No22:青銅武器

 立岩遺跡については、いま少し述べなければならないことがありますが、それを理
解して頂くために青銅武器や甕棺のことについて少し掘り下げてみたいと思います。
日本で出土する代表的な青銅器は、鏡と銅鐸と武器であります。鏡についてはここで
は繰り返しません。出土数から銅鐸はその中心が近畿と見られるのに対し、青銅武
器の中心は北部九州であります。

 銅鐸につきましては、以前は近畿を中心として独自に現れ、独自に発達したものと
見られておりましたが、近年、小型銅鐸や鋳型が吉野ヶ里を初め北部九州の数個所
で発見されたことから、九州にも小形銅鐸は存在したことが明らかになりました。模
様や形式などから見て近畿の銅鐸が九州の小形銅鐸から進化したとは考え難い、と
いうのが最近の研究結果のようです。近畿の銅鐸のルーツは何で、何故九州では進
化せずに近畿を中心にあの様な大きな形にまで進化したのか、という点については
まだ解明されておりません。用途としては祭器(楽器)だったのではないかという説が
有力でありますが、現在のところは謎の器物とせざるを得ないようです。

 これに対して、支配力の確立に大きな力を発揮したと考えられる青銅武器は、その
分布も中国地方以西に限られております。青銅武器が近畿に全くと言ってもよいほど
見られないことに対して、邪馬台国近畿説に強い思い入れを主張される一部の方々
(声が大きいため日本の古代史においては主流を占めている)の中には、元は近畿
にも青銅武器があったが、それらは全て鋳潰して銅鐸にした、ということを言われる
方もあります。

 弥生時代は激しい戦闘を裏付ける鏃や剣先などが刺さったままの人骨や、人骨は
なくなっているが埋葬当時は鏃や剣先などが刺さっていたと考えられる甕棺などが、
各所で見つかるなど以前に想像されていたような、のどかで平和な時代ではなかっ
たことが明らかになっております。その中で有力な武器をなぜ敢えて鋳潰して、祭器
(と思われる)の銅鐸に変えたのか、ということに対しての納得できる説明がされたこ
とは無いようです。年代的に見て青銅武器より銅鐸が後だとすると、九州を中心に完
全に鉄器時代に入ってから近畿では銅鐸の全盛時代を迎え、巨大なものへと発展し
ていくことになります。皆さんは納得されますでしょうか。青銅武器を鋳潰して銅鐸に
したという説も、証明されない仮説の一つだと申し上げざるを得ないと思います。

青銅武器
 まず青銅武器の分布状況から見ることにしたいと思います。ここで青銅武器とは
剣・銅矛・銅戈の3タイプを指します。いずれも手に持つ柄(木製の棒など)に取り付け
て使用されたと考えられます。剣と矛は柄の先端に取り付けて使用されたと考えられ
ており、剣は尻にある茎(なかご)とよばれる突起を柄に差し込んで糸や漆などで固
定し、柄の部分を逆手に握って相手を攻撃し、矛は底の袋と呼ばれる空洞部に柄を
差し込んで固定し、槍のように突き出して使用されたと考えられております。数は少な
いのですが剣と柄が一体になって作られているもの(有柄銅剣)もあります。戈は柄の
軸に垂直に取付けて、打ち振るって使用されたと考えられます。

 以前(1980年)、九州歴史資料館が日本の青銅武器についてまとめた展示を行い
ました。そのときの資料(日本青銅武器出土地名表)をベースに、その後発見された
荒神谷・吉武高木・吉野ヶ里等の出土物を加味して青銅武器の全国の出土状況をま
とめてみました。表から分かる通り、全国で1500本近い青銅武器の出土数の半数以
上は九州です。近畿からの出土は約40本(全国の3%弱)と僅かで、近畿説の中心地
である奈良からは2本の出土のみです。この一点だけを見ても邪馬台国近畿説を唱
えるのは相当の勇気が必要だと思われますが、皆で渡れば怖くないというということ
でしょうか、或は本当に武器を鋳潰して銅鐸に変えたと信じておられるのでしょうか。

 青銅とは銅を主成分として錫を含む合金で、錫の含有量によって色や性質も異なり
ます。錫の量が少なければ純銅に近い赤銅色ですが、多くなるに従って次第に黄色
味を増して黄金色となり、ある一定量以上となると白銀色になります。通常我々が目
にするのは青銅色ですが、これは青銅が大気中で徐々に酸化されて表面に緑青が
でき(緑青の皮膜に覆われて)、青銅色となっているものです。性質は錫の量が少な
いほど軟らかく、多くなるに従って硬さが増しますが、多くなり過ぎると脆くなるので、
用途によってどの程度の配合とするかということに昔の人は苦心をしたものと思われ
ます。

 武器として使用された青銅は、黄金色程度の範囲の色彩となる配合のものが硬く
て、且つ、脆くならない限界であったようです。鏡になりますと、もう少し錫の量が増え
て白銀色となるものが使用されておりました(白銅)。用途から考えて肯けるところで
す。これは脆いので、ご存知のように鏡はしばしば壊れた状態で見つかります。

 さて初期の青銅武器は脆くならない程度に硬さを備えた青銅で作られておりまし
た。鋳込んだ上で削ったり研いだりして武器に仕上げることが出来るので、加工し易
く当時としては切れ味も鋭く強力な武器であったと思われます(細形銅剣・矛・戈)。長
さは30cm程度と手頃です。これが時代が下がると中細形と呼ばれ形が大きくなるも
の(長さ40cm程度)が出てきます。中細形になりますと刃の研ぎ方などから武器とし
ての性能に疑問があるものも出てきます。更に下がると中広形から広形と呼ばれる
大きなもの(長さ50cm前後)が作られるようになります。この段階になりますと仕上が
り状態も鋳放しに近く、刃が研いでないものも見られます。また、材質的にも錫が少
なく、その分軟らかになるものもあり、実際に武器として使われたとは考えにくいた
め、祭器として作られたと理解されております。以下、武器形祭器と呼ぶことにしま
す。

 以上のような青銅武器の変遷について、通常次のように説明されております。初め
のころは実用の武器として使われたが、後になると祭器として作られるようになった。
青銅が武器として使われなくなった背景としては鉄製武器が使われるようになったこ
とが挙げられております。つまり、青銅武器は概ね細形→中細形→中広形→広形と
形が変わり、実用武器(細形・中細形)から武器形祭器(中広形・広形)に変化したと
言われております。

 変化したことは疑えませんが、全ての青銅武器は実用武器から武器形祭器へと時
の経過に従って変わった、つまり多少重なる期間はあっても青銅武器と武器形祭器
は年代が異なる、という見方については腑に落ちない点も多いのです。まず、出土状
況から見て扱いが異なる物を同一に並べて意味があるのかと言うことがあります。実
用武器と見られる細形や中細形の青銅武器は北部九州(一部山口を含む)において
甕棺などの中から出土することが多いのですが、中国・四国・近畿からは明らかに弥
生時代の墓の副葬品として見つかった例はありません。武器形祭器とされる中細形
(一部のみ)、中広形、広形青銅武器は、墓ではない、一見何もない畑や小高い丘や
山の中腹などから出土することが多いのです。それも場合によっては10本以上纏っ
て出土することもあります(出雲の荒神谷遺跡では銅剣と銅矛合わせて374本が山中
から出土)。

 出土する地域も細形武器は勢力圏の中心付近であったと思われるところが多いの
ですが、武器形祭器はかなり勢力圏の中心から外れたと見られるところから出土し
ております。年代的に変化が進んだとすると、勢力圏の中心部では青銅武器が見ら
れなくなった頃に、中心部からかなり離れた場所で、大量の武器形祭器が使われた
ことになります。中心から外れた場所で、何のためにどのような祭祀が行われたので
しょうか。また、武器形祭器は土器などある程度時代が推定できるものと一緒に出土
することもないため、例外的に鋳型が土器等と一緒に出土する場合を除いては、年
代的な判定を行う有効な手段がないと言っても良い状況です。

 以上のことから、武器形祭器は実用的な青銅武器から生まれたことは疑えないとし
ても、青銅武器は消滅して形を変えて武器形祭器となったのか、或は時間的に青銅
武器と共存していたのか、と言う点は不明と言わざるを得ないと思います。その点を
念頭に置きながら、もう少し詳しく見てみることにします。青銅器武器や武器形祭器
は種類や地域によってかなり特徴が異なっております。初めに変化の過程が典型的
な様相を示す銅矛から見ることにしましょう。

銅矛
 銅矛は全国で約550本のうち75%の400本以上が九州から出土しています。そのう
ち半数近い180本は福岡県の出土で、九州からは全ての形式の銅矛が出土していま
す。初期のものとされている細形銅矛は全国出土(23本)の全てが九州からです。そ
れらの中には古いため出土状況が確認できないものもありますが、出土状況が明確
なものの内15本が副葬品として甕棺などの中に納められておりました。出土した場所
は唐津周辺や王墓があったと考えられる吉武高木・三雲・須玖岡本などであります。
これから見ると、細形銅矛は支配者の持ち物として扱われ、支配者が亡くなると墓に
副葬されることが多かったように思われます。

 中細形銅矛になると少し様相が変わってきます。形が大きくなるだけではなく出土
する地域も、数は少ないものの、中国や四国の一部など九州から外に広がってきま
す。中細形銅矛も九州では甕棺の中など副葬品として出土することが多いのです
が、九州以外で副葬品として見つかったものはありません。すべて山中や墓とは思
われない地下や石の下などから、丁寧にそろえて置かれていたと想像できる状態で
出土しております。判明している出土の状況から墓の副葬品としてではなく、中細形
銅矛自体が埋納されていたと考られるのではないかと思われます。

 これが中広形や広形になりますと様相も一変します。分布は概ね中国以西で、九
州から8割程度が出土する状況は変わらないのですが、大きさが更に大きくなり、同
時に刃の研ぎも満足にされず(鋳放しのものも少なくない)、武器としての実用性は考
え難いものになります。また九州でも一部の例外を除いて墓の副葬品としては出土
せず、多くは開墾や採土中などに数本から十数本まとめて埋められた状態で発見さ
れております。出土数も細形、中細形では全国で合わせて60本弱程度であったもの
が、中広形、広形では合わせて400本以上と、桁違いに多くなります。細形・中細形と
中広形・広形では明らかに形だけではなく、その扱われ方において質的な差が感じら
れます。

銅戈
 次に銅戈を見てみましょう。形の変化、九州からの集中出土、中広形から出土状
況が変化するなど大きな流れは銅矛に似ているのですが、異なる点もあります。銅
戈の場合、はっきりと広形と確認されたものは僅かしかありません。古い文献などで
広形となっていても現物が所在不明となっていたりしており、現在、全体の姿が博物
館などで確認できるのは2例しかありません。銅戈については中広形までで、広形は
あまり作られなかったと考えてよいのではないでしょうか。理由は、私の想像ですが、
銅矛は槍のように両手で使ったと考えられるのに対し、銅戈は片手で使ったと考えら
れるため余り大きいと扱い辛かったのではないでしょうか。

 また、兵庫・大阪・和歌山の3地域を中心に、数はそれ程多くはないのですが、大阪
湾形銅戈という名前が付けられた独特の特徴を持つ銅戈が出土しています。形は細
形銅戈に似ているのですが、大きさは細形と中細形の中間くらいです。青銅武器に
は刃物の表面に樋と呼ばれる筋状の模様があるのですが、大阪湾形と名前が付け
られた戈は付けられた形や模様が九州のものとは微妙に違ったデザインになってい
ます。九州の銅戈は中央線の両側にある樋が、後になると先端側でくっつくのです
が、大阪形は両側に別れたままです。また、九州の戈には樋の中に模様がないもの
が大半で、あっても裾にわずかにあるだけですが、大阪湾形の銅戈には樋が鋸歯文
(きょしもん)と呼ばれる細かな模様で埋め尽くしてあるのです。

 日本における青銅器のルーツは中国大陸や朝鮮半島に求められます。現在出土
しているものでは大陸系と見られる青銅武器は僅かで、大半が半島系と見られま
す。半島からは日本のものと良く似た青銅器が沢山出土しています。また、日本同
様、細形から広形への変化も見られます。朝鮮半島から出土した銅戈の中には樋が
大阪湾形と同じように鋸歯文で埋め尽くしてあるものが見つかっております。

 通常、青銅武器は半島から九州に伝わり、時代が下がるに従って西日本各地に広
がったと考えられ、多くの発掘事実はそれを裏付けているのですが、大阪湾形銅戈
につきましては共通項を九州に求めるよりは半島に求めた方が良く符合するようで
す。半島での変化形が直接伝わった可能性もあるかもしれません。このことは出土し
た3地域と半島の間に九州を経由しない何らかのルートが存在したことを示している
のかもしれません。

 少し想像を膨らませてみたいと思います。半島から日本への渡来は何次にも亘っ
て繰り返し行われたと見てよいと思いますが、遅れて渡来した勢力が先着勢力を避
けて瀬戸内深く入り込んだ可能性が考えられないでしょうか。或は九州に向かったも
のの、先着勢力から追いやられて瀬戸内深く落ち着いた可能性も考えられます。そう
考えれば大阪湾の3地域に半島での発展形と見られる独特の銅戈が突然現れること
も何とか説明できるように思います。古代の交流は一筋縄ではいかないようです。

 また、細形銅戈の中には福岡市西部の吉武大石遺跡から出土した銅戈のように、
初期の段階から、肉薄で実用的とは思われないタイプのものが見られます。肉薄の
タイプは大阪湾形銅戈の中にも見られます。このことは少なくとも銅戈においては、
初期の段階から実用武器として変化する流れと、祭器として変化する二つの流れが
あったと理解したほうが納得し易いように思います。

銅剣
 最後に銅剣ですが、全国で約700本出土しています。その内中国から約400本(約6
割)、九州から約140本、四国から約120本出土しています。何と言っても中国の約
400本が目を引くのですが、荒神谷から中細銅剣(c類と呼ばれる最終変化形)がまと
めて358本出土したことが大きく影響しています。四国では約120本のうち平形銅剣と
呼ばれる独特の銅剣が約90本出土しております。平形銅剣は瀬戸内を中心に分布
しており広島や岡山からの出土をあわせると100本以上が瀬戸内からの出土です。

 元々の武器である細形銅剣についてみてみますと、全国で100本以上の出土のう
ち九州から大半の100本近く(86%)が出ています。その半数の50本は福岡県からの
出土です。長崎県からは20本以上(大部分は壱岐・対馬から)が出土しています。佐
賀県出土の約20本を合わせると殆どが北部九州(含、壱岐・対馬)からの出土と見て
よいでしょう。

 銅剣は、細形銅剣、中細形銅剣平形銅剣の3つに大別出来ます。実用性が高く
支配者の持ち物と見られる細形銅剣は北部九州に集中的に分布し、支配者が亡くな
ると副葬品として甕棺に納められたと考えられます。中細形銅剣は他の地域では殆
ど見られず(少数のa類、b類を除く)島根県の荒神谷の山腹に大量に埋められてお
りました。平形銅剣は瀬戸内海を挟んだ中国と四国を中心に分布し地中にまとめて
埋められていた、という分布や出土状況の特徴があります。

 青銅武器は一般的には形が変化するに従い、大きくなる傾向があります。銅剣に
ついてみれば、細形は30cm程度、中細形は40cm程度、平形は50cm弱の長さのも
のも見られます。銅剣の変化の筋道については必ずしも十分に解明されていないの
ですが、細形→中細形→平形と変化したと言われる方もおられます。が、これはいか
にも腑に落ちないのです。今一度銅剣の形をご覧頂きたいと思います。細形と中細
形は大きさがかなり違っておりますが、細かな点はともかくとして全体の形はよく似て
おります。平形銅剣は剣の刃と根本の間に大きく飛び出した部分があり特徴的な形
をしております。中細形銅剣と平形銅剣には大きさの差だけではなく、形の違いも大
きいのです。

 これが上記のような変化をしたと考えますと次のようなことになります。最初は北部
九州を中心に細形銅剣(及び中細形a類)が支配者の持ち物として実用され、支配者
がなくなると墓に副葬されていた。次の時代になると(銅剣を持つ集団は)出雲に移
り、祭器として中細形銅剣(c類)を大量に作り山中に埋めた。これは一時期で、すぐ
次の時代になると(集団は)瀬戸内沿岸に移り、中央下部が大きく飛び出した特異な
形の平形銅剣を作って地中に埋めるようになった。全てではありませんが、大きく捉
えればこのようになると思います。皆さんはこのような状況を想像できますでしょう
か。

 鉄器が入って来るようになり実用的な武器は鉄器になり、青銅製銅剣は祭器となっ
たということなら理解できないことではありません。それならば引き続き北部九州が
中心地帯と見られるのに(鉄製武器出土の中心)、祭器形銅剣を持つ集団は出雲に
移動して中細形銅剣(c類)を作り、(或は祭器形銅剣だけが出雲に伝わり)、更に瀬
戸内沿岸に移動して大きく形が異なる平形銅剣を作った(伝わった)のでしょうか。理
屈ではありえても実際の状況は想像し難いのではないでしょうか。

 青銅器の形式変化を考える場合、日本の中だけではなく主として半島での変化の
影響(或は直接の伝来)の可能性を考える必要があるのは銅戈のところで少し触れ
ました、平形銅剣については半島には同じような形のものは出土していません。これ
から見ると半島からの影響とは考えにくいようです。強いて探せば遼寧式銅剣と呼ば
れる大陸系の銅剣に中央部が飛び出す形のものが見られます。しかしながら共通点
と言えるのはそこだけで、時間的にも隔たりが大きい上、全体の形もかなり異なって
おりますので、直接的な影響関係は考えにくいと思います。どうして、このような突然
変異的な形が現れたのでしょうか。

 銅剣を現物(と言ってもガラスケース越しですが)や写真などで比較しながら見てい
るうちに、あることに気がつきました。銅剣の刃より根本に近い部分には刳方(くりか
た)と呼ばれる少し抉れた部分があります。どうしてこのような形になっているのかに
ついてはまだ定説はないのですが、相手を刺した剣を抜きやすくするためではない
か、という考えは納得できるものだと思います。それはともかく、初期の細形銅剣の
中には、数は多くないのですが、刳方の上の(刃に近い)部分に、小さな突起がある
ように見えるものがありました。この突起は鋳込んだときから付けられていたもので
はなく、研ぎによって付けられたものと見られるようですが、この突起が少しずつ大き
くなり、最終的に平形銅剣に見られるような大きな突起に発展したという可能性があ
るのではないかと考えました。

 もしそうだとすれば、銅剣については、初期の細形から中細形へと変化する流れ
と、平形へと変化する二つの流れがあったことになります。私はこのように考えた方
が、細形→中細形→平形という、大きさの変化は説明できても形の変化は説明し難
い、やや不自然と見られる変化よりも理解しやすいように思うのです。銅戈と同じよう
に、実用武器として変化する流れと祭器へと変化する流れが考えられるのではない
かと思います。最近では、考古学の専門家の間でも、時間的に中細形銅剣と平形銅
剣は、ほぼ同じ時期に出現していたのではないかと言う意見も、まだ少数ですが聞
かれるようです。上記の私の考えが正しければ、二つの形式がほぼ同時期に存在し
たことの裏づけとなるのかもしれません。

 以上青銅武器について概観して参りました。従来は(そして今でも大方は)青銅武
器は多少のラップ期間はあるものの、概ね細形→中細形→(中)広形へという過程を
たどり、武器から祭器に変化した、と言うことがいわれてきました。しかしながら上記
のような分布状況から見ると、そのような直線的な変化では説明できないことも多い
ことが明らかになってきたのではないかと思います。

 今一度総括的に見てみましょう。原型と見られる細形青銅武器は、類似形を含め
て、その9割が北部九州から出土しております。その内かなりのものは墓の副葬品と
して甕棺の中などから見つかっております。九州以外で副葬品として埋められた例は
今まで見つかっておりません。時代が下がるに従い大型化や多数埋納などの変化が
見られると共に九州から外に広がる傾向が見られます。が、全出土品の半数以上が
九州であり、青銅武器の中心が北部九州であることは動きません。邪馬台国の有力
候補地とされている近畿からの青銅武器の出土は全国の3%に留まっています。

 また、出土場所に地域的な偏りがあることが挙げられます。本来の武器である細
形や中細形の中でも武器として実用されたと思われるものは王墓(厚葬墓)がある地
域の集中度合いが高いのですが、北部九州においても武器形祭器は、王墓がある
勢力圏からは遠い八女や田川の山裾などからまとまって出土するなど、離れた場所
で見つかることが多いのです。例外的に春日市の須玖岡本遺跡付近では細形の青
銅武器から大型の武器形祭器までが出土しております。更には、荒神谷の中細形銅
剣(c類)、瀬戸内の平形銅剣、大阪湾岸の大阪湾方銅戈など、独自の特徴を持つ
地域限定的な青銅武器は、北部九州の直接的な影響とは考え難く、時代が下がるこ
とによる変化とは思えない分布を示しております。

 以上のことから、青銅武器の変化については、新しい形式が生まれて順次新しい
形式に置き換わっていくと考えるよりも、本来の武器はそのまま武器として形式変化
が起こる一方で、武器から祭器に変化する流れがあり、時期的には概ね重なってい
たという可能性を考えた方が納得しやすいのではないかと思います。もしそれが正し
ければ従来の編年も見直す必要が出てくるのではないかと思うのですが。皆さんは
いかがお考えでしょうか。

------------------------------------------------------------
参考文献
青銅の武器(日本金属文化の黎明) 九州歴史資料館編
考古資料大観 小学館
最古の王墓(吉武高木遺跡) 常松幹雄 新泉社
韓国の青銅器文化 韓国中央博物館



第22号 青銅武器















































































































































































































































































































戻る
戻る



青銅武器
青銅武器
全国青銅武器出土表
全国青銅武器出土表
大阪湾形銅戈
大阪湾形銅戈
韓国入室里出土銅戈
韓国入室里出土銅戈
中細銅剣
中細銅剣
平形銅剣
平形銅剣
遼寧式銅剣
遼寧式銅剣