No16:女王国の検証

 前メールで、いわゆる邪馬台国の第一の候補地として須玖・岡本遺跡群を挙げま
した。その場所は現在、国指定遺跡の「奴国の丘歴史公園」として整備されている
が、この一帯は「な」の意味の上からも「奴」の読みの点でも、「奴(な)国」とすること
は無理だと思われることを述べました。また、この一帯は遺構や遺物から見ても、縄
文時代から弥生時代へと連綿と続く文明の蓄積が窺われ、武器の製造工場でもあ
り、少なくとも弥生時代においては日本各地の遺跡等に比べると抜きん出た先進文
明地帯であることから、いわゆる邪馬台国の第一の候補地と見られることを述べまし
た。

 前メールの後、若干の質問がありました。大要は、論旨は分かるが今ひとつすっき
りしない、と言うものでした。すっきりしない理由は卑弥呼の墓が明確でないと言うこ
とに尽きるようでした。ごもっともであります。卑弥呼の墓が特定できないことが、い
わゆる邪馬台国論争がいつまでも続く一つの理由であることも間違いないと思いま
す。しかしながらこれだけの弥生文明の先進地域ですから、その心算で現在までの
発掘・研究成果等を見直してみれば何か分かるかもしれません。

須玖・岡本遺跡の再吟味
 以前に述べましたように須玖・岡本遺跡のD地点とされている所の大石の下から発
見された甕棺の内外には、前漢式鏡30面前後、青銅の武器8本以上、ガラス壁、ガ
ラス勾玉・管玉など多数の貴重な品々が副葬されていました。D地点のすぐ北側から
は沢山の甕棺が出土していますのでこの一帯は墓地であったと思われます。そこか
ら少しだけ南側に丘を上る途中に位置するD地点の甕棺墓は(発見当時は失われて
いたものの)墳丘を持っていたと想定されており、また、この甕棺墓の周囲からはほ
かに甕棺が出土していないことから、単独で墳丘墓に納められていた可能性が高い
と考えられています。大きな建物がなかった当時はゆるやかな坂をこの程度上がっ
ただけでも福岡平野からその先の博多湾までを遠望することが出来たと想像されま
す。D地点の墓は福岡平野の南端にあり、平野全体を見渡し博多湾を遠望し、更に
はその北方にある韓半島を望む位置に作られていたのです。

 この甕棺墓は副葬品の質・量ともに突出した内容から王墓と見られております。出
土した鏡は大半が破片状態ですでに散逸しており、現在は博物館や大学の研究室
などに一部が分散して保管されているようですが、常時展示されているとは限らない
上、機関等によっては撮影が禁止されているなどの制約もあるため、私などのような
一介の在野の物好きが、全体の姿を確認するのは容易なことではありません。

 出土した鏡は前漢鏡とされておりますが、私には一つの疑問がありました。時代が
古い中国の鏡は直径が10〜15cm程度とやや小ぶりであるのが普通であるのに対
し、須玖岡本遺跡から出土した鏡(片)の中にある草葉文鏡と呼ばれている鏡は、博
物館などで断片を集めて展示してあるものを見ると22cm程度はありそうに見えまし
た。このような大きな鏡がこの時代に本当に中国で作られたのかという疑問でありま
した。

 と書きますと、その程度のことが何が問題なのか、と疑問に思われる向きもあるか
と思います。鏡は元々は化粧道具の一つであったということについては異論がないよ
うです。そうであれば、日常的に使われるわけですから扱い易くなくては意味がありま
せん。直径が20cmを超えるような銅鏡ですと重さも1Kg程度にはなり、もう少し大きく
なれば更に重くなるわけですから扱いづらくなるのは避けられないと思います。それ
だけが理由かどうかは分かりませんが、早い時代の中国の鏡は比較的小ぶりなもの
が殆どなのです。手鏡みたいな用途と考えた場合はそれで十分だと思われます。

 時代が下がると、鏡の用途も多様化し、葬具としても用いられるようになり、大きな
直径のものが出てきたり裏側の模様も神仙と関連したものなどが出てきます。道教
の影響を受けて神仙思想が広まりましたが、それは華北よりも江南地方において盛
んであったようで、この面からも三角縁神獣鏡に見られる東王父や西王母といった
神仙と白虎や青龍といった神獣とを組み合わせた図案を、薄葬令に見られるように
神仙思想に対する染まり方が江南よりは少なかったと考えられる魏の鏡と見ることに
は無理が感じられます。

 私の疑問は、一見して中国のものと分かる小ぶりの草葉文鏡が展示してある博物
館の別のコーナーでは、図案としては全く同じ草葉文ではあるものの、須玖・岡本遺
跡から出土した大ぶりの草葉文鏡(破片を並べたもの)が中国の前漢鏡として当然
のように展示してあったことでした。博物館で質問をしましたがその場では要領を得
ず、担当者につなぐので文書でほしいと言われました。FAXを送って待つこと約1月、
FAXで返事が来ましたが、詳しくは分からないので参考文献等を紹介するから自分
で調べてほしいと言うものでした。因みにこの、ある大学付属博物館では写真撮影を
断られたため、代わりに対象物の記載がある図録等を尋ねましたが、受付の方が申
し訳なさそうに、それは用意していないと返事をされたことが印象的でした。

 疑問は「奴国の丘歴史資料館」で確認することで解消しました。係りの方が、今は
現品がないので文献でしか確認出来ないと断りながら、D地点から出た前漢式鏡に
はいくつかの異なった大きさや種類のものが混じっていたこと、その中の大型の草葉
文鏡については中国でも王侯クラスの墓からは同じ程度の大きさの草葉文鏡が出土
した例があり、このことからD地点の王墓の被葬者は中国からも王侯クラスとして認
められていた可能性が高いということを丁寧に説明してくださいました。只、大型化す
るのは時代的には下がるようです。

 ということで、この墓は被葬者が誰であるかは分からないものの、奴国の首長の墓
とされております。年代的には埋納されていた鏡の形式(前漢式)から前漢時代、す
なわちBC1世紀頃と想定するのが大勢のようです。この想定が正しいとした場合、倭
人伝では魏使の傍線行程に位置する奴国(その当否はすでに述べましたので繰り返
しません)は、倭人伝の時代よりはるか以前から中国と交流があり、女王国に付属す
る一国程度の位置づけにもかかわらず王侯クラスの鏡を手に入れていた(下賜され
ていた)ことになります。

 もしそうであれば史記や漢書の中に鏡の下賜について触れられていても良いように
も思いますが、それはないようです。武帝(〜BC87)の時代までを対象としている史
記には倭とは書いてありませんが、徐福に関する記事の中で海中の神仙が住む山と
して出てくるのが日本列島を指すと思われる唯一の記述であります。漢書になるとも
う少し具体的になり、「楽浪の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的
に朝貢してくるという」と言う記述があります。定期的な朝貢の見返りとして鏡が下賜
されたという可能性がないとはいえませんが、王侯クラスの鏡を下賜したのであれば
もう少し漢王朝の自賛めいた記述があっても不思議ではないように思います。

 それはともかく、須玖・岡本遺跡から出土した大量の鏡(片)の殆どは前漢式鏡で
あったのですが、その中にあって1面だけ他とは趣の異なる鏡がありました。?鳳鏡
(きほうきょう)と呼ばれるこの鏡は後漢の時代になってから作られ始め、その後相当
期間に渡って作られた鏡であることは、年号が入ったいくつかの鏡から見て間違いな
いようです。とすれば、一緒に出土する鏡が前漢の形式であるからと言っても、D地
点の被葬者が埋葬された時代は前漢とはなりえず、後漢の時代以降であることにな
ると思います。細かな破片状態で発見された鏡が多い中で、この鏡は比較的大きな
破片で見つかり、東京国立博物館に所蔵された後からも収集先を尋ねるなど断片を
集める努力が行われ、現在ではほぼ完品に近い形まで復元されております。

 ?(き)鳳鏡につきましては、9号メールでご紹介しました梅原末治氏が100面以上
の?(き)鳳鏡を丹念に比較することで、時代によって少しずつ形や模様等が変化する
ことを突き止められ、「筑前須玖遺跡出土の?(き)鳳鏡に就いて」という論文としてま
とめておられます。その内容については細かな話になりますので省略して結論部分
だけをご紹介すれば、「(略)従って鋳造の実時代は当然後漢の後半、如何に古くと
も2世紀の後半を遡り得ないことになるわけである。(略)これを要するに須玖遺跡の
実年代は如何に早くとも本?(き)鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧ろ3世紀の
前半に上限を置くべきことになろう」とされております。

 梅原博士は邪馬台国近畿説の立場であった方ですが、学問の上での事実の捉え
方は客観かつ公正であったことが一読して伝わってくるような論文であると思いま
す。現在近畿説に立つ一部の学者に見られるような、都合の悪い事実からは目を背
けるというような、事実選択に対する恣意的な姿勢の兆しも見られない貴重な論文で
あることは疑いありません。

 D地点からは、多くの前漢式鏡と一つの後漢末期以降と見られる様式の鏡が一緒
に出土したことになります。両形式の間には年代的に3〜4百年の開きがあります。
枚数の比率が逆で、多くの後漢末期以降の形式の鏡の中に1面の前漢式鏡が交じ
って出土したのであれば問題ないのですが、そうではないため、梅原氏も何か間違っ
て入り込んだのではないかという疑問も頭の隅にあったのか、念のため鏡片が集め
られた過程を検証しておられます。その結果いずれも須玖・岡本遺跡から出土した
破片を集めたものであることは間違いないとの結論を得ておられます。

 さて、梅原論文が意味するところは、須玖岡本遺跡のD地点の大石の下の被葬者
が葬られた年代は早くても紀元100年代の後半、妥当なところでは200年代の前半と
いうことですから、まさに魏の使者張政が遣わされて、ほどなく卑弥呼が亡くなったと
思われる紀元247年頃が含まれる年代になります。明帝の詔には親魏倭王の金印と
並んで王侯クラスに与える鏡が含まれていたことを、言外に示していたのかもしれま
せん。以上のことから須玖・岡本遺跡D地点が卑弥呼の墓であった可能性は極めて
高い、と言っても良いのではないかと思いますが、皆さんはどのようにお考えになりま
すか。

「奴國」はどこか
 このあたりで今一度倭人伝に戻ってみることにしましょう。伊都国についての記述
に続いて、「東南奴國に至ること百里」と出てくるのが今問題の「奴國」であります。二
萬餘戸とありますから、当時としては大集落です。6号メールで説明しましたように「奴
國」は女王国への傍線行程に当たりますから、魏使は「伊都国」から東に進んで「不
彌國」へ行く途中に「奴國」を遠望したと考えられます。距離的には[伊都国」の東南
百里(8Km弱)とありますから、「伊都国」から海岸に沿って進めば高祖山系北端の丘
陵を過ぎた辺りから東南方向に「奴國」が遠望できたのではないかと思われます。高
祖山系北端から春日市付近までは、大まかに計って直線で14Km程度ありますので
(伊都国の中心部から計っても同程度)、この点からも「奴國」を春日市付近まで持っ
ていくのは少し無理があるように思います。

 「伊都国」から東南6Kmほどのところにあるのが吉武・高木遺跡です。同遺跡から
は銅剣、銅戈、銅矛等の青銅製武器11点、多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡(1面)、玉
類多数(464点)が出土しております。この中で多鈕細文鏡は紐を通す鈕が鏡の中心
部に一つではなく、中心をはずした位置に複数(普通は二つ)並んで配置してあるの
が特徴です。この鏡は日本では福岡県西南部から佐賀県の東部に掛けて集中的に
出土していますが、他の地域では極めて少数しか見つかっていないと言う出土面で
の特徴があります。遼東付近から韓半島に多い鏡で、中国系の鏡とは異なり、鏡面
が凹面になっています。凹面であれば比較的小さな鏡でも広い範囲を見ることが出
来ます。いわば広角レンズのような働きがあるのですが、なぜそのような形になって
いるのかは良く分かっておりません。単純に考えれば、そのほうが小さな鏡面で広い
範囲(顔全体)を写すことが出来るということになるのですが、皆さんの判断にお任せ
したいと思います。

 また、一緒に出土した武器の形式からみてもこの遺跡は紀元前の集落であるとい
う見方は妥当だと思われます。かなり早い時期から韓半島や中国東北部と何らかの
交流があったことを示しているようです。吉武高木遺跡の少し北に弥生時代を通じて
営まれたと見られる野方(のかた)遺跡があります。この一帯は紀元前から弥生時代
を通じて相当規模の集落があったことは間違いありません。現在この一帯に残って
いる地名には、野方、野芥(のけ)、野河内(のごうち)など「の」が付く地名が見られ
ます。倭人伝の記述と現在に残る地名から考えて、この付近が「奴(の)国」であると
考える方がすんなりしているように思いますが、いかがでしょうか。

「不彌國」から「邪馬壹國」へ
 倭人伝では[伊都国」から東行百里の所に「不彌國」があると記述されています。
「東行」と言うことから考えて魏使の直線行程に当たると考えられます。距離と方向か
ら考えると現在の西新町付近が「不彌國」の入り口と考えられます。この付近には西
新町遺跡があります。博多湾に臨む砂丘上の遺跡で、これまでの数十回にわたる発
掘調査で、住居跡や韓半島との頻繁な往来を物語る多量の韓半島系の土器が見つ
かり、3・4世紀最大の国際交易港として栄えていたことが明らかになっております。
位置から考えて女王国の海外交易等の拠点であったのではないかと想像しておりま
す。

 西新町遺跡は、特に弥生時代の発掘データで注目すべきものが多く、昭和51年
(1976)、現在の修猷館高校の辺りから弥生時代後期のものと思われる「西新式土
器」が出土しています。これは、卑弥呼の時代の土器としてよく知られています。また
その頃の「竪穴住居」が、平成4(1992)年、西南学院高等学校南側にある病院新築
の際の発掘調査で見つかりました。この住居には作り付けの竈があったということ
で、これはかなり珍しく、当時はもちろん現在でも日本最古の竈とされております。残
念ながら現在では写真でしか残っておりません。

「不彌國」が東方向へどの程度広がっていたのかは倭人伝の記述からは分りませ
ん。が、前メールでも触れましたように、古い時代には博多湾が大きく湾入していた
地形(住吉神社に伝わる古図参照:上が南)から考えて、ここは「不彌國」の入り口
(見方を変えれば不彌國の西北端)でありますので、魏使が「不彌國」の中心部に向
かうには海岸に沿って山側を迂回して進んだのではないかと思われます。

 倭人伝には、「東行不彌國に至ること百里」の後は行程の説明としては傍線行程の
投馬國の記述に続いて、「南、邪馬壹國に至る、女王之都する所」とされております。
これは「不彌國」の南に接して「邪馬壹國(女王国)」があると理解するのが自然だと
思います。その場合、福岡平野の比恵・那珂遺跡群が「不彌國」の中心部であり、そ
の南に接して位置する春日市の須玖・岡本遺跡群が邪馬台国であるとみるのが、倭
人伝の記述、出土物、王墓、現地の地形等から考えて最も状況に合致するように思
われるのです。

 邪馬台国の位置については以上で大略説明を致しましたが、倭人伝では邪馬台国
が邪馬壹國と記載されていることはすでにご承知の通りです。ではそれを示す痕跡
のようなものは残っていないのでしょうか。文献等で分かる範囲で調べてみることにし
ましょう。

 3号メールでもご紹介しましたが、万葉集上巻に814番歌として山上憶良の「鎮懐石
を詠む歌」が収録されております。神功皇后が三韓征伐を前に石で帯を抑えて産気
を鎮めたとされる言い伝えを詠ったものです。その左注に「右事伝言那珂郡伊知郷
簑島人建部牛麻呂是也」と記述されております。現代語に直すと「右の事を言い伝え
るのは、那珂郡(なかのこおり)伊知郷(いちのさと)簑島の人、建部牛麻呂(たてべ
のうしまろ)である」ということになります。

 詠まれた時期は天平元年(729)のことですから、8世紀前半に存在した郡・郷名で
あることは間違いありません。当時那珂郡に伊知郷と呼ばれる郷があり、その郷に
は簑島と呼ばれた場所があったことを表しております。このうち那珂郡は明治29年に
筑紫郡に吸収され今はありませんが、少なくとも天平から明治まで続いた地名である
ことは確かであります。伊知郷という地名は日本最古の地名辞典とされる和名抄
(935年、醍醐天皇四皇女、勤子内親王の求めに応じて、源順(みなもとのしたごう)
が編集したといわれる)には載っておりません。歌が詠まれてから約200年後には地
名が消えていたことになりますが、消された可能性もあり、このことだけでも追いかけ
ていくと大変なことになりそうですが、此処では後日の研究に待ちたいと思います。

 簑島は、現在の町名は美野島と表記されておりますが、上の博多古図にある簑島
であることは異論がないと思います。当時から現在まで続く地名であります。江戸時
代のものと思われる住吉神社の古図でも文字通りの島として現されておりますが、現
在では都会の真ん中に位置しています。この付近は伊知郷(いちのさと)と呼ばれて
いたわけです。青柳種信は「筑前続風土記拾遺」の中で、「住吉村の枝村簑島は本
村(住吉)の南に在。名所也。伊知郷、和名抄になし。早く廃せしなるべし。猶、井尻
村条考え見るへし。」と記しております。簑島は住吉村の支村でその南にあり名所で
ある。また、伊知郷は和名抄になく早い時点で廃せられたのであろう。猶、井尻村条
を考えて見るべし、と言っているわけです。

 その井尻村については、「或は云う。この村名井尻は万葉集に出たる伊知郷の遺
名なるべしといへり。猶よく考ふべきなり。」と記してあります。井尻村は万葉集にある
伊知郷の遺名であるという一つの言い伝えがあったことを示しております。

 一方、須久・岡本の中に「山」という字(あざ)地名があります。明治期は「筑紫郡春
日村大字須久中字岡本小字山」とされておりました。大字が須久で中字が岡本、そ
のなかに小字の「山」という地名があったというのです。日本各地に何々山と呼ばれ
る地名は数え切れないほどありますが、「山」自体が字地名になって残っているという
のは尋常ではない響きがあります。王墓とされるD地点から少し南に上ったところに
熊野神社という小さな神社があります。現在は手入れも行き届いておらず寂れた印
象は免れませんが、この神社の社宝に銅矛の鋳型があります。古代から由緒ある場
所ではあるようです。その熊野神社の地番は「筑紫郡春日村大字須久岡本、字山
781番地」となっております。現在でも熊野神社の地は特に「山」と呼ばれているので
あります。政治上もしくは宗教上の中枢として固有名詞化した「山」の呼称、そのよう
に看做すべき可能性を色濃くたたえている地域であると言えるのではないでしょう
か。

 伝承によれば伊知郷の範囲は少なくとも簑島から井尻までに及んでいたことになり
ます。須玖・岡本遺跡は井尻のすぐ南になります。すなわち、「山」と呼ばれた場所の
少し北側一帯が伊知(壹)と呼ばれていたことを意味します。これは「山」と呼ばれる
周辺から敬意が払われる場所があり、その一の子分として「伊知(壹)国」があったと
いう痕跡を示しているように考えられるのではないでしょうか。「山、一国」すなわち
「邪馬壹國」であります。

 比恵・那珂遺跡群と須玖・岡本遺跡群の二つの遺跡群を「奴(な)国」として固定さ
せ、日本列島の他の場所で「女王国」を探す限り、女王国はまたもや幻のようにどこ
かに消えてしまう、と言っては云いすぎでしょうか。

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参考文献
三国志、魏志東夷伝 陳寿
筑前須玖遺跡出土の?鳳鏡に就いて 梅原末治 
(古代史徹底論争 古田武彦編著 駸々堂 掲載)
失われた地名伊知郷 灰塚照明 九州古代史の会NEWS 52、53号 掲載

兼川 晋 私信
福永 晋三 私信
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参考Webサイト
全国遺跡・旧跡案内
http://inoues.net/ruins/nishijin.html



第16号 女王国の検証






























































































































































































































































































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草葉文鏡(断片)
草葉文鏡(断片)
草葉文鏡(復元品)
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D地点解説版
D地点解説版
須玖・岡本遺跡D地点
須玖・岡本遺跡D地点
吉武・高木遺跡出土青銅武器
吉武・高木遺跡出土青銅武器
吉武・高木遺跡
吉武・高木遺跡
銅矛鋳型(熊野神社)
銅矛鋳型(熊野神社)
多鈕細文鏡
多鈕細文鏡
き鳳鏡
き鳳鏡