No18:TK氏のメール
前号に対してTK氏から再度メールが来ました。古代史(考古学)を業としておられる
方と拝察しておりますが、その方から見ると、私の推論はとんでもない暴論のようで
す。二度目のメールにも拘わらず匿名であること、自分の意見は述べずに私の意見
に対する否定のみされようとされる、など問題点があり、取り上げることに多少の躊
躇もありましたが、私としても論議は望むところであり、相手が止めると言うまでは続
けるのがこのマガジンを始めた以上、自分に課せられた務めかもしれないと考えまし
た。また、一部の古代史(考古学)を業とされる方の体質が典型的に現れていると言
う側面もあり、現在の日本の古代史を取り巻く空気の一端を理解して頂く上で格好の
材料とも考え、全文を掲載することに致しました。まずは目を通して頂きたいと思いま
す。
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こんばんは。T.K.と申します。
メルマガの中で、私のメールの指摘から調査され、伝須玖出土のキホウ鏡につい
ては、D地点王墓出土かどうか怪しいとまでを認められたことは評価したいと思いま
す。
しかし、結局のところD地点王墓をどうしてもヒミコの墓にしたいようですね。メルマ
ガの後半は、何の根拠もない非科学的な駄文に過ぎないと思います。非常に残念で
す。
キホウ鏡が伴わないであろうことを認めるなら、D地点王墓は、言及されている付
近の特定集団墓(「王族墓」)と同じく、中期後半(立岩式)の時代であり、紀元前1世
紀後半、新しくしても1世紀初頭前後までのものにしかなりません。古制を残したとい
うような書き方ですが、なにゆえにこれらの墓群だけ古制を300年近くも残したの
か、またその証拠も全くない珍説です。
前にも書きましたが、D地点王墓をヒミコの墓にしたい古田説を墨守したいがゆえ
の発想にすぎず、まさに「科学的な」根拠に欠けます。
なお王墓と特定集団墓が近くにある例は、広く検索されれば分かるかと思います
が、須玖岡本だけの事例ではありませんし、時期の限定はできません。
立岩式(須玖2式)の時代を突然3世紀に下ろすとなると、これまでの比恵那珂遺
跡や須玖岡本遺跡の遺構と遺物の紹介と評価と支離滅裂になってしまいます。
例えば、須玖岡本の青銅器工房群の隆盛は弥生後期後半から終末で、そのことを
大きく評価されているはずですが、立岩式を3世紀にしてしまったら、いったい何時の
時代になるのでしょうか?編年という考古学上の年代スケールにのっとった話をされ
ていたはずですが、それを放棄してしまったら、全ての話が水の泡ですよ。「科学的」
の看板をかかげても誰も相手にしないでしょう。
もしも真面目に議論されるのであれば、考古学的年代について確かな証拠を揃え
て論陣を張って下さい。なおAMS年代で従来の考古学年代が崩れたかのようなこと
を引き合いにしていますが、まず弥生前半期の年代についてはまだ論争中ですし、
論争の過程でAMS年代についても多くの問題点が指摘されつつあります。またC14
のAMS年代でも、考古学上の土器編年(相対年代)についてはむしろ検証されてい
ます(前後関係は正しい)。また、紀元前1世紀以降については、これまで想定してき
た年代をむしろ追証するか、若干古くする可能性を指摘していますが(ただし土器外
面の煤を主資料とする以上、全体として若干古い年代に偏る可能性は否めない)、
大きく新しくなることはありません。ですから、例えば後期後半(およそ2世紀とされ
る)の年代が3世紀になることはなく、ましてや中期後半の年代が3世紀になることは
ますますありえません。
ちなみに、福岡平野をどうしてもヒミコのいた場所にしたいのなら(私はそう思いま
せんが)、弥生終末で隆盛が終わる須玖岡本よりも、繁栄が古墳前期に続く比恵那
珂の候補地として評価された方がむしろ建設的ですし、考古学的な年代観とも合致
すると思います。なお、3世紀になれば、吉備や河内、大和等でも匹敵する大型遺跡
群があるので、福岡平野だけに固執するのはいかがかと思いますが。
いずれにしても、須玖岡本D地点王墓を3世紀とすることはきれいさっぱり捨てた上
で、新たに資料を検索されて考証されることをお勧めします。
T.K.
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TK氏のメールでは事実関係に関わる部分と古代史に関する取り組み姿勢に関す
る部分が混じっており、その底流には特定の研究者(古田氏)に対するある種の感
情(嫌悪感)があるように感じられます。それらを区別して論じたいと思います。
先ず事実関係ですが、?(き)鳳鏡については出土状況に議論があり、今となっては
真偽の程を確認するすべが無いことから、これを論拠の中心に据えることは難しいと
判断して一旦(論拠の中心から)外すことにしましたが、混じり込んだものであるとい
う明確な根拠があるわけでもありません。従って、D地点出土の可能性は留保してお
きたいと思います。
次に「D地点王墓は、(略)中期後半(立岩式)の時代であり、紀元前1世紀後半、新
しくても1世紀初頭前後までのものにしかなりません。」「またC14のAMS年代でも、考
古学上の土器編年(相対年代)についてはむしろ検証されています(前後関係は正し
い)。また、紀元前1世紀以降については、これまで想定してきた年代をむしろ追証
するか、若干古くする可能性を指摘していますが、大きく新しくなることはありませ
ん。」と言う点です。
これに関しては現在判明している範囲ではその通りであると申し上げなければなら
ないでしょう。国立歴史民族博物館(以下歴博と略します)の最近の見解でも弥生時
代の開始時期が500年程度早くなるのに対応して、中期の始まりが約200年、中期中
葉が約100年早くなるとされ、後期につきましては今のところ大きな変化は見られない
とされております。
弥生時代が全体的に従来よりも少しずつ早くなる傾向ははっきりしてきたと言える
と思います。では今まで積み上げられてきた相対編年自体に問題点は無いのか、即
ち今までの編年は相対的には正しく全体を少しずつずらせば絶対年代に対応するの
か、また、部分的にも従来の年代観と異なるデータが得られるケースは無いのかと
言う問いに対しては、現在のところ明確な結果は出ていないようです。歴博によりま
すと、従来の土器編年に関して、相対的な順序が炭素年代から得られた年代と明ら
かに矛盾するケースは現在のところ見つかっていないようです。が、型式によっては
測定データが少ないために判断できない場合もある、とも言われます。
何よりも問題なのは歴博の発表以来、放射性炭素による年代測定を無視は出来
ないと言う感じが研究者の中に醸成されつつあるようには見えますが、他の博物館
や研究機関などはまだ模様見と言った感じで、自分の問題として積極的に取り組もう
としているようには見えないということが挙げられます。つまり、1件あたりの検査費
用は格段に安くなり数千円からせいぜい1万円程度で出来るようになったにも拘ら
ず、各研究機関の収蔵庫等に収まっている遺物のうち可能なものについて、放射性
炭素による年代測定を行う動きはまだまだ鈍いように見受けられるのです。
発掘現場では相変わらず従来どおりの発掘が行われており、出土状況の詳細な記
録やC14年代測定が出来る可能性がある有機物の扱い等についても新たな発掘マ
ニュアル等が出来た様子も見られません。この辺りにも本音では邪魔者扱いしなが
ら、都合の良いところだけは取り入れようという姑息な体質が垣間見えるようです。
尤も、有機物については長年埋まっていた状態のものを空気にさらすと、一時に、
鮮やかな色がたちまちのうちに黒く変色するというような、変質が進むという現象が
あるため、重要と思われる有機物は早い段階で保存処理が行われます。一旦保存
処理を行うとC14測定でも正確な値が出にくい(古い値が出易い)と言われております
ので、既存のものは何でも測定を行えばよいと言うような簡単なものでもないようで
す。
とは言え、土器などの中には保存処理を行っていないものも多いため、注意深く煮
炊きした煤の跡などを見つけて測定を行うと言う事はやろうと思えばすぐにでも出来
ることであります。私もある文化財センターで鉄器に木片が付着しているのを見つけ
てC14測定による年代測定の話をしましたが、全く考えていなかった、と言う返事にが
っかりした覚えがあります。たいした金額ではないので予算に組み入れるよう希望を
言っておきましたが、気の無い返事が返ってきましたので実現は難しいかと感じまし
た。
このような状況の中、考古学上の土器編年(相対年代)についてはむしろ前後関係
は正しいとして検証されている、と言われてもデータも少ない中で俄には首肯すること
が出来ないと考えております。土器編年について言えば、現在まで営々と形式変化
の研究を積み重ねてこられたように、それらの出土物を可能な限りC14測定を含む
科学的なやり方で絶対年代の検証を行い、得られたデータの統計的処理を行うなど
して、きちんとした世界に通用する日本の年代観が確立されることが待ち望まれま
す。
その上で、やはりD地点の出土物は公表どおり古かったということになれば、私は
喜んで卑弥呼の墓である可能性を撤回したいと思います。
その場合でも、須玖岡本遺跡一帯が魏志倭人伝に言う「邪馬壹國」である可能性
は高いと言う現時点の判断は変えなくても良いのではないかと考えております。その
理由は、繰り返しになりますが、倭人伝を自然に解読すればこの付近に行き着くこ
と、出土物が記述内容と矛盾しないこと、地名等の伝承とも矛盾しないこと、この一
帯が当時の最先端の文明地帯で都と呼ぶのに相応しいと考えられること、などであ
ります。
いわゆる邪馬台国の問題を考える上で最大のネックは、須玖岡本一帯がかなり早
くから住宅地となっており、建て替え時等において断片的な発掘は行われましたが、
系統的な発掘は今まで行われなかった(出来なかった)、と言う点にあると考えていま
す。破壊された遺物なども少なくないと思われますし、まだ知られずに眠っている遺
物も少なくないと思われます。このあたりを全面的に発掘してみることが出来れば、
いま少し確かなことがわかるのではないかと考えているのですが、所詮夢のまた夢
に終わるのでしょうか。
さて、TK氏は「D地点を卑弥呼の墓にしたい古田説を墨守したいがゆえの発想に過
ぎず」と言われます。これはTK氏の想像に過ぎませんが、一面で古代史(考古学)を
業としておられる方の体質を良く表している言葉だと感じられます。その第一は、業と
しておられる方(特に近畿説の方)の中には、自分の思い込みで人を決め付けると言
う傾向がかなり広く見られるという点であります。TK氏も(近畿説かどうかはともかく)
その範疇の方のようです。
私にとりましてはどのような方の考えであろうと合理的に考えて納得できるかどうか
と言うことが判断の基準であります。それは古代史の大家と言われる方でも、大家と
言われる方とは異なった意見を発表されることが多い古田氏でも違いはありません。
只、この30年以上にわたって発表されました古田氏の説には納得できる点が多いの
は間違いないと思っております。
しかしながら、いつでもどの問題に対しても古田氏の考えが正しいと思われるのか
と問われれば、残念ながら「否」と答えざるを得ないでしょう。まして宗教ではありませ
んから、墨守などという考え方はおよそ入り込む余地がないと申し上げたいと思いま
す。今まで私が述べてきたことを良く見て頂けば古田氏の意見とは違っている部分
があることにお気づき頂けると思います。何よりも古田説を墨守するためだけなら
ば、毎回苦労して調査などする必要など無いわけでして、そのことを理解しておられ
ながらこのような言い方をされる、と言う点に古代史を業としておられる方の古田氏
に対する持って行きようのないある種の感情が感じられます。
古田氏であれ誰であれ、出された考えが間違っているのであれば違うと言い、間違
いとは言えなくても自分は別の考えであるならば、そのように主張すれば、そこから
新たな議論が始まり真実に近づいていくと思われるのですが、今まで古代史や考古
学を業とされる方の中で古田氏が出された多くのの論点に対し、その一つに対しても
正面から取り上げ反論をされた方はごく少数の方しかおられません。大部分の方は
取り上げもせず、反論もせず(出来ず)、ひたすら無視を決め込んで従来説を踏襲
し、陰に廻って古田説には直接触れずに古田氏の陰口を言う、というのがここ数年
の実態ではないかと思われるのです。
と申し上げても大部分の読者の方には、具体的にはどういうことなのかよくお分か
りにならないのではないかと思われます。それを説明するのは膨大な紙面が必要に
なりますので、今後の当マガジンの中で少しずつ説明する場面があると考えておりま
す。追々ご理解いただけると考えておりますので今はこの程度でお許しください。
尤も、古田氏もその性格上、主張のやり方は徹底しており、程ほどで折り合うという
ような場面は見られないため議論をされた方は辟易されたと言うようなことはあった
ようです。しかしながらそれと事実の追求とは次元が違う話であり、反論できないから
(或は議論をやりたくないから)議論はしない、ということで出された多くの論点を無視
できるものではないと考えております。言い方を変えれば業とされる方がいつまでも
殻に閉じこもっておられるように見えるところから、私のような一介の在野の物好き
がこのようなマガジンを発行するようになった次第でもあります。
最近では古田氏によって古代史探求の糸口を見つけられた方々によりまして、探
求も深化し古田氏が言及されておられない場面でも色々な発見等が相次いでおりま
す。いずれ当マガジンでもそれらの成果を取り上げる予定にしておりますが、一般の
方々とのギャップが余りにも大きいため準備段階なしに申し上げても消化不良になる
ことが見えております。早く追いつきたい気持ちは山々ですが、やはり少しずつ確実
に進めて行くより無いと考えております。
TK氏のメールから話が予定外の方向にそれてしまいました。この機会にいま少し
私から見た古代史(考古学)の世界の話をしたいと思います。私は、ごく一部の方を
除きまして、古代史(考古学)を業としておられる方の言われることを額面どおりに受
け取ることが出来ないと感じております。一番大きな理由は、業としておられる方の
判断基準が、合理的に納得できるかどうかと言うことよりも、誰が言っているのかと
いう点により大きな比重が置かれているように感じられるからであります。
端的な例が石器捏造事件でありました。若手研究者の間では、どうも変だ、と言う
声は以前からあったようですが、大きな声になる前に権威者といわれる方の睨みに
よってかき消され、報道機関がスクープするまで表に出なかったのであります。事実
に対する謙虚な姿勢があれば、このような大騒ぎになるまでに解決しているはずのも
のでした。
結果、藤村氏一人を悪者にして幕は引かれたようでありますが、そのような単純な
ことではなく、根は深いのもがあるようです。勿論当事者の藤村氏の行為は弁解の
余地が無いものでありますが、新たな発見を期待した(煽った)人、持ち上げ持て囃
した人、それにより意見発表の場を得た人、理論付けを行うことで地位を確立した
人、記事にして利益を得た人、鵜呑みにして喧伝した人、など多くの人が関係してい
ながら、大家や権威者と言われる方、また、色々な意味で権限をもっておられる方の
意見に合わせることで研究活動と考えてきたような古代史を取り巻く学界の体質の
問題を反省する内部の意見は、例外を除いて、表に出ておりません。詳しくお知りに
なりたい方は、「神々の汚れた手」奥野正男、梓書院をお読みください。
そしてこの度の歴博による放射性炭素による年代測定結果発表に対する反応で
す。弥生時代が約500年遡ると言う事は、今まで言われていたよりも弥生時代の長さ
が倍近く延びると言うことであります。日本では土器編年で十分と強弁され、放射性
炭素などと口に出せばそれだけで睨まれたほどの権威は一瞬にしてどこかに行って
しまいました。今までの定説は一体なんだったのかと言う率直な疑問に対してまとも
な答えや反省の言葉を見ておりません。しかしながら、従来の相対編年も明らかに
違っていると言うデータが出なかったことで、一安心して、今までの年代観の誤りには
口をつぐみながら、都合の良いところだけは取り入れようとされているように見えるの
です。
本来であれば、一つずつの測定データを積み重ねて検証すべきであるにもかかわ
らず、いくつかの例で裏付けられたとして、本格的な見直しを行う動きは鈍いように見
えております。時間軸と言う古代史(考古学)にとりましては一番大切な基準に対する
取り組みを歴博という一機関に任せて、他の機関は様子見の上で都合の良い点だ
けは取り入れようというような事で良いのか、と言う疑問は本格的に古代史の探求を
心がけている多くの人のものであります。権威に逆らわないと言う体質が変わらない
限り、言い方を変えれば事実に対して謙虚であると言う姿勢にならない限り、報告な
どを額面どおりに受け取ることが出来る日が来るのは遠いと言わざるを得ないと思
います。
さてTK氏のメールに返って、若干の意見を述べておきたいと思います。
「王墓をヒミコの墓にしたい」と言う言い方をされます。これも理解しにくい言葉で
す。事実は一つであり、こちらがしたいと思おうが、したくないと思おうが事実のほう
は斟酌してくれません。合理的に考えて納得できるかどうかと言う点のみが基準であ
ると考えておりますので、「王墓をヒミコの墓にしたい」などと言われると面食らうのみ
であります。或はご自身の思考パターンが先に結論があって、後から理屈を考えると
言うことに馴染んでおられるので、他の人も同様と考えておられるのかもしれません
が、見当違いといわざるを得ません。時間軸に対する本格的な見直しの結果やはり
古いという結果が出れば撤回することは上で述べたとおりであります。
また、「考古学的年代について確かな証拠を揃えて論陣を張って下さい」と言われ
ます。時間軸と言う確かな証拠が曖昧だから我々が苦労しているのでありまして、そ
のようなことを言われる前に、世界に通用する確かな時間軸の物差しを用意して下さ
い、と申し上げたいと思います。それこそが公的なお金で研究活動に携わっておられ
る方の使命ではないかとも考えております。
さらには、「『科学的』の看板をかかげても誰も相手にしないでしょう」と言われます。
相手にするかしないかは読者の皆さんが決めることで、どなたであれ、ご託宣を頂く
ようなことではないと考えております。このような言葉が出てくる辺りにも、あやふやな
根拠のものを強弁してこられた体質がにじみ出ているように感じました。
「福岡平野をどうしてもヒミコのいた場所にしたいのなら(私はそう思いませんが)」と
も言われます。したい、したくない、と言う話は上で述べましたので繰り返しません。ご
自分の考えをお持ちであれば、それを示した上で意見を展開されるべきと考えます。
その場合、石器捏造問題では発覚以前と以後でどのような対応をとってこられたの
か、また、歴博発表以前に弥生時代の年代をどのように考えておられたのか、今回
の発表をどのように受け止められたのかと言う点を明らかにして頂きたいと思いま
す。
「3世紀になれば、吉備や河内、大和等でも匹敵する大型遺跡群があるので、福岡
平野だけに固執するのはいかがかと思いますが」。これに対しては今まで縷々説明
してきたことがお分かり頂けていないという意味で、甚だ残念だと申し上げる以上の
言葉はありません。まだ近畿説にも可能性があるとお考えでしたら、今一度バックナ
ンバーの全文をお読み頂いて私が述べてきましたことの何処が納得できないのかを
ご指摘の上、ご自身のお考えを述べて頂きたいと思います。
最後に、「須玖岡本D地点王墓を3世紀とすることはきれいさっぱり捨てた上で、新
たに資料を検索されて考証されることをお勧めします」とのご託宣まで頂きました。ど
のような立場でこのような言い方をされるのか理解に苦しみますが、業とされておら
れる方の(一部ではありますが)謙虚さに欠ける体質の一つの現れ方という以上のも
ではなくコメントする必要もないでしょう。