器鋳型、銅矛中子、銅
滓、坩堝など、青銅器鋳造に関係したおびただしい遺物が出土しています。周囲に
溝を巡らした特殊な建物跡が多数確認されており、弥生時代最大規模の青銅器工
房であったと推定されております。建物周囲の溝は湿気を抜くためのものであったと
考えられております。また、ガラス勾玉鋳型やガラス坩堝も出土しており、青銅器と共
にガラス製品も製作されていた可能性が高いと考えられています。現在の眼で見れ
ばガラスの勾玉なんてと思われるかもしれませんが、当時の人にとっては一見なんで
もない石ころが、きらきら光る勾玉に変身するわけですから魔法のように感じられた
のではないでしょうか。

 須久坂本遺跡は平野部の最南端に位置するのですが、そのすぐ南に春日丘陵の
北端が迫っており、坂本遺跡から南へ少し坂を上がる途中のところにあるのが沢山
の漢式鏡を出土した須玖岡本遺跡です。須玖岡本遺跡群の中でこの遺跡が王墓と
されております。王墓からの出土状況は前号の通りです。王墓のすぐ目の前に当時
の最先端技術を備えた須久坂本遺跡が配置されていたという位置関係も注目されて
よいと思います。

 須玖岡本遺跡群は王墓の後方春日丘陵の上にも広がっております。その多くは住
居遺跡ですが、赤井手遺跡や仁王手遺跡のように、著しく熱を受けた炉が住居跡の
床面から発見され、鉄器の未製品や鉄素材などが多数出土したことから、弥生中期
の鍛冶遺構と考えられる遺跡も見つかっております。また、須玖岡本遺跡群のエリア
からは断片的ではありますが環濠の一部と見られる溝も発見されております。

 須玖岡本遺跡群につきましては以上見てきましたように、確実なところで、南北
2Km東西1Kmの範囲に広がっております。これは佐賀県の吉野ヶ里を上回る広さで
あります。主に住居や(工業的)生産関連と見られる遺跡だけでこの広さですから、
周辺に広がっていたと考えられる水田を含めると現在判明している数倍の広さがあ
っても不思議ではないと思われます。残念なことに周辺は住宅地等になっております
ので、発掘されたのはその1割程度と見られておりますが、その限られた発掘で分っ
た範囲だけでも王墓や住居に加え、青銅器・ガラス製品・鉄器の生産設備を備えた、
当時としては最先端のハイテク都市であったと言えると思います。

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参考文献
須玖岡本遺跡 春日市教育委員会
弥生時代の開始年代 春成秀爾 
(炭素14年代測定と考古学 国立歴史民俗博物館 所載)
福岡市埋蔵文化財センター 電話確認
奴国の丘歴史資料館 展示パネル等
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参考Webサイト
全国遺跡・旧跡案内
http://inoues.net/ruins/welcome2.html

比恵遺跡群をめぐる国際環境
−燕,衛氏朝鮮,真番郡,楽浪郡,韓−
出典:『比恵遺跡群21』(福岡市教育委員会.1996)
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/1996a.html

福岡市文化財探訪 時代別文化財
http://www.city.fukuoka.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AM02022&Gc=253&
Ft=AC01022&Bt=AC01022

http://averse.hp.infoseek.co.jp/kan/ka003.html




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