前号では考古学的出土物の中で青銅武器について、分っている範囲で、その分布
や特徴等について見ました。今回は見方を変えて日本の古代史書の中で武器がど
のような形で出てくるのかを見てみることにしましょう。記紀をはじめ日本の史書には
武器の記載がかなり頻繁に出てきます。古代において武器が色々な場面で大きな威
力を発揮していたことは間違いないと思われます。出土物と、これらの記述とを結び
つけることが出来れば日本の古代史の時間的関係がある程度明確になってくるので
はないかと考えてみました。

 日本の古代史を考える上で一つのネックは、文献上の記述と考古学的出土物が必
ずしも旨く結び付けられていないところにあります。比較的新しい時代については発
掘成果を文献の記述と結び付けるような取組みが近畿を中心にかなり力を入れて行
われておりますが、古い時代になると日本の出土物には年代が分るもの(紀年名が
ある出土物など)が殆ど無い、また、日本の史書の時間の記述が曖昧で信用できな
いことなどから、土器による相対編年は行われているのですが絶対年代については
専ら中国など海外の史書や出土物が基準とされているのが実際です。

 そのこと自体はやむを得ないかもしれませんが、それと並行して放射性炭素等を
活用して絶対年代に迫る取組がまだまだ不足していることは何度申し上げても足り
ないかもしれません。その結果、国内の史書と出土物は、全く別々に扱われるだけで
なく、事実を解明する手がかりとされるよりも、研究者が寄って立つ説を解釈(補強)
する材料とされる傾向が強いように感じられないでもありません。一般の方々がいつ
までも所謂邪馬台国論争が続いているような感じを持っておられるのもそのような現
状と無関係ではないでしょう。困難ではありますが、日本の古代史書の記述と出土物
から絶対年代に迫る手がかりが得られないかと考えた次第です。

 調べてみてまず分ったことは、武器の出土物は現在の基準でかなり厳密に区分等
がされているのですが、史書に出てくる武器の記述は曖昧で、現在我々が目にする
出土物等の中で、どれに該当するのか判然としないケースが多いことであります。結
果として、同じ文字が使ってあるからと言って指しているものが同じとは限らない、逆
に異なった文字で表されているが中身は同じものである可能性もあり得ると思われ
ました。中途段階ではありますが、現在までの経過の一部をご報告します。皆様もご
一緒にお考え頂き、何か気付かれるような事がありましたらお知らせ頂けると大変有
難いと思います。

 現存する日本最古の史書は古事記及び日本書紀(以下記紀)であります。この両
書はいずれも神話とされる時代から始まっており、内容的に必ずしも全てが事実だと
受け取ることは難しいのですが、何がしかの史実を反映しているであろうことも疑い
難いところだと思います。両書の研究につきましては多くの方が手がけられており、
様々な解釈がなされておりますが、まだまだ解明が待たれるところも多いように思い
ます。本項では、頭から全てが真実であるとか、反対に全ては架空だとか決めてか
かるのではなく、一つ一つを慎重に吟味しながら記紀を中心に武器の問題に取組ん
でみようと思います。

 記紀には武器が出てくる多くの場面が記されております。その中から手がかりにな
ると思われるものについて検討して見たいと思います。記紀に出てくる武器は弓矢、
矛、剣、刀、大刀、などであります。この内、弓矢は太古の発明以来近代まで使われ
続けた有力な武器であったと思われます。中国の矢の構造と日本の矢の構造とはか
なり違いがあり、別々に発達したものであると考えられるようです。また、日本におい
ては南方系の長弓が使われていたようで、北方騎馬民族系の短弓は使われており
ませんので、初めの伝来は南方系と考えられます。

記紀に登場する鳴鏑
 記紀には鳴鏑(かぶら)が登場します。鳴鏑は匈奴など北アジアの騎馬民族が使用
していたようで、音で相手を威嚇したり、また、合図などにも使われたと考えられてお
ります。鳴鏑はその特徴から見て狩猟用とは考えにくく、集団での戦闘用として発達
したのではないかと思われます。日本の文化には南方系のものと北方系のものが混
じっていると言われておりますが、弓矢の中にも南方系の長弓をベースとしながら北
方系の鳴鏑が取り入れられるなど、南方文化と北方文化の融合が見られるように思
います。少し踏み込んで言えば初めは狩猟用として南方から弓矢が伝来したが、後
に北方の影響を受けて(北方系の人々の移住など)集団戦闘用の鳴鏑が伝わってき
た、と考えられるのではないでしょうか。

 日本考古学用語辞典によりますと、鳴鏑が発達するのは古墳時代以降のようです
が、記紀には早い段階から登場しますので、日本列島に伝わったのはかなり古い
(神話時代かそれ以前)と思われます。まず鳴鏑が登場する場面を見ることにしまし
ょう。一番古いと思われるのは古事記の大国主が八十神から色々と意地悪をされる
場面で、次のような記述があります。「(略)また鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢
を採らしめたまひき。」
 広い野原で鳴鏑を射て、それを大国主に拾って来いと言って、大国主が言われた
通り拾いに行くと野原に火を放たれ焼き殺そうとされますが、鼠の教えによって穴の
中に隠れて助かるという話です。この話の現実性はともかく、放った鳴鏑は後で拾っ
て繰り返し使われていたことを窺わせます。千葉県から出土した古墳時代の鳴鏑
は、鹿の角を加工して作られておりました。製作には手間もかかり、それなりに技術
も必要と思われ、貴重品であったことが想像されます。

 次に鳴鏑が登場するのは日本書紀の天孫降臨の条です。天孫降臨という神話を、
文字通り天照大神の一族が天上から雲を掻き分けて下界に降り立った、と受取って
しまえば、そんな馬鹿なはずが無い、ということになります。事実この部分は絵空事
だとして、信仰対象ではあっても歴史的な探求対象とはされていないのが現在の一
般の状況だと思われます。ここではこれをそのまま事実として見ようというのではな
く、話の構成要素の中から何らかの史実の断片を掬い上げ、検討しようとするもので
す。また、天孫降臨については項を改めて検討する予定にしております。

 日本書紀の神代巻には多くの一書(参照された書物)が出てきます。天孫降臨の
条の第4の一書に、瓊瓊杵命(ににぎのみこと、記では邇邇藝命と表記)が降臨する
のに際して、現在で言えば侍大将兼近衛隊長格である天忍日命(あまのおしひのみ
こと)が立派な武装をして先頭に立つ様子が書かれているのですが、武装の記述の
中に八目の鳴鏑が出てきます。ここで「八目の鳴鏑」とは穴が沢山空いている鳴鏑と
言う意味だと考えられます。つまり、立派な装具の一つとして八目の鳴鏑が記載され
ております。

 日本最初の歴史書とされる日本書紀に「一書に曰く」という形で多くの参照したと思
われる書物が記載されている(多い場合は11の一書がある)事は大きな矛盾です
が、これについては後に改めて触れることにしたいと思います。神話には全くの想像
で作ることが出来る部分、事実を脚色して作られる部分、また、想像からは作り出し
にくい部分があるように思います。その中で、使われる道具そのものは全くの想像か
ら作ることは難しいのではないでしょうか。

 つまり、ある道具を日ごろ目にしていれば立派な道具や不思議な力を発揮する道
具などを想像する事は出来るかも知れませんが、何もないところから道具自体を想
像(頭の中だけ)で作り出すことは難しいのではないでしょうか。という事から考える
と、この説話が生まれた時代には、少なくとも鳴鏑はあり、説話として話されても特別
な説明は必要とされない程度には周知のものであったと考えて良いのではないかと
思います。また、天孫を擁して天降る一番の大将の装具として鳴鏑が副えてあること
は注目されます。この頃は鳴鏑を持つこと自体がある種の権威を表していたのでは
ないかと思われます。

 古事記の神武天皇の条にも鳴鏑は登場します。神武天皇が東に進んで最後には
都を作ることになるのですが、その途中、幾度か先住の部族を服従させ、或は攻め
滅ぼしながら進みます。宇陀(うだ)という所で、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おと
うかし)、という兄弟と思われる土地のボスに使いを出して服従するように言います。
弟宇迦斯は服従し、兄宇迦斯は使者に鳴鏑を射返して不服従の意思を表します。兄
宇迦斯はその後殺されるのですが、ここでは相手を威嚇する手段として鳴鏑が使わ
れております。

 僅かな例ですが、鳴鏑は相手を威嚇する道具であり、また、一部の高位の人が持
つ道具でもあったことが窺われます。千葉県の古墳から鳴鏑が出土した例は知られ
ておりますが、今まで弥生時代の出土例は見当たらないようです。材質が鹿の角な
のでよほど条件が良くないと現在まで残るのは難しいかとも思われます。鳴鏑という
特殊なものではなく、普通の弓矢もたくさん登場するのですが、広く普及していたと考
えられることもあり、記紀には鏃の材質(石、歯、角、骨、木、青銅、鉄)など、ある程
度時代が判定できる記述は見られませんので、弓矢については今のところこれ以上
の追及は難しいようです。

記紀に登場する矛
 次に矛について見て行きたいと思います。実は最初、矛に関しては銅矛を想定し、
矛が出現する記事を追って行けばある程度説話と時間軸の関係に迫ることが出来
るのではないかと考えたのですが、残念ながらそれほど簡単ではありませんでした。
記紀の比較的早い時点の記事(古墳時代初期以前:余裕を見て21代雄略天皇以
前)に出てくる矛の記事を拾ってみました。十数回出現します(数が曖昧なのは記紀
の片方にしか出現しないケースがあることによります)。 
 表記されている字は「矛、鉾」が大半で、例は少ないのですが「戈、槍、竿」なども見
られます。「戈」を「ほこ」と読ませている一つの例は大国主神です。この神様には別
名がいくつかあるのですが、その一つが八千矛神(やちほこのかみ)であります。沢
山矛を持っている神という意味だと考えられます。この神様の表記が古事記では八
千矛神ですが書記では八千戈神となっております。現在、我々は戈は柄の先端に柄
と直角に固定するものと考えておりますが、この表記から見ると「矛」と「戈」が必ずし
も区別されていないのです。

 更には、「槍」と書いて「ほこ」と読ませているケースもありました。考古学的な基準
で言いますと矛は下部に袋があり柄を袋に差し込み、槍は茎(なかご)があって茎を
柄に差し込むという違いがあるのですが、使い方としてはどちらも相手に向かって突
き出して刺すというということでは同じです。これから見ると後世の槍のような使いか
たをされた武器、今少し踏み込めば長い柄の先に刃物を取付けた武器を総称して矛
(鉾)と呼ぶ場合があったのではないか、という疑問が出てきました。これは「竿」と書
いて「ほこ」と読ませてある例が、1例ではありますが、見られることからも窺われるの
ではないかと思います。戈の場合、柄はそれほど長くはありませんが、念のため戈も
検討の対象に含めてみました。

 古代の矛は形の変遷を経て鎌倉時代後半頃から槍として発展するのですが、時代
によっては存在が明確に確認できない時期もあるようです。矛と呼ばれた時代は材
質は青銅が主体ですが、槍と呼ばれる頃は鉄であります。この材質の違いは形の違
いとなって現れます。青銅の場合は材質的に脆いため、茎を柄に差し込んで固定す
る(更に漆などで固め丈夫な紐で巻く場合もある)だけでは激しい使用に耐えられず
折れる可能性があるため、袋で柄を包み込むような形になったと考えられます。鉄が
使われるようになると、茎を長くすることにより、茎式でも十分な強度が得られるため
わざわざ加工しにくい袋式にする必要が無くなったと考えられます。その過渡期の形
と思われるものに袋式の鉄矛があります。これは袋槍とも呼ばれております。鉄矛は
弥生中期の終わり頃から後期の初めに掛けて北部九州に出現し、一旦途絶えて古
墳時代になると近畿を中心に復活するという興味深い研究結果が川越哲志氏(故
人)によって報告されております。

 「弥生時代の鉄器文化」(川越哲志、雄山閣)によりますと、「鉄矛は中期中葉にま
ず短茎のIa式が出現し(略)、後期初頭を最後に姿を消し、きわめて短期間に北部九
州という限られた地域でのみ用いられた武器であった。この点は鉄戈と同じである
が、鉄戈が後期初頭以後姿を消すのに対して、鉄矛は古墳時代に近畿地方を中心
に復活する。」
とあります。

 このほか矛と呼ばれた可能性があるものとして、一部の鉄剣が挙げられます。現
在出土している弥生時代の鉄剣とされているものの中には、長い柄を付けて槍として
使用された物があるのではないかという可能性につきまして、川越哲志氏は同じ「弥
生時代の鉄器文化」の中で、「弥生中期から後半のものとして出土した鉄剣の中で、
形状の特徴などから槍である可能性が考えられるものは、全国の鉄剣・短剣(100以
上の出土例)の中に8例(福岡県6、岡山県2)見出された」と報告しておられます。

 以上のことから、記紀に出てくる矛の可能性があるものとして、銅矛、銅戈、鉄矛、
鉄剣(茎が長いなど槍の可能性があるもの)を考えてみました。そのことを念頭にお
きながら記紀に出てくる矛の記事を追ってみることにしましょう。順序としてまず記事
を紹介し、それらの記述をどのように考えたらよいのか、検討してみたいと思いま
す。

 矛が最初に出てくるのは伊奘諾尊・伊奘冉尊(記では伊邪那岐命、伊邪那美命と
表記)による所謂国生み神話の場面であります。皆様よくご存知のように、二神は天
浮橋の上から、下に国はないかと矛で探り、その矛を引き揚げたときに落ちた雫か
ら日本の島ができたという神話です。この場面は記紀共に出てきますが、日本書紀
によりますと「伊奘諾尊・伊奘冉尊、天浮橋の上に立たして、共に計ひて曰く『底下に
豈(あに)国無けむや』とのたまひて、迺(すなわ)ち天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以
て、指し下して探(かきさぐ)る。是に滄溟(あおうなばら)を獲(え)き。其の矛の鋒より
滴瀝(しだた)る潮、凝りて一つの嶋に成れり。」とあります。

 いくらなんでも、この場面が現実にあったとは考えられませんが、注目したいのは
国を生む道具として使われたのが「天之瓊矛」、つまり玉で飾った矛であるということ
です。この神話が意味する事は、力や権威の象徴である玉で飾った矛の雫の先から
生まれたのが日本の島々であることになります。このままの形で事実と受け取ること
は出来ませんが、無人であったはずはない日本列島に、矛を持った集団がやってき
て先住民を追払い定着した史実があり、それを美化したものが神話だと考えれば理
解できない話では無いと思います。

 と見れば、今までに出土した最も早い時代の矛は銅矛ですから、ここで出てくる矛
が銅矛(銅戈)であることは疑い難いと思われます。神話とは言え、全くの想像で道
具が作り出されることは考えにくいので、この神話が作られた集団の中では日常的
に矛が使われていた、少なくとも人々の目に触れていたと考えてよいのではないでし
ょうか。北部九州の遺跡からは青銅武器と勾玉や管玉が一緒に発見されるケースも
いくつか確認されております。この時期に限らず、近畿や南九州からは実用武器とし
ての銅矛や銅戈は一つも見つかっておりません。話の中に出てくるものが実際に出
土するということから考えて、この神話が作られた場所は北部九州ということになると
思われます。

「国生み神話」が作られた時代
 以上のことから、「国生み神話」が作られた時代は北部九州にそれまで無かった青
銅武器が初めて出現する時代と考えられるのではないでしょうか。その場合、具体的
にはいつ頃なのかを追ってみました。北部九州で青銅武器が甕棺に副葬されること
が始るのは甕棺の形式で金海式(新段階)と呼ばれる形式からであります。その前
の金海式(古段階)と呼ばれる形式の甕棺からは青銅武器の副葬品は出土しており
ませんので、金海式(新段階)の時代に社会的な変革があった、具体的には青銅武
器を持った集団が移動してきたと考えて大きな間違いは無いと思われます。従って
金海式甕棺の年代が分ればこのテーマにも答が出ると思われます。

 金海式(新段階)の甕棺は考古学編年では弥生中期初めとされております。その絶
対年代が分れば簡単なのですが、歴博の発表以来、弥生時代の始まりが遡るのに
伴って、弥生中期も従来言われていたよりは早くなるのではないかと言われておりま
す。具体的にどの程度早まるのかということは現在考古学界の大きな論点の一つと
なっておりますが、容易に結論は出そうにありません。また、土器編年と絶対年代と
の結び付け方に問題なしとしない事は当マガジンでも指摘してきた通りであります。

 一応、従来の考え方を見ておきますと、本格的な弥生時代の研究が始った頃、弥
生時代はBC300年からAD300年の600年間と見て、それを前、中、後、各200年として
3分割されておりました。途中の経過は省略しますが、歴博の発表以来弥生前期が
大幅に遡る可能性が出て参り、それに伴って弥生中期も東アジア全体の中で捉えな
おすという動きが、一部ではありますが、最近出ております。その中で、弥生中期が
始る年代は従来考えられていたよりも200年程度は早くなるのではないかと言うことも
考えられるようになってきております。勿論、依然として歴博の発表を認めない方も
少なくありません。現時点の有力な考え方では、弥生中期初頭はBC300年頃と見ら
れるようです(もっと早くなるのではないかという考えもあるようです)。

 青銅武器の流入時期を別の面で確かめることができないものでしょうか。北部九州
から見つかる青銅武器は、初期のものは朝鮮半島から流入したものである事はその
形の特徴(共通性)などから疑うことは難しいと思われます。半島南部にある北部九
州の初期の青銅武器が出現する遺跡とよく似た遺物の構成が見られる初期の遺跡
の年代はBC350〜300年頃と見られるようです。それから多少の時間差を考えると、
北部九州に伝わったのはBC300年前後と考えることが出来るように思います。

 その頃の中国大陸や朝鮮半島の動きを日本列島との関連を中心に見てみたいと
思います。ご承知のように今の中国河北省付近に燕という国がありました。この国は
周王朝が成立すると、すぐに諸侯に封じられて東北の守りを負託され、戦国末期に
は遼東一帯まで勢力を伸ばし、盛衰はありましたがBC222年に秦に滅ぼされるまで
800年ほど続いた国であります。この燕と倭はかなり古い時代から関わりがあること
が中国史書から窺えます。

 中国の古代の歴史や地理のことを書いた「山海経」という書物があります。その中
に「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」というよく知られた一節があり
ます。当時「燕」は今の中国東方地方辺りまで勢力を伸ばし、その南の、後に高句麗
となる地域は「蓋国」と呼ばれていたようです。現在北朝鮮の北方にある蓋馬山地と
呼ばれる山系にその名前が残っているようです。「倭」から見れば、一番北に「燕」が
あり、南に「蓋国」があり、更に南に「倭」があるという3者の地理的状況が示されてい
ると考えられます。この書き振りから感じられることは、半島の南部には「倭」がいた
ということです。今ひとつ、「倭は燕に属す。」という記述はどのような状況を示してい
るのでしょうか。

 戦国時代、周王朝は形だけとは言え存続しておりました(秦により東周が滅ぶのが
BC249)。「山海経」の記述の中心は「周」であります。その「周」から見て、諸侯の一
つである「燕」と「倭」の関係は、「燕」の属国として「倭」が見えていた、ということにな
ると思います。実際に政治的にどの程度の関係であったのかまでは分りませんが、
定期的な朝貢は行われていたのかもしれません。このことは「漢書」の中の、燕地の
ことを書いた「地理志、燕地」に「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時
を以て来り献見す、という。」、というこれまた良く知られた記述があることからも窺わ
れると思います。

 「倭は燕に属す。」と書かれた時期がいつ頃のことを表すのははっきりしませんが、
「鉅燕」という字面からは燕の勢力圏が広がった後と考えられ、また、地理的に考え
ても燕が遼東一帯(蓋国の北側)まで勢力を伸ばしてから後と見てよいのではないで
しょうか。とすれば戦国時代後半頃のことになると思います。時期的には北部九州に
青銅武器が流入した頃も含まれると考えられます。が、青銅武器に関しては、北部
九州においては燕の形式と見られるものは殆ど見られない(早い時期の遼寧式銅剣
を再利用した工具と見られるものなどは少数出土しているが、遼寧式銅剣そのもの
は見つかっていない)ことから、燕の青銅武器が直接流入したということは考えにくい
ようです。

 燕は戦国時代に入ると東方へ進出を始め、天下の賢人を集めて国力回復を行っ
た(「まず隗より初めよ」の故事)ことで知られる昭王の時代(BC311〜279)に、遼東
付近まで勢力を広げます。燕の進出に伴い遼西では出土する遺物の構成等に変化
が見られることから、以前からいた人々は他の場所(東及び南)へ動いたと考えられ
るようです。いうならば民族の玉突き移動が行われたと考えられます。この時期と相
前後して朝鮮半島に現れる細身の朝鮮式細形銅剣(北部九州に初期に出現するも
のの原型)は人々の移動を示していると見られるようです。その波は日本列島にも及
び、北部九州には朝鮮半島から半島式の青銅武器を持った人たちが押し寄せてき
た、そのことを脚色したのが「国生み神話」であると考えると全ての状況が良くマッチ
するように思われるのです。

 つまり、戦国時代後半に燕が遼東方面に勢力を拡大し民族の玉突き的な移動が
起こった、その結果として朝鮮半島から北部九州へ青銅武器を持った人々の移住が
行われた。このことの裏づけとなるのが、北部九州に始めて出現する青銅武器は朝
鮮半島の形式であり、北部九州とよく似た遺物の構成が見られる朝鮮半島の遺跡の
年代(北部九州進出の直前)はBC350〜300頃で、甕棺に青銅武器の副葬が始るの
が弥生中期初頭(BC300前後)である、ということになるのですが、皆さんはいかがお
考えでしょうか。

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参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
史記 司馬遷 小竹文夫・小竹武夫訳 ちくま学芸文庫
日本考古学用語辞典 斉藤忠 学生社
匈奴の社会と文化 江上波夫 江上波夫文化史論集 山川出版社
東アジアの銅剣文化と向津具の銅剣 近藤喬一 山口県史所収
最古の王墓 常松幹雄 新泉社
弥生時代の鉄器文化 川越哲志 雄山閣
青銅の武器(日本金属文化の黎明) 九州歴史資料館編
弥生の矢について 深澤芳樹 日文研叢書27(武器の進化と退化の学際的研究)所

盗まれた神話 古田武彦 朝日文庫





第23号 記紀と青銅武器



























































































































































































































































































































































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