No20:吉野ヶ里遺跡
前2回に亘って日本の古代史を考える上で、私から見た問題点を整理することが出
来ました。その契機を頂きましたTK氏に改めてお礼を申し上げたいと思います。或
は、私の思い過ごし等による部分も無いとは言えないかもしれません。お気づきの点
等ありましたらご指摘を頂ければ幸いです。
女王国の検証に戻りたいと思います。これまでに魏志倭人伝に言う邪馬壹國の有
力な候補地として須玖岡本遺跡群を挙げました。その中でD地点を卑弥呼の墓の候
補地と考えました。今までご説明しましたようにかなりの点で旨く説明できると考えた
からであります。が、これが現在の考古学の年代観とは相容れないことはTK氏のメ
ールの通りです。土器編年につきましてはここでは再論いたしませんが、放射性炭素
法を含む科学的な方法で検証される必要があると考えております。その結果やはり
古いということが検証されれば、D地点が卑弥呼の墓の候補地とした私の推測は撤
回したいと思います。
その場合でも須玖岡本遺跡群が魏志倭人伝に言う邪馬壹國の有力な候補地であ
ることには変わりはないと思っております。その理由は今まで述べてきましたように、
倭人伝の記述に従う場合、自然な読み方ではこの付近に行き着くこと、地名や地場
の伝承とも矛盾しないこと、出土物から見てこの一帯が当時の最先端の文明がある
都と呼ぶに相応しい場所であること、であります。
D地点付近は春日丘陵の北端に接しており、すぐ南の丘陵の入り口にあたる小高く
なったところに熊野神社があります。熊野神社の江戸時代以前の由緒につきまして
ははっきりしませんが、位置から考えて、かなり古い時代に祭祀が行われていた場
所であったとしても不思議ではありません。また、福岡県一帯には隈(くま)という名が
つく地名が多いことは良く知られております。それから連想されるのは熊襲であり、日
本書記にも熊襲の征服譚が出てきます。隈と熊では字が異なるではないか、という
疑問をお持ちになる方があるかもしれませんが、日本の古くからの地名を考える場
合、「漢字」は後から充てられたものであり、判断の基準は「音」であることを念のた
め申し上げておきたいと思います。
という訳で、大掴みに言えば春日市は隈地名の中心部といえるかと思います。その
中心地帯にあるのが熊野神社であります。現在まで熊野神社の発掘調査は行われ
ておりませんが、もし将来調査が行われるようなことがあれば、何らかのことが分か
るかもしれないとも考えております。全くの想像であることをお断りした上で敢えて申
し上げれば、卑弥呼が貰った「親魏倭王」の金印が埋納されている候補地の一つか
もしれないとも考えております。
吉野ヶ里遺跡
さて、このあたりで他の候補地について検討してみたいと思います。よく名前が知ら
れている遺跡は皆様よくご存知の吉野ヶ里でしょう。背振山系の南麓に広がる佐賀
平野は、北側にほぼ東西に連なる1000m級の背振山系が北からの寒気をさえぎる
衝立の役を果たし、背振山系を源として南に下る幾筋もの川が段丘をいくつかの小
平野に分けるという、日当たり、適度の水、なだらかな傾斜に恵まれて、古い時代か
ら稲作の適地であったことは異存のないところでしょう。その中央部の一角に位置す
る田手川の西岸に広がっているのが
吉野ヶ里遺跡です。
吉野ヶ里遺跡のことが初めて学術誌に掲載されたのは大正14年のことのようで
す。工業団地造成計画に伴う調査によって見つかりました。調査に従って予想を超え
た広がりを持っていることが分かり、一般の関心も高まり保存への動きが熱を帯びま
した。紆余曲折はありましたが平成4年10月に国営吉野ヶ里歴史公園として保存が
閣議決定されました。
吉野ヶ里遺跡の名を高めたのは何と言っても当時の概念を超えた大規模な環濠集
落が見つかったことでしょう。当時、九州には大規模な環濠集落はないということが、
定説に近いものとされておりました。それまで九州では板付遺跡に見られるように、
それ程大規模な環濠集落は見つかっていませんでした。これに対し近畿では大規模
環濠集落遺跡としては多重環濠に囲まれた唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡が知られて
おり、概略長径500mの楕円形の環濠に囲まれたその規模は、一番外側の環濠に
囲まれた面積で約23haという広さです。いわゆる邪馬台国近畿説論者の間では、明
言はされなくても、他の証拠はともかく大規模環濠集落の点で近畿説の優位は動か
ない、という受け止め方が大勢でもありました。それを一挙にひっくり返したのが吉野
ヶ里の大規模環濠集落でした。
唐古・鍵遺跡で興味深い事は、計画的な発掘調査の結果、七重ないし八重と見ら
れる環濠がほぼ同時期に存在したと見られ、濠の深さもそれ程深くは無く、断面形も
比較的なだらかで、外敵から守るという目的としては腑に落ちない形状をしているこ
とです。現在では、一部川の水を引き込んだような形から見て、水を利用したある種
の設備(貯木等)ではないかと考えられているようです。また、この遺跡周辺からは金
属性の武器は見つかっておらず、平和な生活が営まれていた様子が窺われます。
対する吉野ヶ里遺跡は当初約25haの規模が分かっておりましたが、その後の調査
で
弥生後期では南北約1Km、東西の最大幅約400mあり、面積は約40ha以上の広
がりを持っていることが明らかとなっております。吉野ヶ里遺跡を際立たせる今ひとつ
の特徴は、出土物から感じ取られる荒々しさでしょう。敵から守るための深い
V字型
の空堀(巾6m、深さ3m)が周囲にめぐらされ、空堀のすぐ外側には土塁が積み上げ
られていたと推定されているため土塁の底から上までは4mを超え、底に落ちれば容
易なことでは這い上がることは出来ないと思われます。しかも空堀のすぐ内側の出入
り口付近など重要と思われるところには、尖った木の枝や幹を土に差し並べた
逆茂
木と呼ばれるバリケード状の木柵が連なり、攻略は容易でないことが感じられます。
遺跡内からは現在までに、甕棺墓約2800基、土壙墓約360基、箱式石棺13基が見
つかっております。甕棺墓からは300体以上の人骨が発見されていますが、激しい戦
闘を裏付けるように甕棺の中からは骨に鏃が刺さった人骨や、
首のない人骨なども
見つかっており、首のない人骨は肩や腕の骨に戦闘でついたと見られる傷の跡が残
っておりました。倭人伝にある「倭国乱れ、相功伐すること歴年」という記述にそのま
ま合致するようにも思われるのですが、傷ついた人骨が出土した甕棺の判定は弥生
中期となるようで、倭人伝の時代よりは2〜3百年遡ることになるようです。この年代
判定が間違いなければ、紀元前に激しい戦闘が行われたことを語っているのかもし
れません。
また、集落は支配層の居住区等を囲むと思われる比較的浅い内濠に囲まれた部
分2箇所(北内郭、南内郭)と集落全体を囲む外濠に囲まれた外郭の二重構造となっ
ており、内郭には4ヶ所の外に向かって膨れている場所があり、その場所の柱穴の跡
から、そこにはかなりの高さの物見櫓があったと推定されています。遺構の様子から
南内郭が支配層の居住区だったと推定されているのに対し、
北内郭は16本の柱を
使った吉野ヶ里最大の建物跡が発見され、主祭殿ではないかと考えられておりま
す。或いは王の宮殿を兼ねていたかもしれません。
北内郭の出入り口は外側と内側の二重構造になっており、外側と内側の出入り口
は左右にずらされ、通路を囲むように柱穴が林立していることから高い塀で囲まれて
いたと考えられます。出入り口は中世城郭の虎口に似た鍵形の構造となっていて厳
重な警戒が行われていたことを示しています。まさに倭人伝の
「宮室・楼観・城柵、厳
(おごそか)に設け、常に人有り、兵を持して守衛す」という記述そのままの古代集落
であるといっても過言ではないでしょう。では、これが邪馬台国に結びつくのかどうか
という点について検討してみることにしましょう。
魏使の九州の上陸地点を松浦半島付近として、方位と距離だけに従って歩を進め
ると吉野ヶ里付近に行きつくのではないか、というのはかなり有力な見解であるかも
しれません。それを倭人伝の記述と合せて検証してみることにします。里程はもちろ
ん短里です。主線行程と傍線行程の事を思い出して頂けますでしょうか。ここでは主
線行程に従って進むルートのみを検討してみます。仮に現在の唐津港付近を上陸地
点とすると、東南方向に五百里(40 Km弱)進んだところが伊都国ということになり、そ
こから東方百里(8Km弱)ほど進んで不彌國に至り、その南に(接して)邪馬台国(邪
馬壹國)があることになります。
地図上でこのルートを調べてみます。唐津付近から背振山系の南縁に沿って現在
の国道323号線を進むと、なだらかな上りとなり観音峠を越えるとなだらかな下りとな
って佐賀市の北方、大和町付近が約40Km地点となります。ここから少し東方に、西
から、西隈古墳、銚子塚、帯隈山神護石など卑弥呼の時代からは少し下がると見ら
れるものの、古代の遺跡があることから見て、この一帯は比較的古くから開けた場
所であったようです。一応大和町付近を伊都国の候補地とすると(Y地点としておきま
す)、そこから東に8Km程度進んだ現在の東脊振村の山寄り地点付近が不彌國に該
当することになり、その南に接して邪馬壹國があるべき場所はまさに吉野ヶ里付近に
なります。距離と方角だけで考えて地図上で場所を探すと、吉野ヶ里遺跡が邪馬台
国の有力な候補として浮上してきます。
倭人伝に距離と方角だけしか書いてないのであれば、これで決まり、と言えるかも
しれません。しかしながら、倭人伝には十分とは言えないまでも途中の国の様子など
の記述がありますので、それらの記述と比べてみることにしましょう。
まず伊都国に該当する場所ですが、多少範囲を広げて考えたとしてもY地点付近
から有力な弥生時代の遺物等が出土したという記録は見られないようです。古くから
開けていたとしても、歴代王がいたと倭人伝に書いてある国としては大きな疑問符を
付けざるを得ないでしょう。また、伊都国は「郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり」と
いう記述にあるように帯方郡と行き来する使者が常に留る場所でもあります。帯方郡
に出発するに際して船旅の準備などを行い、また帯方郡から戻った場合は此処で一
旦休んで疲れを落とした上で目的地へ向かったのではないかと思われます。言うな
れば、陸路と海路の接点に近い場所と考えてよいのではないでしょうか。Y地点付近
ということになりますと、往路の場合は、当時一応の道があったとしても、そこから更
に山道を歩き詰めに歩いて、丸1日かけて行き着くかどうかという感じになると思われ
ます。途中に峠越えもあり、交通の要衝であったという程でもないこの辺りに「常に駐
まる」意味は殆ど想像できません。
更に、伊都国には一大率(いちだいそつ)と呼ばれる、女王国直轄の役人がおり、
帯方郡との往来に常に目を光らせ、帯方郡からの賜遣(しけん)の物や文書を持った
使者が到着すると役人が皆港に出て手違い等が起こらないよう厳重な警戒等を行
う、諸国は一大率を怖れている、という趣旨の記述があります。これから考えると伊
都国は港に近いという印象で、いざという時にはすぐに役人が集まれることが求めら
れると思います。なだらかとは言え峠を越えた山の反対側から監視の目を光らせる
というのは考えにくく、わざわざそのような場所に一大率を配置しておく意味は理解し
にくいと思います。
倭人伝の記述から見る限り邪馬壹國と伊都国とは言わばセットであります。セットと
して成立するためには夫々が余り無理なく要件を満たすことが必要だと思われます。
吉野ヶ里は方角と距離の要件は満たしているとしても、伊都国は、倭人伝から浮か
び上がってくる地理的要件の、「郡使の往来、常に駐まる」、「諸国から畏怖される一
大率が置かれている」、「港に近い」、の三つを満たすためには、峠の反対側にある
ことは致命的と言ってよいかもしれません。さらには、伊都国には代々王がいた、と
いう要件を満たすことも求められます。この面でもめぼしい出土物の無い峠の反対
側の可能性は大きく減じると考えられます。以上のように、伊都国とセットで考えた場
合、吉野ヶ里がいわゆる邪馬台国であることのハードルはかなり高いと言えるのでは
ないかと思います。
次に吉野ヶ里を出土物の面から検討してみましょう。吉野ヶ里は、行政等の事情に
より、時間や範囲を切られて、部分的・断片的な発掘が行われる中で発見された多く
の遺跡とは異なり、計画的に一帯の発掘が行われるという恵まれた条件下にありま
した。この点では近畿の、唐古・鍵遺跡と双璧と言っても良いかもしれません。また、
一帯は都市化の波にさらされていないため保存という面でも比較的恵まれており、さ
らには自然条件にもある程度恵まれていたようで、腐りやすい
木製の農具等も比較
的良好な状態で出土し、6基の甕棺から絹や大麻の織物片が見つかっております。
このことは吉野ヶ里も弥生の絹文化圏の中にあったことを裏付けております。
出土物という点では北内郭のすぐ北側で見つかった墳丘墓が注目されます。墳丘
墓は幾層にも土を搗き固めた版築に類似した技法で築かれており、その規模は南
北約40m、東西約27m以上のほぼ長方形で発掘前の高さは2.5mですが、開墾など
で削られているため築造時の高さは4.5m以上あったのではないかと推定されており
ます。墳丘全体から
14基の甕棺が発見され、中央の甕棺を取り囲むように13基の甕
棺が検出されています。その内、8基の甕棺からは細形銅剣が見つかりました。
中でも注目を集めたのは
1002号という整理番号が付けられた甕棺から出土した、
把頭飾付有柄細形銅剣と呼ばれる一体成型と見られる珍しい銅剣と、綺麗なコバル
ト・ブルーのガラス管玉79個です。14基の甕棺は中心のものが一番古く、ほぼ逆時
計周りに配置され、有柄銅剣があった西側の甕棺は二番目に新しいものであると判
定されております。また、ガラス管玉は貴人の前飾りとして使われたと考えられており
ます。
墳丘墓を中心とした一帯は吉野ヶ里遺跡の中でも最も神聖な場所であったと推定
されております。墳丘墓の前には祭祀が行われたと思われる建物跡(祀堂)があり、
墳丘墓と祀堂との間には1本の柱穴がありました。これは立柱と推定され祖先の霊
の憑代(よりしろ)と考えられております。墳丘墓の東側からは弥生時代後期までの
祭祀土器が見つかっておりますので、墳丘墓を中心に弥生時代後期まで祭祀が続
いていたと考えられております。墳丘墓と祖霊の憑代と考えられる立柱、そして祭祀
土器の関係から、14基の甕棺を14代の王の墓と考えることが出来れば理解し易いと
思ったのですが、どうもそうでは無いようなのです。
14基の甕棺は形式から判定されるところでは、全てが弥生中期前半から中頃一杯
にかけての範囲に収まるようです。時間的には100年程度であり、長めに見ても150
年間ということでしょうか。甕棺は全て成人用と見られるところから、この短い期間に
14代の王が交代したと考えるのは無理なようです。甕棺の形式判定から見る限り、
弥生後期になると王はこの墳丘墓には葬られずにどこか他の場所に葬られたことに
なります。一方で、祭祀は引き続きこの場所で行われたという、一見すると理解しにく
い状況があるのです。
この状況を受けて、佐賀県教育委員会編集の「弥生時代の吉野ヶ里」と題されたパ
ンフレットでは「これまでの調査で、中期前半から中頃にかけての14基の大型成人甕
棺墓が墳丘内から検出されています。」とした上で、「また、墳丘墓の東側では中期
後半から後期にかけての祭祀土器が堆積した大規模な土壙も検出され、墳丘墓に
埋葬が終了した後にも、祭祀が長期にわたって継続した可能性が指摘されていま
す。」と記載されております。また、
現地の説明版には、立柱について祖霊の宿る柱
とした上で、「祖霊の宿る柱とは、北墳丘墓を守る祖先の霊が宿る柱と考えられてい
ます。北墳丘墓は、弥生時代の後半にはお墓ではなく、祖先の霊をまつる祭壇として
人々の信仰の中心となります。」とあります。
墳丘墓に納められていた14基の甕棺には他では余り見られない特徴がありまし
た。全ての甕棺の内外面に黒い着色がしてあったのです。黒色の正体は炭素が検
出されたことから漆である可能性もあるかもしれませんが、断定は出来無いようで不
明の着色剤とされています。いずれにせよ炭素の付着が確認されたことで、数点の
甕棺について放射性炭素による測定依頼をされたようです。全ての甕棺について行
われない理由は、明らかに同じ形式のものは外したということでした。最終的な報告
書はまだ入手されていないようですが、電話等で様子を聞かれた範囲では、ほぼ編
年の範囲に収まっている、との事のようです。
そこまでやられた上のことですから、墳丘墓の埋葬は中期に終了し、墳丘墓に埋
葬が終了した後にも、祭祀が長期にわたって継続した可能性が指摘されている、と
の現時点の判定は尊重したいと思います。その場合、新たな問題点が浮かび上がっ
て参ります。
墳丘墓のすぐ傍に立柱があり、これが祖霊の憑代と推定されていると申し上げまし
たが、これとよく似た構造となっているのが
平原遺跡です。以前にご紹介しましたよう
に、弥生時代後期に属する平原遺跡は、約40面の後漢式鏡が出土した王墓であり
ます。この遺跡の今ひとつの特徴として、王墓の傍に立てられた大きな柱があったと
見られる柱穴があります。吉野ヶ里では一つの大きな墳丘墓に複数の甕棺が納めら
れているのに対し、平原ではいくつかの比較的小さな墳丘墓が築かれ、立柱の他に
立柱よりは小さな柱穴が二つ墳丘を挟んで反対側にあると見られるなど吉野ヶ里と
は微妙な差はありますが、少なくとも王墓に隣接して大柱が立てられていることは大
きな共通点といえると思います。つまり、平原遺跡においては弥生後期になっても王
墓と立柱は隣接しており、そこで祭祀が行われていたと考えられるのです。
ほぼ同じ時期に吉野ヶ里では墳墓の場所と祭祀の場所が分かれることになりま
す。これに対し、現時点では次のような考えかたが有力なようです。つまり、弥生時
代後期になると吉野ヶ里では支配者の墓は別の場所に作られるようになった。そこ
でも祭祀は行われ、墳丘墓では祖霊の地として祭祀が引き続いて行われた。即ち、
日ごろ住んでいる場所と離れたところにお墓が作られるようになったのではないかと
言う訳です。平原遺跡では付近に大規模な住居址は見られず、日頃の住まいは三
雲辺りであったのではないかと見られることから、通常の生活の場所と墳墓の場所
が離れたと想定するのはそれ程無理ではないかもしれません。
吉野ヶ里においてもこの考え方が成立するためには少なくとも、吉野ヶ里付近に有
力な弥生後期の遺跡が見つからなければなりません。その候補地として吉野ヶ里の
北方約2Kmにある三津永田と、同じく東北約3.5Kmにある二塚山の二つの遺跡が挙
げられているようです。両遺跡からは後漢式鏡や素環頭太刀などが出土しており、
有力な弥生後期の遺跡であることには違いありません。
では三津永田か二塚山、或は両方が、吉野ヶ里の弥生時代後期の支配者の墓だ
とすれば旨く説明出るのか、という点ですが、それまで何も無かったところに弥生後
期になって両遺跡が出現したのであれば、吉野ヶ里の支配者の墓が少し離れた場
所に作られるようになったという想定が成り立つかもしれませんが、両遺跡共に弥生
前期から続いていると考えられている遺跡であります。そこに古くからいる人を押し
のけて後期になって支配者の墓だけを持ってくる、という状況は想像し難いのではな
いでしょうか。また、両遺跡から(又はどちらか一方)立柱の跡と見られる穴が発見さ
れているのかという点もはっきりしません。吉野ヶ里においては中期の集落は何らか
の理由で滅び、後期には別の集団がいたかとも考えて見たのですが、その場合は後
期に祭祀が継続していたことが説明できないように思います。
他方、吉野ヶ里は弥生後期になっても栄えていたことは、後期のものと見られる甕
棺が集落内外から多数出土していることから、間違いないようです。その上、後期に
なると更に理解しにくい状況が生まれています。環濠集落内には墳丘墓から連なる
ように甕棺が連続して埋葬されている場所(甕棺墓列)があるのですが、その一角に
弥生中期と見られる墓列がある層の上に後期の住居址が検出されている個所があ
るのです。竪穴住居を作る際に甕棺を破ったらしく、その穴に石の蓋をして住居とし
ている例まであるようです。平面的に見れば墓列を切る形で墓列の上に住居址があ
る形になります。時間的にはかなりの差があるとは言え、墓地は半永久的に墓地と
考えていた私にとりましては素直に受け止めにくい発掘結果でありました。発掘に携
わられた方も同様の感想をお持ちで、弥生時代はお墓というものに対して、現代の
私たちが考えるよりはもう少しおおらかであったと思わざるを得ないのではないか、と
説明されておりました。
やはりここは、墳丘墓の全ての甕棺について年代測定を行うなど、厳密な年代判
定を行った上でないと仮説にしても組み立て難いように思うのですが、今のところこ
れ以上の放射性炭素測定を行う予定は無いようです。現時点では、吉野ヶ里単独で
考えても答えは見出しにくく、周囲の遺跡と複合的に考えなければならないのではな
いか、というのが中間的な結論のようです。付近からまだ発見されていない弥生時代
後期の王墓が見つかるのか、また、現在測定を依頼中の黒く着色された甕棺の放
射性炭素年代測定の最終結果はどのようなものになるのか、注目したいと思いま
す。
出土物についてもう少し検討してみることにしましょう。金属器としては弥生後期の
層から農具の鉄鎌や鉄斧、また、巴形銅器の破片と巴形銅器の鋳型が出土しており
ます。巴形銅器は、それ程数は多くありませんが全国各地から出土している金属器
で、盾の飾り金具として使われたのではないかと考えられておりますが、各地の出土
例から盾の飾り金具だけではなく、もう少し幅広い使われ方をしていたのではないか
とも言われている謎の金属器であります。鋳型が出土したことから吉野ヶ里でも作ら
れていたことが明らかになりました。
青銅の武器としては、細形銅剣のほかには銅矛や銅矛の鋳型なども出土していま
す。刀子(とうす)や鉄鏃のような小形のものを別にすると、鉄製の大型の武器は見
られず、時代が下がっても武器は青銅が主体で鉄は農具などの実用品として使われ
たと考えられるのではないかと思います。当時最先端の大型鉄製武器の出土がない
という点は、福岡平野の遺跡群とは多少様相を異にしているようです。
また、吉野ヶ里遺跡は鏡の出土が少ないことがもう一つの特徴であります。墳丘墓
の14基の甕棺からは1面も見つかっておりません。甕棺墓列や集落内から、前漢式
の連弧文鏡1面と銅鏡の破片が3片(夫々別の鏡)、?製鏡が6面出土しているだけで
す。鏡が大量に出土した三雲や平原、また、須玖岡本などの各遺跡とはこの点でも
趣を異にしております。
以上見てきましたように、伊都国との関係、また、出土物の面から見て吉野ヶ里が
いわゆる邪馬台国であるとするのはかなり無理があると言わざるを得ないようです。
吉野ヶ里は女王国に属する有力な国の一つである、という判断が妥当なところでは
ないでしょうか。勿論、倭人伝に記載ある三十カ国のいずれかであると考えられま
す。
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参考文献
弥生時代の吉野ヶ里 佐賀県教育委員会
吉野ヶ里遺跡 七田忠昭 同成社
邪馬台国はやっぱりここだった 奥野正男 毎日新聞社