No15:邪馬台国の位置(4)

弥生時代のハイテク都市
 前号で見ましたように、須玖・岡本遺跡周辺は弥生時代のハイテク都市でありまし
た。青銅器鋳型は全国の出土数の3割以上が須玖岡本遺跡周辺から出土していま
す。技術的には同じような青銅器鋳型でありますが、比較的出土が多い近畿は全て
銅鐸の鋳型であるのに対し、武器の鋳型は北部九州に集中しており、その中心は須
玖岡本遺跡周辺です。ガラスの勾玉の鋳型が出土した遺跡は、これまでに全国で9
箇所が知られておりますが、そのうち7箇所が須玖岡本遺跡周辺の遺跡です。

 7号メールでも述べましたように、北部九州は弥生時代における鉄の先進地域であ
ります。それまでの青銅器に代わって鉄器の導入がもたらした武器や道具の変化
は、今の我々が想像するよりはるかに大きなものだったと思われます。弥生時代の
鉄の利用は、最初は半島を経由して大陸からもたらされて始まったもののようで、最
初は作られたものをそのまま利用し、次の段階では素材を持込んで加工して使うよう
になり、古代の製鉄が行われるようになったのは古墳時代に入ってから、ということ
には異論がないようです。

燕の鉄斧
 鏃や鉄刀(片)など形式等が特定できないため持込まれた(或は製作された)時期
が判然としないもの、また、出土状況の記録等が不正確なため埋まった時期を明確
に出来ないもの等を別にすれば、確実なところでは前メールで触れました、比恵遺跡
から出土した燕が製作地と思われる鉄斧が、最初に日本に伝わった鉄器ということ
になると思われます。戦国時代(前5〜前3世紀)の形式と見られるようです。燕は春
秋から戦国時代にかけて現在の中国東北地方(旧満州)付近にあった周と同姓の姫
(き)氏の国で、戦乱の中しばしば危機に瀕しながらも秦によって滅ぼされるまで8、9
百年続いたとされます。「まず隗よりはじめよ」で知られております郭隗は燕が斉に大
敗した危機から立ち直った時の昭王に仕えた人です。

 昭王が危機に瀕した燕王の位に即(つ)いた時、身を低くして充分な幣物を用意し
て賢者を招き、その内の一人の郭隗に言いました。「斉は我が国の内乱に乗じ、襲
い掛かって燕を破った。わしは燕が小国で力が乏しく、なかなか報復できないことを
知っている。さりながら、もしも賢士を手に入れて国運を共にし、先王の恥を雪(す
す)ぐことができるなら、これこそわしの念願である。先生にはどうか適任者を探して
ほしい。わしは身をもってその人に従おうと思う」

 郭隗が答えます。「王がどうしても賢者を招きたいと思し召すなら、まず隗よりおは
じめください。そうすれば私以上の賢者が何で千里の道を遠しとして来ないはずがあ
りましょう」。そこで昭王は隗のために宮殿を改築し、隗に師事したところ、諸国から
士が争って燕に赴き、(王がそれらの賢者を用いて)善政を施すこと28年、国は富栄
え士卒は楽しみ安んじて、勇戦をいとわぬようになり、斉を破ることが出来た。と史記
にあります。

 その燕と倭人は交流があったのです。それも単なる交流という程度ではなく、燕に
対する朝貢国として周王朝の中華世界に組入れられていた形跡があります。戦国時
代の頃に出来たとされる地理や風物を記録した「山海経(せんがいきょう)」という書
物の海内北経というところに「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と
言う記述があります。ここで蓋国とはのちの高句麗辺りにあった国で、今でも半島北
部に連なる高い山々に蓋馬高原という地名が残っております。

 この記述から見ると燕の南に蓋国があり、その南に倭があったというのです。この
倭はここで言う倭とは関係ない別の倭である、という見方が有力とされております。以
前の時代区分で言えば縄文時代終末期に、倭人と大陸との交流があったなどとは考
えられない、というのが上記山海経に出てくる倭はここで言う倭とは関係ないとされる
大きな理由ではないかと思われます。が、5号メールで触れましたように古くは韓半島
にも倭人が居たと考えられますので、一概に無関係とは言い切れないように思ってお
ります。

 「倭は燕に属す」と言う言い方は、中国から見て、倭は燕に一定期間ごとに朝貢し
てくる国と見えていたことになると思います。その燕の形式の鉄斧が比恵遺跡から出
土しているということは、上記山海経に出てくる倭が北部九州にも広がっていたと考
えるのが自然な理解だと思うのですが、皆さんはどのように受止められますでしょう
か。

 ここでは一歩進めて燕の形式の鉄斧が出土した意味を考えてみたいと思います。
前漢の武帝時代に、淮南(わいなん)王劉安が道家思想を中心にまとめた一種の百
科全書とも言える「淮南子(えなんじ)」という書物に、君主が(国難があるときなどに)
将軍を任命する儀式のことが書いてあります。櫓(やぐら)を組むなどして場所を整
え、吉日を選び儀式を執り行うのですが、その最終場面で、君主が親しく鉞(まさか
り)を操(と)って頭を持ち、将軍にその柄を授けて「此れより上、天に至るまで将軍こ
れを制せよ」と言い、また、斧を操って頭を持ち、将軍にその柄を授けて「此れより
下、淵に至るまで、将軍これを制せよ」と言います。それを受けて、将軍がそれに応
える言葉を言うことになっているとされております。柄を将軍に授けるということは、抜
き身の刀を渡すのと同じことですから、将軍がその気になれば君主を斬ることもでき
るわけです。よほどの信頼感を現していると考えられます。

 将軍と言う官名がいつ頃からできたのかと言うことははっきりしませんが、戦国時
代の頃にはあったとされているようです。時代が下がると将軍もインフレになり色々
な名前の将軍号が作られるようになりますが、古い時代は大変権威があるもので、
常時将軍の官職が置かれていたとは限らず、場面によっては君主と言えども口を出
すことが出来なかったほどのものでした。

 「孫子」に将軍の権威を示す一つのエピソードが残っております。孫子が呉王の闔
盧(こうりょ)に見(まみ)えた時、かねて孫子の兵法を読んでいた呉王は、兵を指揮し
て見せよと求めました。孫子は宮中の美女180人を借りて二手に分け、王の寵姫二
人をそれぞれの隊長とし、美女たちに前後左右の合図を決めて繰り返し確認したう
え、右への太鼓を打ちましたが女たちは笑って動きません。そこで孫子は「命令が伝
わらないのは隊長の罪である」と言って再び確認し、左への太鼓を打ちましたが女た
ちはまだ笑って動きません。それで孫子は、約束が明らかであるのに「法のごとくなら
ざるは吏士の罪なり」と言って、左右の隊長を斬ろうとしました。

 台上から見ていた呉王は寵姫が斬られそうなのを見て急いで使いをやって止めさ
せようとしましたが、孫子は「臣はすでに命を受けて将となる。将、軍に在りては君命
も受けざる所あり」と言ってついに隊長二人を斬ってしまいました。そして再び太鼓を
打つと女たちは整然と動いたと言います。

 将軍には、軍にあっては君主にも一歩を譲らせるほどの権威があったのです。そ
れ故、任命の儀式も半端なものではなかったようです。将軍にはシンボルとして鉞と
斧が与えられました。これは将軍自ら鉞や斧を取って戦うという意味よりも、命令に
反するものに対しては斬る権限が与えられている、という意味があったとする見解に
説得力を感じます。

 もし比恵遺跡から出土した鉄斧がそのような意味を込めて燕王から授与されたも
のであるとした場合、「山海経」の「倭は燕に属す」という記述は単なる朝貢国として
の位置づけに留まらず、燕から倭の首領格(王)と認められ(倭人の集団を治めるた
め)将軍の鉄斧を授与されていたという可能性が出てきます。もしそうだとすれば、倭
は燕の臣下の扱いを受けていたことになり、燕を通じて周王朝とも繋がっていた可能
性が出てきます。勿論、夷蛮の首領としての扱いですから本当の臣下と同列におくこ
とは出来ませんが、驚くべきことに、戦国時代(前5〜前3世紀)にすでに、「倭」が諸
侯の一つとである燕を介した間接的な関係とは言え、周王朝と、国と国の関係に近
い関係を持っていたかもしれないのです。「山海経」の「倭は燕に属す」という記述が
実感を伴って迫ってくるような感じがします。もしそうであれば、志賀島の金印よりは
るかに前から中国の王朝と正式な交わりがあり、その王は比恵付近にいた可能性
が高くなって来るのではないでしょうか。

 只、問題の鉄斧は比較的小さな土壙に後から入り込んだような出土状況を示して
おりまして、これから見る限り、特別に埋納された、或は墓に副葬されたという状況と
は考えにくいようです。また、将軍に授与する場合の対(つい)と考えられる鉞は出土
していませんので、今ひとつ決め手に不足することは否めません。とは言え、当時将
軍のシンボルでもあった鉄斧が、簡単に手に入ったとも考えにくいと思います。武器
を含めて実用品的なものであったとしたならば、複数見つかっても良いはずですがそ
れは無いようです。従って、上で述べましたことは、有力な可能性として指摘しておき
たいと思います。

 日本列島へ鉄が伝わったのは、確実なところは上で述べましたように、戦国時代の
燕の鉄斧ですが、それ以前に鉄鏃や鉄刀の類が全く入っていなかったとは考えにく
いので、戦国時代以前であることは相当程度確実だと思われます。次の段階は素材
を持込んで加工するということになります。一番早い段階の鍛冶遺構や遺物として異
論がないのが前メールで触れました、須玖岡本遺跡群の中の赤井手遺跡や仁王手
遺跡に見られる住居跡の床面から発見された、著しく熱を受けた炉や多数出土した
鉄器の未製品や鉄素材などであります。

 鉄の素材につきましては魏志倭人伝の、「韓、?(わい)、倭、従いて鉄を採る。」とい
う記述に見られますように韓半島南部が原料の産地であったと思われます。採れた
鉄は、板などの加工しやすい形にしたものを北部九州まで運び、鍛冶によって最終
的な形にしていたと見てよいのではないでしょうか。

先端文明が集約された都
 以上述べましたように福岡平野から春日丘陵一帯にかけての遺跡群が、早くから
鉄の使用を開始していたことは疑いにくいと思われます。その結果として使用に伴う
利用技術の蓄積も進んでいたことは容易に想像されるところです。卑弥呼の時代に
は利用技術に加え加工技術の蓄積もあり、並外れたハイテク都市であったことは今
までに述べました出土品からも十分頷けるところではないかと思います。通説の側で
もこのことは認識され始めておりまして、最近では、比恵・那珂遺跡群と須玖・岡本遺
跡群につきまして、両遺跡群が「拠点集落」の認識を超えた「都市」である可能性も
論じられるようになってきております。

 比恵・那珂遺跡群につきましては便宜上、比恵遺跡と那珂遺跡に分けられておりま
すが、二つの遺跡群は一体としてみるべきものと言う意見も有力であります。只、そ
うなると遺跡の範囲があまりにも広くなって捉えるのに大変だということもあり、二つ
に分けられたままになっているのだと想像しております。須玖・岡本遺跡群につきまし
ても同様のことが言えると思っております。

 福岡平野一帯に広がる遺跡群は、その広さ、建物等の集積度、生産手段等のハイ
テク度等どれをとっても当時の第一級の集落であり、日本列島最初の都市と言える
のではないかということはご理解いただけますでしょうか。列島各地では環濠を廻ら
した集落が営まれるなど、定住集落の形が進化してきたことは認められるにしても、
金属器としては青銅が主体であった当時としては群を抜いた規模や内容であるとい
えると思います。当時としては最新の機能が集約した都市であると言っても過言では
ないのではないでしょうか。

 因みに邪馬台国近畿説の有力な根拠となっております奈良県の唐古・鍵遺跡は、
近畿地方最大で吉野ヶ里に次ぐ30ヘクタールの広さの環濠集落と言うことが根拠の
一つとされておりますが、遺物としては平成3年に発見された「楼閣」の絵が描かれ
た土器の破片が目を引く程度です。「邪馬台国」の楼閣に結びつくというのでマスコミ
が飛びつき、絵を模した構造物が現地に建てられております。しかしながら出土物を
見てみると、土器、木製品、糸魚川産のヒスイなど弥生時代ではそれほど特別とは
言えない出土物が主体で、金属関係では銅鐸の鋳型が目に付きますが、倭人伝が
伝える矛や鉄鏃は出土していません。

 また、近畿説論者によって卑弥呼の墓の有力候補とされる箸墓古墳を含む纒向遺
跡は大集落遺跡と言われておりますが、集落を構成する住居址や倉庫址は発見さ
れておらず、推定居住地とされている場所が、主要古墳を中心として散在しているに
過ぎません。また、遺跡を囲む環濠も見つかっておりません。弥生時代の遺物が乏
しいことから弥生時代には未開発地域であったとするのが自然な見方だと思われま
す。殆ど何もなかったところに、古墳時代になって何故急激に古墳群が形成された
のかと言うことは今後の解明を待つ必要がありますが、以前に触れましたように倭人
伝では「冢」と書かれている卑弥呼の墓を「古墳」の中に求める無理もさることなが
ら、出土物も土器が主体であることから見ても福岡平野の遺跡群とは大差があるこ
とをご確認いただきたいと思います。

女王の都する所
 繰り返しになりますが、福岡平野の遺跡群はその先進性から見て、当時の日本列
島における第一の都市でありました。長年にわたる集落の集積、周囲での水田耕作
による食糧の確保、ガラス工業による装飾品等の製作、などに加え青銅器から鉄器
まで繋がる金属器の利用・加工技術の蓄積、中でも武器の製作基地であった点は見
逃すことが出来ません。時代の先端文明が集まるところ、それは都を意味するので
はないでしょうか。倭人伝が伝える「女王の都する所」がどこであるかを出土物が語
っていると思います。

 ここに「女王の都する所」、いわゆる邪馬台国の最有力候補地として須玖・岡本遺
跡群を挙げたいと思います。

 それは急ぎすぎではないか、或は少々眉唾だな、というようなお顔も感じないでは
ありません。ごもっともであります。ではこれを別の角度から、可能な限り検証してみ
ることにしましょう。

奴国の丘歴史公園
 現在、須玖・岡本遺跡群は公式には、倭人伝にある「奴(な)国」の一角であるとさ
れており、国指定遺跡「奴国の丘歴史公園」として整備されております。丘の上(春日
丘陵の最北端)の甕棺墓が多く出土した場所を覆うように二つのドームが建てられ、
一般の方に出土状況が分るよう展示されております。その横に「奴国の丘歴史資料
館」があり、鏡片や鏡のレプリカ、銅剣の鋳型、鉄剣・鉄戈・鉄刀、又、ガラス勾玉の
鋳型などこの遺跡群から出土した多彩かつ貴重な遺物が展示されております。この
一帯が「奴(な)国」の一角であることは最早何の疑いも持たれていないようです。

 上で、最近では、比恵・那珂遺跡群と須玖・岡本遺跡群につきまして、両遺跡群が
「拠点集落」の認識を超えた「都市」である可能性も論じられるようになってきている、
ということについて触れました。その考え方は、比恵・那珂遺跡群と須玖・岡本遺跡
群を合わせたものが倭人伝の中の一国である「奴国」であると捉え、比恵・那珂遺跡
群を「奴国」の「交易センター」、須玖・岡本遺跡群を「政治・祭祀センター」と捉える認
識に立たれているようです。

 私はいくつかの点で、この認識には問題があると考えております。一番の問題は広
さと内容のバランスです。この両遺跡群を合わせた広さは、正確には言えないにして
も、福岡市南部のほぼ全域から春日市の北部にまたがる相当のものであることは間
違いありません。倭人伝では人口2万と特に記載されていることから「奴国」が三十国
の中の有力な国であることは疑いないところですが、それにしても女王国に属する一
国に過ぎません。

 仮にこの両遺跡群を合わせたものが「奴国」であるとした場合、人口7万の女王国
はどの程度の規模と想定されるのでしょうか、また、有力国とは言え女王国に属する
一国で今まで見てきましたような技術的なハイテクの集約があるとした場合、女王国
にはそれを上回るハイテクの集約があるはずです。いったい日本列島の中でそのよ
うな可能性がある場所があるのでしょうか。広さと技術集約度の高さから見て、今ま
でにその片鱗も見つかっていないのは考え難いことではないでしょうか。

 この一帯が「奴(な)国」とされるのはそれなりの理由があり、博多一帯が「那の津」
と呼ばれていたことが大きな根拠なのですが、「那の津」という地名が時間的に何処
まで遡ることができるのか、と言う点については疑問無きにしも非ずです。文献に出
てくるのは宣化紀の元年条(6世紀中頃)に「官家を、那の津の口(ほとり)に脩(つく)
り造(た)てよ」とあるのが最初で、この頃から海辺が「那の津」と呼ばれていたことは
疑えません。が、これが卑弥呼の時代である3世紀初めまで遡ることができるかどう
かは疑問とする見方もあります。

 故中山平次郎博士は、「博多」や「那の津」を陸の地名であるとする一般の見方に
対して、元々は海のことを言っていたという見方を示されました。博多湾は前号でも
少し触れましたように初めのうちは陸に向かって大きく入り込んでいたのですが、海
流の影響で西から砂が運ばれ埋まって行き、現在の地形に近い形になったと言われ
ます。「はかた」とはその過程の中で端にある潟(端潟)が呼ばれた名前であり、「な」
とは魚のことで魚が沢山取れる海であることから、「魚(な)の津」と呼ばれていたの
が夫々「博多」「那の津」と言われるようになった、と言う博士の研究は説得力がある
ものだと考えます。

 因みに、現在は那珂川を挟んで東側が博多で西側が福岡となっておりますが、
元々は地盤がしっかりしている警固台地を中心とした西側が博多であったようです。
福岡城もこちらにあります。江戸時代に黒田藩が入部したときに土地の人を東側に
追い出して自分の出身地名である福岡と名付け、追い出された土地の人達が元から
の博多と言う地名を持っていった、と言う研究もあります。

 さて、「那の津」がどの時点まで遡ることが出来るのかということもありますが、海に
由来する地名であれば福岡平野南端に位置する春日丘陵までを「な国」の領域とす
るのは少し無理があるような気がしないでもありません。もう一つ基本的なことは「奴
国」がはたして「な国」と読むことが出来るのかという問題です。今までに何度か取り
上げましたように、志賀島から出土した金印を「漢の倭の奴(な)の国王」と三宅米吉
博士が読んで以来「奴」を「な」と読むことが定説扱いされております。

 古い時代の漢字の読み方(音)が載っている文書等は限られております。三国志の
時代の音を記録した日本の書物は残念ながら残っておりません。一番古い時代の音
が残っていると考えられているのが万葉集であり、それに続くのが記紀なのですが、
そのどれにも「奴」を「な」と読んだ例は見当たらないのです。「な」と読まれた例がな
いにもかかわらず「ぬ」の音は「の」や「な」の音に変化するから「な」と読めないはず
がない、というのは慎重さに欠けると言わざるを得ないようです。仮にそうであったと
しても変化するのは後の時代であり、当時「な」と読んだという例が見当たらない以上
「な」の読み方は成立しないと言わざるを得ないと思います。

 「奴」の字は平仮名の「ぬ」の字の元になったことから分るように一番多く音として出
てくるのが「ぬ」であることは動かないようです。「ど」という読み方は、漢字の読み方
を呉音から漢音に換えることが国の方針として決まった平安時代以降のことですか
ら、当時「ど」とは読まれていなかったことも間違いないようです。一方、古代史探求
者の福永晋三氏の研究によれば、例としてはそれほど多くはないのですが「奴」を
「の」と読んだ例はあり、「の」と読むことは無理ではないようです。

 以上の検討の結果は「奴国」は「ぬ国」または「の国」と読むべき可能性が高いとい
うことになると思います。福岡平野一帯から春日丘陵にかけて広がる多くの遺跡群を
「奴(な)国」と捉え、「奴(な)国の丘歴史公園」として整備されている現状は、那の津
の意味や時間的に何処まで遡ることができるのかと言う点、また、「奴」の字の読み
方という点から考えて、その根拠に大いに疑問がある、と言わざるを得ないようで
す。

 福岡平野一帯が「奴(な)国」でないとするならば、倭人伝に記載された人口2万を
擁する「奴国」は一体どこにあるのか、という疑問が出てくると思います。さらには吉
野ヶ里遺跡、また、立岩遺跡はどうなのかと言う疑問もあると思います。次号以降で
はそれらも含めて検討することにしましょう。

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参考文献
比恵遺跡 福岡市教育委員会
赤井手遺跡 春日市教育委員会
仁王手遺跡 春日市教育委員会
史記 司馬遷 ちくま学芸文庫
親魏倭王 大庭脩 学生社
兼川晋 私信
福永晋三 私信

参考Webサイト
考古学のおやつ
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001d.html




第15号 邪馬台国の位置(4)





















































































































































































































































































































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