No21:立岩遺跡

 北部九州の古代遺跡を考える際に、いま一つ忘れてならないのは立岩遺跡でしょ
う。立岩遺跡は現在の飯塚市の中心部に位置し、昭和8年に市営運動場の建設に
際して甕棺が発見され、遺跡があることが知られることになりました。その後もこの付
近からはかなりの数の甕棺が出土しましたが、その殆どは副葬品を伴わないもので
した。戦後も少しずつ開発が進み各地が都市化していく中で、この飯塚地区にも開
発の波が押し寄せ、各所でブルドーザーが土を掘る音が聞こえるようになっていまし
た。そのような中で昭和38年、採土工事現場の削り取られた崖から落ちそうになって
いる甕棺があるという知らせが、郷土史家でもある高校の先生(児島隆人氏)のとこ
ろに、ありました。

 とりあえず甕棺付近の工事の一時中止を業者に申し入れ、児島隆人氏を中心に嘉
穂高校の郷土部員により緊急調査が行われることになり、落ちそうな甕棺を取り出
す作業が開始されました。作業の進展と共に甕棺はもっと沢山あることがわかり、作
業は甕棺の埋葬遺跡の調査に変わり、そのうちの一つの甕棺から前漢式鏡が6面
出土するに及んで、個人レベルの調査の手を離れて数次に渡る組織的な調査が行
われることになったのです。後に詳しく触れますが、遺跡からの出土品は付近のそれ
までのものとは別格の内容を伴っており、北九州の筑豊地方の一角に位置するこの
遺跡は、考古学上においては北部九州における優れた出土品を伴った遺跡であり
土器編年においても一つの時代を画すものとされております。

 この遺跡の従来の古代史における位置づけは、北部九州における一つの優れた
出土物を伴った遺跡という以上のものとは考えられていないようです。が、当メルマ
ガのアドバイザーの皆さんを初め古代史の探求者の中では、その後の日本の古代
史を考える上で重要な位置を占めると考えられるようになってきております。と申して
も読者の皆様には地理的には余り馴染がない方も多いと思われますので、まずこの
一帯を大きく俯瞰して見ることにしましょう。

 福岡県は頭でっかちの人形が両手を東西に広げたような形をしていますが、西側
の手に当たるのが背振山系で佐賀県との境をなしているのに対し、東側の手に当た
るのが福岡県の最高峰英彦山(1200m)を主峰とした英彦山山系で、大分県とを分
けております。また、福岡県はほぼその中央部を南北に連なる936mの三群山を主
峰とした三群山系によって東西に分けられます。三郡山系にはそれ程高い山はあり
ませんが、600m以上の山並みが続いておりますので古代においては山系に隔てら
れた東西の交通は現在考えるほど容易ではなかったと思われます。現在では6本の
道路が通じておりますが、裏を返せば30Kmほどの間隔に6本しか道がないというこ
とを見てもこの山系が古代に果たした役割(障害)が想像されます。今では同じ福岡
県ですが、当時は山系の東西では別の世界であったと考えた方がよいかもしれませ
ん。

 さて、立岩遺跡が位置する飯塚市は嘉穂盆地の中心都市で遠賀川の上流になり
ます。東西に連なる英彦山山系を源泉として多くの川が北流していますが、嘉穂盆地
で嘉麻川と穂波川が合流して遠賀川となり、さらに英彦山から直接流れ出て東隣の
田川市を北流する彦山川と直方付近で合流し、大遠賀川となって玄界灘に注いでお
ります。嘉穂盆地の西には三群山系が福岡平野と隔て、南には英彦山山系に連な
る馬見山山系が朝倉地方との衝立になっております。東側には英彦山山系から分か
れて平野部に南北に突き出した低い金国山(472m)山地によって隣の田川市とも画
され、外界に出る道は遠賀川によって北に向かう他はないという北九州の筑豊地方
の中でも南西の一角の袋小路のような位置といえるかもしれません。

 では、そのような袋小路のような場所からなぜ古代の優れた遺物が出土したのか、
ということですが、嘉穂盆地は遠賀川によって外界と繋がるだけではなく、山に囲ま
れ条件的には厳しかったとは言え陸上交通の要衝でもあったと考えられるのです。
嘉穂盆地と福岡平野とを繋ぐ道としては八木山峠越えが一番ポピュラーで、福岡平
野の北部との交通路として古くから開けていたと考えられます。尤も、現在でも冬季
は積雪や凍結の可能性があるなど、それほど通り易いという道では無いようですが。

 このルートは福岡平野を起点にすると、八木山峠を越えて嘉穂盆地に至り、金国
山山系を北の鳥尾峠で越えて田川に抜け、田川からは比較的平坦なルートを東に
進んで行橋に出ると、そこから瀬戸内に繋がるという福岡平野と瀬戸内を繋ぐ最短
ルートになるのです。新幹線や高速道路がなかった古代においてこのルートの重要
性は今の想像を超えるものがあったのではないでしょうか。そういう目で改めて見ま
すと、遠賀川による南北の水上交通と東西の陸上交通との接点という交通の要衝に
位置するのが嘉穂盆地であり、そこに眠っていたのが立岩遺跡であったのです。

 さて、立岩遺跡の出土物を見てみることにしましょう。上で述べましたように10号と
名付けられた甕棺から6面の前漢式鏡が、そのほか4基の甕棺から夫々1面の前漢
式鏡がほぼ完全な形で出土し、合計10面の前漢式鏡が出土しています。その内容
連弧文鏡と呼ばれるものが5面、重圏鏡と呼ばれているものが5面で、何れの鏡に
も文字が鋳出してありました。これらの鏡に鋳出してある文字には奇妙な特徴があり
ます。出土した銅鏡にしばしば見られるような欠失や腐蝕等によって判読不能な部
分はなく、文字自体は完全に読めるのですが、それらの文字を繋ぐと文として意味が
通じないほど、文章としての文字の脱落が見られるものが含まれているのです。

 一見すると整然と鏡の裏面に鋳出されている文字に、なぜ脱落が多いと分かるか
と言いますと、この形式の鏡には戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩を集めた
「楚辞」と言われる詩集から採った詩が鋳出されており、元になる詩が分かっている
ため脱落があることが分かるわけです。「楚辞」には北方の「詩経」に対し南方で詠
われた詩の形式という意味もあり、前漢時代後期の宣帝(BC74〜49)や元帝(BC49
〜33)の時代に楚辞文学や南方楚系の文化が栄えたと言われます。「楚辞」は17巻
で構成されており、内5巻が皆さんにも馴染深い屈原の作であります。

 10面の鏡には7種類の銘文があり、文の一部をとって精白鏡、日光鏡、昭明鏡など
という名前が付けられております。鏡の大きさは大きいもので直径18cm程度で、15c
mから18cmのものが7面、10cm以下のものが3面で一番小さい鏡の直径は5cm程
度です。それらの鏡の中に円弧状に、多いものは70文字(外区と内区の合計)、少な
いものでは8文字が配置してあるのですが、脱字が少なくほぼ完全に読めるものもあ
りますが、一番脱字が多い鏡は本来48文字で構成される詩文が13文字抜け落ちて
いるものがあります。6字1句の詩文ですから全体で8行なのですが、極端な行は6文
字あるべきところが1文字しかありません。別に48文字中12字抜け落ち5字間違って
いるという鏡もあります。この鏡には1行丸々抜け落ちている行もあります。これでは
詩としての意味は通じないと思います。

 それ程大きくない鏡の中で限られたスペースに文字を配置するのは技術的にかな
りの困難が伴ったのではないかと想像されますが、はるか古く殷や周の時代から精
密な青銅器製作技術の蓄積がある中国にしては、何とも腑に落ちない現象であるこ
とは間違いありません。脱落の理由を説明した定説は無いようです。これは本当に
中国で作られた鏡なのかという疑問も生じたのですが、色々調べてみると中国で出
土した日光鏡や昭明鏡にも文字の脱落があるのもが見られるようなのです。となる
と、他の要因を考えなければなりません。

 日光鏡や昭明鏡に鋳出されている文字は篆書の書体になっております。篆書が出
来た経緯は今ひとつ良く分かりませんが、戦国時代の頃には広く使われていたようで
す。その頃は同じ篆書といっても書体が地域などによって区々であったため始皇帝
が統一を行ったとされています。折角統一された書体ではありましたが、下級官僚の
間から隷書という篆書を簡略化した書体が生まれ、実用的には隷書が使われること
が多かったようです。篆書は実用にはかなり不便なものであったと想像するのに無
理はないでしょう。日光鏡や昭明鏡が作られた前漢時代の後期には特別な場合を除
いて通常は隷書が使われるようになり、篆書は半ば模様化していたのかもしれませ
ん。そう考えれば脱落の意味も何とか説明できるようです。

 その場合、鏡のデザインをした人は意味もなくデザインをしたとは考えにくいので、
キチンと文字を配列していたはずです。とすると、鏡作りの職人が勝手に一部を省略
したことになります。鏡は尚方工官と呼ばれる官営工場でその多くが作られておりま
した。デザインした人や監督する立場にあった役人は出来上がったものを見なかっ
たのでしょうか。また、当時鏡を手にすることが出来た人はそれほど低い身分ではな
かったはずです。そのような人でも鏡に鋳出された文字に、それ程注意を払っていな
かったことになってしまうのですが、皆さんはどのようにお考えになりますか。

 福岡平野や糸島地域からはこれまでに述べましたように150面以上という夥しい数
の漢式鏡が出土しておりますが、それらは皆砕けて破片状になったものばかりでし
た。立岩遺跡から出土した鏡は、壊れやすい鏡を注意深く取り出されたため、上で触
れましたように殆ど完品に近い形で出土しており、保存状態のよさと言う意味でも注
目されます。

 立岩遺跡の年代を推定するに際して、出土した10面の鏡は格好の手がかりとなる
ように思われます。10面の鏡はその文様や鋳出された文字などの形式、また、その
銘文の内容などから、前漢時代後期の宣帝や元帝の頃(BC74〜33)に作られ始め
たことは間違いないと思われます。上限はその頃として、問題は下限であります。下
限を知る手がかりも中国にありました。後漢の都が置かれたのは洛陽ですが、洛陽
にはその後北魏時代までの洛陽城の遺跡が残っているそうです。1952年から現在の
洛陽市の西北約3里(約1.5Km)のところにある焼溝の古代墓の調査が行われました
が、その報告によりますと、発掘された墓は225基でそのうち漢代と見られる墓は134
基を数えたようです(焼溝漢墓)。先ず漢墓を、出土した陶器によって相対年代を組
み、さらに出土した鏡や貨幣によって絶対年代を割付け6期の編年が行われました。

 編年の内容は飯塚市教育委員会編による「立岩遺跡」報告書に引用された焼溝漢
墓の出土鏡のまとめ表を参照頂きたいと思います。煩瑣な説明は省略して結論を申
し上げますと、1期が前漢中期(武帝時代:140年頃)、2期も前漢中期(宣帝や元帝の
時代:BC74〜33)でやや時代が下がり、3期前半が前漢晩期、3期後半が新の王莽
時代、4期が後漢前期、5期が後漢中期、6期が後漢晩期ということになるようです。こ
の結果を類推適用して、「立岩遺跡」報告書では大要、「第2期にあらわれる日光鏡・
昭明鏡は5銖(古銭)を伴出し、宣帝・元帝の時代に出現したことになるのである。こ
の時期の鏡が立岩遺跡出土鏡の主体である」と記述されております。

 つまり、立岩遺跡からは日光鏡や昭明鏡が出土していますが、1期に属する草葉文
鏡や星雲鏡が出土せず、また、3期に属する4乳鏡や規矩鏡も共伴しないことから立
岩遺跡出土鏡の年代は第2期と判定されるようです。日光鏡や昭明鏡は焼溝漢墓で
は3期後半まで出土が見られるのですが、立岩が第2期に限定される訳は、2期の鏡
だけしか出土せず3期になって出土する鏡を伴っていないということが大きな理由とな
っているようです。私はこの表から見て、立岩遺跡出土鏡の年代が第2期と判定され
た理由はある程度理解できるものの、決定力には欠けているのではないかと感じま
した。

 焼溝漢墓の出土鏡から見た場合、立岩遺跡出土鏡の年代は1期の鏡である草葉
文鏡や星雲鏡は出土していないことから、1期でないことは異存がありません。普通
に見れば、日光鏡や昭明鏡が出土している2期から3期後半までの範囲が考えられ
るのではないでしょうか、それを2期と限定するためには、3期の墓から出土した日光
鏡や昭明鏡は必ず新しい時代の鏡である4乳鏡や規矩鏡等を共伴している、というこ
とが証明されなければならないと思います。同時に、3期前半や3期後半には日光鏡
や昭明鏡の単独出土はないということも言えなければならないのではないでしょう
か。

 焼溝漢墓について、日光鏡と昭明鏡(含、精白鏡)を合わせた出土数を見てみます
と、2期が6面、3期前半が19面、3期後半が12面となります。これから見れば、出現の
最初は2期ですが、ピークは3期前半であり、3期後半でも2期の倍の出土がありま
す。これは偶々何かの事情で入り込んだとは言えないと思います。そして3期後半に
は後漢鏡である規矩鏡も4面出現しております。規矩鏡の出土は4期、5期ともに2面
ですから、これも偶々入り込んだとは言えないと思います。このことは、中国では規
矩鏡が出現した頃は日光鏡や昭明鏡と共存していたことを示していると考えられま
す。

 立岩遺跡の年代につきましては明確な記述は見当たらないのですが、立岩遺跡出
土鏡の年代をもって立岩遺跡の年代と考えられているようです。しかしながら、中国
から日本への渡来から埋納に至る時間差等も考えると、立岩遺跡の年代を、日光鏡
や昭明鏡(精白鏡を含む)より後の年代とされる鏡を共伴していないことを主な理由
として、第2期に限定してしまうことは少し結論の急ぎすぎではないかという気がしま
す。

 立岩遺跡の年代が前漢中期即ち弥生中期後半とされる訳は、立岩式甕棺の年代
が弥生中期後半に属するということが大きな根拠であると思われます。しかしなが
ら、根拠の裏づけとなる日光鏡や昭明鏡は、もっと後の時代まで使用されていた可
能性を考えなければならないのではないでしょうか。とすれば、日光鏡や昭明鏡を根
拠とした立岩式甕棺の年代、更には立岩遺跡の年代幅ももう少し広げて考えるべき
と言っても、あながち見当外れとは言えないのではないかと考えております。

 尤も、日本においては立岩式甕棺から後漢式鏡の出土例は無いようです。後漢式
鏡の出土が見られるのは立岩式の一つ後の形式である桜馬場式と言われる甕棺か
らと言われております。この点から見れば現在の判定が間違っているとまでは言えな
いと思いますが、同じ時代に中国では日光鏡や昭明鏡が新しいタイプの鏡(規矩鏡)
と共存していたとすれば、立岩で出土しない理由を時間的な要因だけで考えてよい
のか、疑問が出てきたと言えるのではないかと思います。

 鏡以外の出土物について見てみましょう。何と言っても立岩遺跡の出土物の中で
目を引くのは、34号と名付けられた甕棺でしょう。中からはほぼ完全な形の人骨が出
土し、その右腕には14個のゴホウラ貝の腕輪が嵌めた状態で、又腹部からは鉄戈
が、頭部からは前漢式鏡が出土しました。この人物は30歳前後の男性で身長は166
cmと推定されています。当時としては大柄で、半島系の人物と考えられ、頭骨は形
質的に現在の半島中部の人に近いようです。当時この地域を支配していた人物の出
自を物語っていると思われます。

 また、ゴホウラ貝は沖縄付近を北限として南方の暖かな海に生息する貝で、そのつ
やのある綺麗な色や質感から古代では宝物とされていたようで、北部九州の弥生時
代遺跡から多く出土しています。立岩遺跡からは合計83個という出土数の多さから
見て、偶々何かの事情で手に入れたとは考えにくいと思います。この時代に、はるか
離れた南海方面との交易ルートが確立されていたと考えて良いのではないでしょう
か。北部九州にいた人々の交流は、大陸方面に限らず相当広範囲に及んでいたこ
とが窺われます。

 また、立岩から出土した剣や鉄戈などには絹の撚糸が巻かれていたり、平織の絹
片が付着しているものがいくつか見つかっております。布目順郎氏の調査によります
と、絹糸の断面の大きさや織り方などから、これらの絹は立岩周辺で育てられた洛
陽系の蚕から作られたものではないかと推定されるようです。立岩も弥生時代の絹
文化圏の一端にあった事は疑えないようです。

 遠賀川流域と他地域との交流がかなり広範囲に亘っていたことは弥生前期から中
期と見られる石包丁の分布からも窺われます。石包丁は稲作の渡来とほぼ同時期
あるいは遅れたとしても稲作の渡来からそれ程遅れない時期に列島に渡ってきたと
思われる、かまぼこ型をした薄型の石器です。直線に近い部分に二つの穴が開いて
いますが、この穴に紐を通して手の指に握るようにして、丸くなった側で稲の穂を摘
み取るように刈入れていたと考えられています。当時は現在のように根本近くから刈
り取るのではなく、実った穂だけを摘み取っていたようです。

 この石包丁が北部九州の各地から出土しているのですが、初期には加工しやすい
頁岩質の砂岩で出来たものが多く出土するのですが、この石は脆いため包丁として
の寿命はそれ程長くなかったと思われ、後の時代になると硬い輝緑凝灰岩製の石包
丁の割合が増えていきます。輝緑凝灰岩は比較的広く各地に見られる岩ですが、包
丁に加工した遺跡は立岩周辺の他では見つかっていないことから、立岩で加工され
て各地に運ばれたものと考えられております。立岩の西北6Kmに位置する笠置山か
らは加工途中の石包丁の半製品や石屑が見つかっており、ここが石包丁の加工場
であったと考えられております。

 この立岩式石包丁は北部九州のほぼ全域に亘って分布が見られるのですが、立
岩以外から見つかった立岩式石包丁の全体を100として各地域に分布している比率
を見てみますと、板付・須玖を中心とした福岡平野と朝倉地区が夫々25%強と最も
多く、立岩から搬出された石包丁の半数強は峠を一つ隔てた福岡平野や朝倉地域
に運ばれたことが分かります。次いで大分県の宇佐地域が15%と高い割合を占めて
おります。この3地域だけで4分の3となり、当時の交流の様子を窺うことが出来ると思
われます。一方、同じ筑豊地域でも嘉穂盆地の隣の遠賀川中流に位置する鞍手・直
方では5%弱、遠賀川下流では1%程度と、至近の位置にありながら搬出量の割合
が少ないことが注目されます。

 また、地場製と見られる石包丁と立岩式石包丁との割合を比べて見ますと、立岩
式石包丁の各地域における浸透具合が分かります。嘉穂盆地を除いて浸透度合い
が高いのは筑後の60%、次いで朝倉が50%弱、福岡平野が35%程度となっておりま
す。この比率も隣の鞍手・直方では35%程度、遠賀川下流では10%程度とそれ程高
くないことは注目されます。この二つの比率を元に、石包丁の相対的な出土数(≒消
費量)から見た当時の各地の稲作活動を推定してみますと須玖・岡本を中心とした
福岡地区が最大で、朝倉地区が続き、その他の地区は格段に少ない値になりまし
た。一つの参考データとしておきたいと思います。

 当時の生産活動に伴う交流を見る上で、今一つ興味あるデータは今山製の石斧で
あります。福岡市の西方、糸島半島の付け根に当たる今津湾の入口に今山という
100m弱の小山がありますが、そこの玄武岩を加工した石斧が北部九州一帯に分布
しているのです。今山の場合、立岩と異なり最終加工がどこで行われたのかよく分か
っておりません。今山では半製品や加工屑が余り見つかっておりませんので、粗加
工程度は行ったうえで使用地に持ち帰り、各地で最終加工が行われたのではないか
と考えられているようです。この今山産の玄武岩を加工したと思われる石斧は立岩
からも出土しています。立岩から見れば石包丁を各地に搬出する一方で、石斧を搬
入していたことになる訳で、古代の交流の様子の一端が窺われます。

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参考文献
立岩遺跡 飯塚市立岩遺跡調査委員会編
立岩 児島隆人 学生社
飯塚市歴史資料館展示解説 飯塚市歴史資料館





第21号 立岩遺跡













































































































































































































































































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焼溝漢墓出土銅鏡
焼溝漢墓出土銅鏡
石包丁
石包丁
34号甕棺人骨
34号甕棺人骨
重圏鏡
重圏鏡
連弧文鏡
連弧文鏡
石包丁・石斧分布図
石包丁・石斧分布図