前号では日本列島に初めて青銅器を持った集団が渡ってきた時代を表す記紀の
表現を、一口に「国生み神話」が作られた時代と述べましたが、これは必ずしも正確
ではありませんでした。不正確な記述をお詫び申し上げ、念のため、一部重複するこ
とになるかもしれませんが、改めてこの時代について検討してみたいと思います。

3神話の時代
 記紀で語られているこの時代は三つに分けて考えることが出来るようです。即ち
「国生み神話」、「国譲り神話」そして「天降り神話」の時代です。具体的には伊奘諾
尊・伊奘冉尊が天之瓊矛で列島の島々を作ったとされるのが「国生み神話」の時代
で、その島を支配していたと思われる大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)の
所に経津主神(ふつぬしのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の二神(古事記
では建御雷神、天鳥船神の二神)が遣わされて大己貴神から国譲りを受ける(実態
は脅して支配権を取り上げる)のが「国譲り神話」の時代、その島に天孫瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)を擁して支配者の集団が実際にやってくるのが「天降り神話」の時
代ということになります。以後三つの神話の時代をまとめて述べる場合には、3神話
で語られている時代と言う意味で「3神話の時代」と呼ぶことにしたいと思います。

 3神話の時代区分や時間的な関係につきましては、次号で述べますように疑問点も
多いのですが、一応、日本書紀を中心に記紀に従って時間関係を探ってみることに
したいと思います。伊奘諾尊・伊奘冉尊による国生み神話の時代を基点として見るこ
とにします。この神話の時代を北部九州に初めて青銅武器が出現(副葬)する時代
ではないかと考えました。この時代の絶対年代は大陸や半島の遺物などとの比較に
よって東アジアの中で捉えないと、日本の中だけで考えていては迷路から抜け出るこ
とが難しいように思われます。

3神話の年代
 そこで基準とされているのが、瀋陽にある鄭家窪子遺跡です。中国の報告書では、
この遺跡の年代は春秋・戦国の境の時期に相当するとされているようです。この遺跡
から出土した青銅器(喇叭形銅器)とよく似た喇叭形銅器が朝鮮半島の東西里遺跡
から出土しております。東西里遺跡は遺物から見れば鄭家窪子遺跡と同じ年代とな
りますが、伝わる時間を考えれば鄭家窪子遺跡からやや遅れると見られるようです。
東西里遺跡からは銅剣が出土していますが、銅矛や銅戈は伴っておらず、また、多
鈕細文鏡が現れる少し前の多鈕粗文鏡を伴っております。

 東西里遺跡から少し後の遺跡と考えられているのが同じ朝鮮半島の九鳳里遺跡
や草浦里遺跡で、細形銅剣・銅矛・銅戈の3点が揃い、多鈕細文鏡を伴っておりま
す。この二つの遺跡と北部九州に青銅器が初めて副葬された吉武高木遺跡とは
形銅剣・銅矛・銅戈や多鈕細文鏡といった遺物の構成が良く似通っております。この
ことから、吉武高木遺跡の上限は九鳳里遺跡・草浦里遺跡の年代であることになり、
伝わる時間を見れば二つの遺跡よりはある程度遅れることになると思われます。

 以上の遺跡の絶対年代を探る上で重要な鍵となるのが、基準となる「春秋・戦国の
境」の絶対年代、であります。中国史書におきましても、「春秋」(BC480)と「史記」
(BC476)では僅かではありますが差があります。中国では史記のBC476年を採られ
る方が多いようですが、日本ではその上にBC475(岡内説)、BC453(晋が3晋に分裂
した年代)、BC403(資治通鑑)の3説が加わるため、代表的な説だけで5説あること
になり、最大では80年近い開きがあることになります。今後「春秋・戦国の境」の年代
が絞り込めるかどうかが以上の遺跡の年代を決める上での大きなポイントとなってお
ります。が、まだ確定的なことが言える段階には無いようです。

 一方で、弥生中期初頭とされる土器に付着した炭化物のAMSによるC14年代測定
では、BC380〜BC350という年代が出ているようです。鄭家窪子遺跡(春秋・戦国の
境の時期)との比較から見た東西里遺跡の年代、それから少し遅れる九鳳里遺跡や
草浦里遺跡、更には、そこから北部九州(吉武高木)へ渡来するまでの時間差をど
の程度と見るか、ということによりますが、AMSによるC14年代測定によって得られた
年代は上の中国や朝鮮半島の遺跡や遺物と比較した年代の範囲に収まっており大
きな矛盾は見られません。従って、ここではAMSによる年代を基準とし、ある程度の
幅を考えて国生み神話の時代(青銅武器の渡来年代)はBC400〜BC350年頃と見る
ことが出来るのではないかと考えました。*
*23号ではBC300年頃としましたが、上記見直しの結果もう少し早くなりました。只、
上で述べましたように変動要素を含んでおりますので、今後の研究次第では変化が
あり得る事をお含み願いたいと思います。

従来の年代の検証
 この推定が大きくは外れていないとした場合、従来は弥生時代(BC300年頃)にな
って稲作と金属器(青銅器・鉄器の工具・武器)がほぼ同時期に日本列島に渡来した
と言われておりましたが、稲作の渡来(弥生時代の始まり)は歴博の発表でBC800年
頃まで遡ることがほぼ確実となりましたので、青銅武器の渡来はそれから400〜500
年程度遅れることになりました。とすると、鉄器はどうなるのかと言う疑問が湧いてま
いります。ご承知のように縄文晩期あるいは弥生前期の遺跡から鉄器が出土した、
或は鉄で加工したと考えられる木製の杭などが見つかったと言う報告は、北部九州
だけではなく近畿などからも、今までに少なからずなされており、それらに基づいた絶
対年代の仮説も多く発表されておりました。仮にそれらの報告や仮説が正しいとしま
すと中国で鉄器が使われるより以前に日本列島では鉄器が使われていたことになり
ます。

 炭素14による年代測定に不信を持つ一部の学者の間からは、そんな早い時期か
ら我が国で鉄器が使われていたはずはないので、炭素14の測定結果は信用できな
いのではないか、という疑問の声も少なくなかったのであります。この点につきまして
は歴博の春成秀爾氏が中心となって再検証を行われ「考古学はどう検証したか」と
言うタイトルで出版もされました。結論を先に申し上げますと、従来の報告や推定に
誤りがありました。私も最近手に入れて目を通してみたのですが、ご自身の過去の
論文の誤りは勿論、先人の業績にも遠慮することなく問題点が指摘してありました。

 従来どちらかと言うと、誰かが報告をするとその報告を尊重し、疑うことは勿論、余
程でないと異論も挟み難いような状況があったように思っておりました(旧石器の捏
造問題もそのような状況と切り離しては考えられません)。そういう空気の中で、一旦
認められた報告は既成事実化され、そうなるとそれに合うようなデータが喜ばれ、集
められ、都合が悪いデータは無視されると言う風潮は否めないように思っておりまし
た。「考古学はどう検証したか」を一部引用しますと、「日本考古学界では年輪年代
法や炭素14年代測定法の優れた点を十分認識できないままに、いきなりまとまった
結果が出てくるようになり、弥生時代の実年代の全面的な検討を、迫られることにな
ったのである。」と述べられております。

 従来は科学的方法による検証作業がなされていなかった事を率直に認められた訳
で、「改むるに憚ることなかれ」ということだと感じ、また、そのような姿勢に敬意を払
いたいと思います。著書の内容は文字通り是々非々の態度で貫かれており、根拠が
あやふやなものはあやふやとし、不明なものは不明として、確実に言えるのはどこま
でか、先例に捉われずに科学的データの示すところに従い述べられております。指
摘された例の数も多く、問題点の掘り下げも専門家ならではのもので説得力があり、
学界内部からこのような一文が発表されたことは日本の考古学にとって大きな転換
点となるように感じました。

 私も今までは考古学に携わっておられる大多数の方々の研究のやり方などに疑問
を感じる場面も少なくなかったと思っており、このメルマガでも何度か触れてきたので
ありますが、上掲書で示されたような確実な事実に基づいて推論を進め検証を行っ
ていく方向が定着し広がるようであれば、報告などを額面どおり受け取ることが出来
るようになる日も近いのではないかと、認識を変えつつあるところであります。他の科
学の分野では当たり前のことかもしれませんが、考古学においても当たり前のことが
当たり前に行われるようになるのではないかと、期待を膨らませているところでありま
す。尤も、私の乏しい経験ですが、歴史資料館などで測定可能と思われる資料など
について質問すると、「炭素14の測定予定はありません」と何の疑問も持っておられ
ないような回答に接することが殆どであることからみて、まだまだ手放しで期待できる
状況には遠いような気もしております。

 検証の内容については量的に多いこともあり、とてもここでは十分に触れることは
出来ませんが、鉄の問題について簡単に要点のみをご紹介しておきたいと思いま
す。再検証を行ってみると、残念ながら弥生前期以前の鉄器出土報告のかなりの部
分は、出土状況の把握が不正確、金属による加工痕跡との勇み足的な判定、他の
報告からの影響、など色々な点で不備が見つかり、白紙に還さざるを得ないと言うの
が実態のようです。前掲書では「北部九州最古の鉄器は、弥生中期初めまで遡ると
言える程度が現状であった。」と結論付けてあります。その結果、稲作の渡来以降金
属武器の渡来まで、工作用具などとして渡来したと思われる金属器は意外と少ない
ことが分って参りました。

 という状況で注目されるのは、出土例は少ないのですが、福岡県の弥生前期の遺
跡から出土した遼寧式銅剣を再加工した(のみ)です。この鑿は共伴している土器
(板付I式)から弥生前期であることは確実とされております。この鑿は武器として持ち
込まれた後に加工されたのでしょうか、又は、破片などを持ち込んで加工されたので
しょうか。現段階で、決定的に申し上げる事は難しいのですが、銅剣が武器としての
機能を保っていたのであれば、敢えて再加工して鑿とすることは考えにくいので、折
れた破片などから再加工したと考えたほうが理解し易いような気がします。その場
合、金属精錬技術を持っていたと思われる大陸や半島では銅剣の破片を手を掛け
て磨くよりも再鋳造などの方法で作る方がはるかに容易であったと思われ、わざわざ
手を掛けて磨く事をするのかと考えた場合、破片などを持ち帰って北部九州で研磨し
て工具とした可能性のほうが大きいように思われます。

 当時北部九州に金属精錬技術がなかったことは間違いないと思われますが、石の
研磨加工品は沢山見つかっていることから、研磨技術があったことは疑えません。
研磨技術があれば銅剣の破片を鑿に加工する事は可能です。遼寧式銅剣の再加工
品としての鑿が出土した今川遺跡からは、再加工して作ったと思われる銅鏃も見つ
かっております。当時の北部九州の人が、半島との交流の中で、何らかの理由で使
用後折れた銅剣の破片を持ち帰り、磨いて工具とした可能性は大きいように思われ
ます。弥生前期においては年代が確かな金属器は極めて少ないところから見て、少
なくとも、遼寧式銅剣の加工品から引き続いて青銅武器が渡来する状況にはならな
かった、ことは言えるように思います。

 以上を整理してみますと、最初の稲作渡来時には(初期の石包丁などを伴っては
いたが)、金属器は伴っていなかった。次の段階として銅剣の再利用品としての工具
が登場した。これによって木製農具の製作作業はより効率的になったと思われる
が、木製農具は従来と同じく石斧などでも製作可能であり、金属の再利用品の出土
数の少なさから見て金属工具の影響は限定的であったと思われる。それから時代が
下がって青銅武器が渡来した。稲作の渡来から金属(青銅)武器の渡来までに400〜
500年程度が経過している、ということであります。

 北部九州の弥生人は稲作の渡来から400年以上青銅武器を知らなかった、或は、
知ってはいたが工具に加工して使い青銅武器は必要としていなかった、と言うことの
どちらにせよ、稲作の渡来以後かなり長期に亘って金属性武器がない時代が続いた
ことになると思われます。また、従来言われていたような、稲作は渡来してから比較
的短期間に全国に広がった、ということではなく、稲作が渡来してからかなりの年月
を掛けて広がり、毎年安定的に収穫できるような我が国の中心作物として育って行っ
たと言うことになるように思われます。

国生み神話
 さて、以上のような背景を踏まえて、3神話の時代を見てみることにしましょう。国生
み段階では天之瓊矛、即ち玉で飾った矛が主要な道具として登場します。天之瓊矛
を指し下して探(かきさぐ)り、その雫から出来たのが?馭慮嶋(おのごろしま)と言うわ
けです。?馭慮嶋は博多湾内にある能古島(のこのしま)でないかと言われておりま
す。真偽の程はともかく、能古島には伊奘諾尊・伊奘冉尊の墓があるという言い伝え
もあり、何らかの所縁があった可能性は考えられるのではないでしょうか。「天之瓊
矛を指し下して探る」という話が何らかの史実を反映しているとすれば、どのようなこ
となのかと考えた場合、私は矛を持った一団がある種の偵察に来た事を示している
のではないかと言う気がします。半島にいた集団が何らかの事情で移動の必要に迫
られ、様子を見に来た事を示しているのではないでしょうか。

 博多湾の喉元を抑え、高見に上がれば博多湾岸の平野部一帯が見渡せる位置に
ある能古島に伊奘諾尊・伊奘冉尊が降り立ち、島には自分たちより優勢な武器はな
い事を確認し、自分たちの住む場所だと主張した状況を表しているように思われま
す。伊奘諾尊・伊奘冉尊は洲国(くにつち)をはじめ山川草木を生み、天照大神、月
読尊、素戔鳴尊の三神を生む説話が作られるのですが、無人であったはずはない
島に降り立ってから戦闘を示す説話は見られないことから、概ね平和裏に降り立っ
たと見て大きな間違いはないのではないでしょうか。島に青銅武器と同等程度の武
器があり、島の人との間に戦闘行為があったのであれば、このような穏やかな国生
み神話が生まれるとは考えにくいように思います。この推定が大筋で外れていなけれ
ば、この説話が表している時点は北部九州に最初の青銅武器(実用武器)が現れる
時点であることを裏付けているように思われます。

吉武高木遺跡 ―弥生時代中期が始る―
 北部九州において(日本全体においても)最も古い時代に青銅武器(細形銅剣・銅
矛・銅戈)が副葬された遺跡は吉武高木遺跡であります。見事な青銅武器の3点セッ
(銅剣・銅矛・銅戈)が出土したことから発掘を担当された常松幹雄氏は「最古の王
墓」という名を贈られました。3号木棺墓からは多鈕細文鏡やヒスイの勾玉も出土し
ており、3点セットを含めて、朝鮮半島の九鳳里遺跡や草浦里遺跡から出土した副
葬品と遺物構成が似通っている事は本号の始めで触れました。

 吉武高木遺跡は福岡市西部にある背振山系から続く扇状地にある遺跡です。背振
山系に源を発して北流する室見川の西岸で、室見川によって東側の福岡平野と区切
られ、西は背振山系から派生して北に突き出した丘陵性の高祖山系によって糸島地
区とを区切られた南北に細長い早良平野に位置しております。遺跡の西には高祖山
系の一峰でもある文字通りご飯を山盛りにしたような均整の取れた姿の飯盛山(382
m)があり、別の言い方をすれば飯盛山の東麓に広がる平野部に展開する遺跡でも
あります。更には、伊奘諾尊・伊奘冉尊が最初に降り立った場所の候補地である能
古島とは、その真南にも当たっており博多湾の南半分を挟んで、目と鼻の先と言って
も良い地理的関係にあります。

 もし国生み神話の推定が大筋において外れていなければ、能古島を偵察して、大
丈夫となり、能古島から対岸を見渡し、南に進んで早良平野に上陸したのではない
でしょうか。能古島にどの程度の期間留まったのか、或はすぐに南進したのか、その
場合全部が南進したのか一部が南進したのかということは分りませんが、能古島は
博多湾内にある山と言っても良い地形で平地は少なく稲作には必ずしも適していると
は言えません。早良平野という稲作や居住に絶好の場所を目前にして能古島に留ま
り続けたと言うことは考え難いように思います。比較的早い段階で南進したのではな
いでしょうか。と、ここまで考えて、吉武高木遺跡は伊奘諾尊・伊奘冉尊を含むその
一族の墓ではないかと思い至りました。

 そのように考えた場合、何か裏付となることがあるのだろうかと考えてみました。ま
ず、墓制についてみますと、草浦里遺跡の場合は積石塚で主体は石棺墓や木棺墓
ですが、吉武高木の場合は大多数が甕棺墓なので一見違いがあるように思われま
す。が、吉武高木遺跡には常松氏が中核墓群と名付けられた一角があり、一帯には
副葬品を伴う10基の甕棺墓と4基の木棺墓があり、中でも出色の副葬品を出土した4
基の墓を中核墓と名付けられました。この4基は甕棺が2基と木棺が2基であり、銅
剣・銅矛・銅戈の3点セットに加え、多鈕細文鏡やヒスイ勾玉が副葬された3号木棺墓
も含まれております。つまり、吉武高木遺跡はほぼ同時期に大多数の甕棺墓と少数
の木棺墓が共存している遺跡でもあるのです。

 吉武高木遺跡は最も早い時代に甕棺墓に交じって4基の木棺墓が現れますが、後
は甕棺墓だけになってしまいます。つまり、より古い時代から甕棺墓の風習があった
土地に突然木棺墓が現れ、一旦消えてしまうのです。木棺墓自体は他の地域でも見
られますので、それほど目新しいと言うわけではありませんが、吉武高木地区に限っ
て言えば甕棺墓群の中に、異なる埋葬文化(木棺墓)が部分的に一時期だけ出現す
ると言う状況が生じております。このことは初期の指導者は出身地の墓制で葬られ、
後に続く人達は地元の墓制で葬られたと考えると説明できるのではないでしょうか。
当時当地における甕棺文化の根強さが窺えるように思われます。

 次に吉武高木で始めて現れる埋葬形式の中で後の時代に引き継がれているもの
が見られます。具体的には墓の上に標石が置かれるようになることと、甕棺に副葬
品が入れられるようになることなどであります。後の時代の埋葬形式につながるこれ
らの形式が始めて出現したのが吉武高木である事は、この遺跡が弥生時代の中期
の画期となる遺跡である事を示しております。吉武高木遺跡は青銅武器が初めて出
現した遺跡であると同時に、大きく埋葬形式の変化をもたらした遺跡でもあり、更に
は弥生時代中期の始りを告げる遺跡でもあったのです。

 吉武高木遺跡から埋葬形式や出土遺物が大きく変化する事は伊奘諾尊・伊奘冉
尊を含むその一族が北部九州に渡来して地元の風習と融合した事を示しているの
かもしれません。尤も、一族が記紀の記述通りであるのかということは別に検討しな
ければならないと考えており、今のところは疑問の余地があるように思っております。
記紀と青銅器の関係について調べるうちに思いもよらぬことになってしまいました。
少々踏込み過ぎかと思わないでもありませんが、現段階での一応の帰結として述べ
ておきたいと思います。

 念のため、吉武高木遺跡が伊奘諾尊・伊奘冉尊の系譜に繋がる人々の墓である
可能性について整理しておきます。
1.記紀の記述から伊奘諾尊・伊奘冉尊の時代は青銅武器が初めて日本列島に現れ
た時代であると考えられる。
2.日本列島において最初に青銅武器が副葬された遺跡は吉武高木遺跡であり、銅
剣・銅矛・銅戈をはじめ副葬品の見事さは「最古の王墓」と呼ぶに相応しい。
3.吉武高木遺跡の年代は大陸や半島の遺跡との共通性からBC400−BC350頃と考
えて大きな外れは無いと思われる。
4.吉武高木遺跡からも出土する弥生中期初頭の土器に付着した炭化物のC14測定
値(BC380−BC350)は3.の考古学的見解と矛盾しない。
5.国生みの舞台となった?馭慮嶋は能古島と語感が似ており、能古島には伊奘諾尊・
伊奘冉尊の伝承も僅かながら残っている。
6. 能古島と吉武高木遺跡は博多湾の南半を挟んで目と鼻の先にあり、能古島から
は条件に恵まれた吉武高木付近に無理なく来ることができる。
7.吉武高木遺跡には甕棺墓に混じって中核墓に木棺墓がある。
8.標石を置くことや甕棺に副葬品を入れるなど吉武高木以来の墓制がその後の時
代に引き継がれていく。
9.以上の特徴や変化は初めて歴史に顔を出した伊奘諾尊・伊奘冉尊に関連するも
のと考えると理解しやすい。

 武器をキーとして記紀の検討を行う内に、思いがけず、雲を掴むような話と考えて
いた神話の中に臨場感を伴った史実の骨格らしきものが浮かび上がってきたように
思います。日本書紀の神代巻は、どうせ神話なのだからまともに検討しても余り意味
はない、或は自由に想像を膨らませて楽しめばよい、と言うような考えがあることは
承知しておりますが、検討のやり方によっては古代に迫る手掛りが得られるのかもし
れません。何と言っても国内に残る体系的なこの時代の史料としては一番纏ってい
るものであることには違いないのですから。

 皆さんはどのように受け止められましたでしょうか。

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参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
考古学はどう検証したか 春成秀爾 学生社
最古の王墓 常松幹雄 新泉社




第24号 記紀と青銅武器(2)



































































































































































































































































































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3号木棺墓出土3点セットと多鈕細文鏡
3号木棺墓出土3点セットと多鈕細文鏡
吉武高木位置図
吉武高木位置図
吉武高木3点セット出土状況
吉武高木3点セット出土状況
吉武高木出土物
吉武高木出土物
喇叭形銅器(東西里)
喇叭形銅器(東西里)
遼寧形銅剣再加工品(鑿)上徳力遺跡出土
遼寧形銅剣再加工品(鑿)上徳力遺跡出土
飯盛山
飯盛山
草浦里(多鈕細文鏡)
草浦里(多鈕細文鏡)
草浦里(銅剣・銅矛・銅戈)
草浦里(銅剣・銅矛・銅戈)