No25:伊奘諾尊

 前号で、吉武高木遺跡が伊奘諾尊・伊奘冉尊に関連した遺跡である可能性に思い
至った、と述べました。史実や伝承、また地形的などの状況等の中に、その裏付とな
るようなものが見出されるのか、しばらく記紀を軸に追って見ることにしましょう。

 伊奘諾尊・伊奘冉尊の2神は?馭慮嶋(おのごろしま)に降り立った後、山川草木を
初めとした万物を生むのですが、伊奘冉尊は軻遇突智(かぐつち=火神)を生むに
至って熱のために焼け死にます。この段は日本書紀では「一書に曰く」と言う形で11
の一書の異説が紹介されております。この段、古事記を含めて13通りの記述を比べ
て見ますと、大筋では似ているようですが、細かく見ればかなりニュアンスの違いが
あります。

 ニュアンスの違い等については後で検討することにして、大筋を、一番詳しく述べて
ある第6の一書に従って要約しますと、軻遇突智を生んだ伊奘冉尊はその熱で焼け
死にます。伊奘諾尊は泣き悲しんだ後、帯びていた十握剣(とつかのつるぎ)を抜き
軻遇突智を三つに斬り、三つの各々や飛び散った血などが神となります。その後伊
奘諾尊は伊奘冉尊を追って黄泉に入り伊奘冉尊と話をするのですが、伊奘冉尊がし
ばらく寝(やす)む間(伊奘冉尊を)見てくれるなと頼んだのに、堪えきれずに湯津爪
櫛(ゆつつまぐし=神聖な手先に持つ櫛)の先に火をともして、見てしまいます。伊奘
冉尊の変わり果てた様に驚き逃げ出しますが、恥をかかされた伊奘冉尊は泉津醜
女(よもつしこめ)に追撃を命じます。

 伊奘諾尊は剣を抜いて後で振りつつ逃げ、黒鬘(くろきみかずら=結った髪)を投
げると蒲萄(えびかずら=葡萄の一種)になり、泉津醜女が蒲萄を食べる間に伊奘
冉尊は先に逃げ、食べ終わった泉津醜女が更に追ってくると、今度は湯津爪櫛を投
げると筍になり、泉津醜女が食べる間に更に遠くに逃げ、そのほか多少の経緯もあ
って、伊奘諾尊は逃げ延びることができます。逃げ延びた伊奘諾尊は海岸に至り、
穢れを落とすために禊(みそぎ)を行います。禊をする中で、住吉3神や安曇3神が生
まれ、最後に天照大神、月読尊、素戔鳴尊の三神(三貴神とも言われる)が生れま
す。

 以上の大筋の中で、伊奘諾尊が禊を行った場所は「筑紫の日向の小戸の橘の檍
原(あはきはら)」と書いてあります。この場所が分れば伊奘諾尊の禊の裏付に大きく
近づくことになると思われます。一般論としては、古代の地名を現在残っている地名
から判断することについては、相当に難しい問題を含んでおり、周到な注意を払う必
要があります。現在では特定の場所を指すことが明らかな地名でも、必ずしも当時も
現在と同じ場所を指していたとは限りません。また、全く離れた場所に同じ地名があ
ることも珍しくはありません。例えば、北部九州と近畿地方に同じ地名が相当数見ら
れることはよく知られております。と言うことで、地名だけから古代の場所を探すこと
は相当に曖昧さを含んだものとならざるを得ないと思われます。

 一方で、地名は現在に残る古代の痕跡の可能性を持ったものであることも一面の
事実であります。この点、最近の効率性に名を借りた、安易とも思える町名変更等に
は疑問を感じざるを得ません。それはともかく、古代の文書に記載がある等どの時
点まで遡ることができるか、説話の筋道と矛盾がないか、等に留意しながら「筑紫の
日向の小戸の橘の檍原」を探して見ることにします。「筑紫の日向の小戸の橘の檍
原」の読み方について、「筑紫の日向」の筑紫を九州全体と捉え、日向を「ひゅうが」
と読んで、宮崎県の小戸だとする考えもあり、宮崎市の阿波岐原町には伊邪那岐
尊、伊邪那美尊を祭神とする江田神社も有ります。が、九州全体を筑紫と呼ぶのは
かなり後の時代で、それも例外的に九州から遠いところにいる人が呼ぶ場合がある
ということのようで、普通に九州全体が筑紫と呼ばれていたわけではありません。北
部九州に青銅武器が初めて入ってきたと考えられる段階では、筑紫を九州全体と見
るのは無理があるような気がします。

筑紫の日向の小戸の橘
 大まかには、筑紫は福岡県北部で豊前より西側、即ち、前に触れました三郡山系
の西側と見るのが素直な見方であります。ではその範囲に「日向の小戸」があるの
か、と言うことになりますが、「日向」を普通に「ひゅうが」と読めば訳が分りません。
が、実はこの字には「ひなた」という読み方があるのです。西の糸島平野と東の早良
平野を分けているのが高祖山系ですが、その間に日向(ひなた)峠があります。つま
りこの一帯は日向(ひなた)と呼ばれる地域でもあったのです。ではその地域に小戸
があるのかと言えば、あるのです。能古島から早良平野を目指して海を渡ると、(能
古島に)一番近く、最初に上陸すると思われる地点、陸地の側から見れば、早良平
野が能古島に向かって小さく突き出したような形になっている場所が小戸なのであり
ます。

 次の橘ですが、地名語源辞典などによりますと、橘とは地形用語としての立鼻すな
わち、タチ(台地)+ハナ(端、鼻)で、台地・自然堤防・微高地などの先端をあらわす
ようです。私も先日改めて能古島に渡り小戸から飯盛山を確認し、戻って小戸から飯
盛山一帯を歩いてみました。飯盛山からは能古島やすぐ後の志賀島、手前の小戸
海岸がほぼ直線状に連なって見えました。

 現在は小戸の前の海岸が埋め立てられて公園になっており、僅かに残った西側の
磯や砂浜で昔の地形を偲ぶしかありませんが、堤防の上から能古島が伸ばせば手
が届くような感じで、ほぼ左右の視界一杯に見えました。元の地形は陸側から北に
突き出した崖になっており、横から見ると、切り立った崖が海に向かった突き出した
鼻と言う形容がまさにピッタリで、昔の人の名前の付け方の確かさが感じられまし
た。小戸の橘とはまさに地形そのものの地名でありました。崖の前の海を埋め立て
て公園を作るのと、歴史的な由緒の地(の可能性)を保存するのとの間に、どのよう
な判断が行われたのか疑問を感じざるを得ませんでした。

 立鼻の西側は少し抉れて小さな湾になっており、今はヨットハーバーになっておりま
した。そのヨットハーバーのすぐそばに小戸大神宮があり、由緒の説明版に「小戸大
神宮は神代の昔、伊邪那岐命が御禊祓の神事を行われた尊い地であり(以下略)」
とありました。この小戸がいつの時代まで遡ることができるのか確かなことはわかり
ませんが、説明版によりますと享保10年(1725)黒田藩の6代藩主黒田継高が社殿
を建立したとあります。少なくとも享保年間には伊邪那岐命の禊祓の伝承地であると
されていたことになりますが、更にどこまで時代を遡ることができるのか、今後の探
求課題であります。

 伊奘諾尊は黄泉から逃げて「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行ったのです
が、日本書紀の第6の一書では「往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原で禊ぎ除ふ」
となっております。古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊
ぎ祓ひたまひき」となっております。小戸が小門となっていたり、小戸と橘の順序が逆
になっているなど多少の相違点はありますが本質は変りません。筑紫を九州全体と
解釈した場合、北部九州の説話と考えられるこの話の中で、更に筑紫の日向と繰り
返すのは理解し難いように思います。いずれにせよ、「往きて」「到りまして」という言
い方は、黄泉から逃れた伊奘諾尊は小戸に戻ったようにも受け取れますが、別の地
点から出発して紆余曲折の末小戸へ辿り着いたと考えられなくもありません。ここに
出てくる小戸がどういう地点であるかの説明が無いため、逃げて偶々辿り着いた地
点が小戸であると受け取れば、伊奘諾尊の上陸地や小戸の候補地は広い範囲で考
えなければならないように思われます。

 私は第6の一書ではこの点が今ひとつ理解しにくいと思ったのですが、第10の一
書では「橘小戸に還向(かえ)りたまひて、払ひ濯く」となっておりました。「還向りたま
ひて」ならば意味がはっきりします。伊奘諾尊は(小戸から出発して)伊奘冉尊を追っ
て黄泉に行き、逃げて小戸に還ったのです。能古島を発進した伊奘諾尊の一行は眼
前の小戸に上陸すると、そこに一応の拠点を作ったのではないでしょうか。伊奘諾尊
は日本書紀の記載通りの事情かどうかはよく分らないまでも、何らかの事情で小戸
を出発して内陸部にある黄泉に行き、そこから小戸に逃げ還った、ということであれ
ば現地の状況に照らしてもリアルな現実感が出てくるように思います。黄泉を文字通
り観念の世界の黄泉と受け取れば話自体が架空のことになりますが、内陸部が、上
陸した人たちにとって薄気味が悪い所に感じられて、そこを黄泉と言ったと考えれば
納得できるのではないでしょうか。或は先住者がいる場所に対する蔑みの意味もあ
ったかも知れません。

 この辺りで今ひとつの史書をご紹介したいと思います。多くの方はご存知と思いま
すが、「先代旧事本紀」という史書であります。編纂されたのは記紀からかなり遅れ
た平安時代初期の頃とされております。が、内容的にはより古い時代の独自の記述
が見られることから何らかの元になるものを参照して編纂されたと考えられます。こ
の史書は物部氏の立場から書かれた史書とされており、記紀と共通した部分もあり
ますが独自の(記紀とは立場を異にする)記述もあります。江戸時代はじめ頃までは
記紀と並んで第一級の古代文献として重要な扱いを受けていたのでありますが、記
紀と比べた独自性の故か、江戸時代中頃より異端の書とされて、まともな人は研究
の対象としない、とされた時代もありました。

 しかしながら、記紀自体の記述が曖昧な点や矛盾した点を多く含んでおり完全な史
書とは言えない中で、記紀の記述と合わないからと言って異端の書とするのは飛躍
がありすぎるように思います。少なくとも千年以上前からある書物を異端の書というレ
ッテルを貼って研究対象から除外するというのは、史実を探求する態度としてはいさ
さか恣意的に過ぎるのではないでしょうか。最近では見直し機運も高まっております
が、まだ一般的とは言えないように思います。本マガジンでは今後とも必要に応じて
参照して行きたいと考えております。

 さてその「先代旧事本紀」では伊奘諾尊の禊の部分は「日向の橘の小戸の橿原に
還向て、祓除たまふ」という記述になっております。ここでも「還向」という記述になっ
ております。つまり出発点に戻ったと書いてあるのです。一書第6や古事記では両方
のケースが考えられ、一書第10と先代旧事本紀では還ったとされている事から考え
れば、たまたま行き着いた先が小戸であると言うよりは、出発地の小戸へ戻ったと考
えるのが普通だと思われます。もし私の考えが正しければ、橘の小戸は能古島の目
と鼻の先にある小戸に限られてくるように思われるのですが、皆さんはいかがお考え
でしょうか。

 以上から「筑紫の日向の小戸の橘」まではかなり明らかになったのではないかと考
えますが、最後にある一書第6の「檍原」、古事記の「阿波岐原」、先代旧事本紀の
「橿原」につきましては書記の校注によりますと、檍は梓属の木の名前で橿の名前も
ある木ではないかとしながらも未詳とされております。いずれにせよ「檍(あはき)」と
呼ばれた目立つ木がある場所と言うことになると思われます。残念ながら現在では
確認することは難しいようです。

 以上から、伊奘諾尊の一行は一旦能古島に上陸し、眼前の小戸に渡り一応の根
拠を設け、そこを拠点に伊奘諾尊が何らかの活動を行った、と言うことは言えるので
はないかと思います。

伊奘諾尊の終焉の地
 次の問題は、小戸の南の飯盛山の麓に展開する吉武高木遺跡が伊奘諾尊を含む
一族の墓である可能性についてであります。私はここが北部九州(日本全国でも)に
おける最古の青銅武器の3点セットが出土したことから伊奘諾尊を含む一族の墓で
はないかと考えたのは前号の通りであります。

 この検討に際し、初めに、伊奘諾尊の終焉の地の文献的な裏付は、能古島と小戸
の関係ほどはスッキリとしない事をお断りしなければなりません。伊奘諾尊の禊によ
って天照大神、月読尊、素戔鳴尊の三神が生まれた後は特に説話がなく、伊奘諾尊
の終焉の様子を日本書紀では「是を以て、幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構
(つく)りて、寂然(しずか)に長く隠れましき。また曰く、伊奘諾尊、功既に至りぬ。徳
亦大なり。是に、天に登りまして報命したまふ。仍(よ)りて日の少宮(わかみや)に留
り宅(す)みましきといふ」とあり、古事記では「その伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐
(いま)すなり」とあり、先代旧事本紀では「是を以て、幽宮を淡路の洲に構りて、寂然
に長く隠れましき。また淡路の多賀に坐す」とあります。

 この段には一書は登場しませんが、三つの書を比べると微妙な差があります。そ
の差を踏まえながら検討してみることにしましょう。先ず現在有力とされている伊奘諾
尊の終焉の地の比定地から検討してみることにしましょう。名前が通っている比定地
としては日本書紀をベースとした兵庫県淡路島の伊奘諾神宮と、古事記をベースとし
た近江の多賀大社が双璧であります。この二つについて検討してみることにします。
勿論、史実として裏付が確認できるかと言う検討でありまして、宗教的な祭祀上のこ
ととは一切無関係な検討である事をお断りして置きます。

 まず、淡路島の伊奘諾神宮ですが、日本書紀に淡路の洲とあるところから、兵庫
県の淡路島には伊奘諾神宮があり、社伝によると、「上古伊邪那岐命、此処を根拠
地として国土御経営の神功を終えさせ給い、静かに御隠れ遊ばされた幽宮と、今に
伝わるのが即ち当社である(以下略)」とあり、また、応神、仁徳、履仲、允恭の歴代
天皇の幸行の事があったとされております。

 国生み神話は物理的に国を生んだと受け取れば誰にも相手にされませんが、自己
の勢力圏を主張したと考えれば納得できない話では無いように思います。伊奘諾尊・
伊奘冉尊の2神は?馭慮嶋に到着して国生みを行い、最初に生んだのが淡路洲と言
うのが記紀の主張であります。淡路島の伊奘諾神宮はこれが根拠となっているよう
です。が、淡路洲を現在の淡路島と考えた場合、博多湾岸に上陸して最初に瀬戸内
海の奥深くにある淡路島を生んだ(勢力圏として主張した)というのは如何にも腑に
落ちにくいのではないでしょうか。現在では淡路といえば淡路島と決ったようなもので
すが、当時から「淡路の洲」が現在の淡路島を指していたのかどうかは必ずしもはっ
きりしません。

 この点はいずれにしても根拠を持って追求することは難しいのでしばらく置くとしま
して、本号で述べましたように、?馭慮嶋を能古島と考えた場合、小戸に上陸して小戸
を基点として何らかの活動を行ったというのは現地の状況から納得し易いと思われ
ますが、いきなり淡路島まで飛んでしまうのはどうにもスッキリしないように思われま
す。青銅武器の出土と言う点で見ますと、淡路島の西淡町古津路から最古形から少
し遅れた中細形銅剣が13本纏って出土している事は注目に値します。また、2〜3年
前に南淡路からは大阪湾形銅戈(この形の中では最終形式)の断片が2〜3本分出
土しております。

 これらのことから弥生中期の比較的早い段階に、朝鮮半島から直接か北部九州を
経由してかは分りませんが、渡来の一波があったことは確かだと思われます。が、時
間的には初期の青銅武器3点セットのグループからは遅れると見られることから、こ
こを根拠地として国土経営を行ったというのは前後が逆転することになります。また
出土状況から、中細銅剣は副葬品としてではなく銅剣自体が埋納されたと見られる
こと、南淡路の大阪湾形銅戈は祭祀の後で破断されて捨てられたようにも見られる
こと、などから青銅武器を伊奘諾尊の終焉の地の根拠とするのは無理があるように
思います。すると強いて根拠を探せば、日本書紀の「淡路の洲」は、淡路島に違いな
かろう、という希望的読み方だけが残ることになり、根拠としては今ひとつと思われる
のですが、いかがなものでしょうか。

 次ぎは近江の多賀大社です。社伝によりますと「本社は古事記に伊邪那岐大神は
淡海(あふみ)の多賀に坐すなりと見え、延喜の制小社に列せられた。(以下略)」と
あります。このことから、古事記を根拠として「淡海の多賀」は近江の多賀であるとの
判断の下に伊邪那岐命が祭られている事が明らかです。宗教的な祭りについては当
マガジンとして申し上げることはありませんが、古代史の探求には一歩進めた(可能
な限りの)厳密さが求められると思います。記紀の史的根拠を探しているのに、近江
の多賀の場合、古事記が根拠とされていると言う点から見ても(普通に考えれば古
事記成立後の創建となる)、検討対象からは外さざるを得ないようです。

淡海(あふみ)
 そこで「淡海(あふみ)」を少し掘り下げてみたいと思います。これが現在の理解で
近江即ち淡水の琵琶湖としてよいのかと言う点について、福永晋三氏は万葉集の中
に「淡海」は海と繋がって海水が出入りする所でないと意味が通じない歌を見出され
ております。即ち、万葉集第153番歌の「いさな取り 淡海の海を 沖放(さ)けて こ
ぎ来る船 邊附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ
 若草の つまの おもふ鳥立つ」であります。ここで「いさな」とは鯨魚と書いて今で
言う鯨のことであります。万葉の昔から我が国では鯨取りが盛んであったことが窺わ
れると共に、その鯨が「淡海」の沖に泳いでくることがあった事を示しております。琵
琶湖では鯨が入ってくることはあり得ませんから、「淡海」を近江(の琵琶湖)に直結
する事はこの点から見ても無理だと思われます。

 では他に「淡海」といえる場所があるのかと言うことになりますが、古代の地形を推
定すると、可能性がある場所がいくつか見つかります。第一の候補地は北部九州で
も東よりの遠賀川一帯です。福永氏などの探求の結果、古代の遠賀川は現在よりも
はるかに水量が豊で、流域がかなり広く遠賀湾と言っても良いくらいに海が深く内陸
部に入り込んでいたと最近考えられるようになりました。遠賀川の両岸は現在では、
若干の高地を除いて、ほぼ平坦な平野が広がっておりますが、その大部分は標高
10m以下で、戦後しばらくしてからでも台風で大雨が降ると一帯は水浸しで海のよう
だったと言う証言や記録に不自由はない土地柄です。古代の広い遠賀川流域の現
在では平野となっている一帯を、古遠賀湾と仮称されるようになっております。

 古遠賀湾の中心部であったと思われる直方市に多賀神社があり、祭神は伊邪那
岐大神、伊邪那大神で、御由緒には「寿命の神多賀大神は天照大神のご両親にて
御社は古く日の若宮と称す(以下略)」とあります。日本書紀本文と字は少し違います
が、同じ「日の若宮」と言う言葉が出てくることから見ても、ここは有力な伊奘諾尊の
終焉の地の候補地と考えられます。只、最大の難点は付近一帯から最古形の青銅
武器の出土に乏しいことであります。少し時代が下がる中細形や中広形の青銅武器
は何点か出土しているのですが、細形のものとしては少し山側の嘉穂町から細形銅
戈が出土しているのが挙げられるくらいです。伝承面からは有力なのですが物的な
面では一歩を譲ると言うところではないかと考えられます。

 「淡海」の今ひとつの候補地は博多湾岸です。福岡の平野部(福岡平野、早良平
野、糸島平野)は東、西、南の三方を山に囲まれており、その山々を水源とする幾筋
もの川が湾内に流れ込んでおります。また、北側は湾の北東部に当たる和白付近か
ら志賀島に向かって砂州が湾を取囲みながら外側の玄界灘から湾内を守るように延
びており、湾の入口には玄海島、志賀島が、湾の中ほどには能古島があるという変
化に富んだ地形をしております。これらの要素が絡み合って湾内の複雑な水流を生
み出し、それが地形の変化に微妙な影響を与えている事は中山平次郎博士や、専
門の地質研究家によって明らかにされております。

 湾内は深いところでも水深10m程度と比較的浅いため、近年大型船が停泊できる
よう港を掘り下げる工事が行われましたが、その時に分った事は底を少し掘ると真
水が出てくると言う現象でした。これは川の伏流水が海底にまで達している事を示し
ていると考えられます。湾の入口が狭い上に複雑な形をしているので、湾の内外で
海水の入れ替わりが行われ難いところに、平野部から流れ込む水、更には底からの
伏流水の影響もあり湾内は外洋に比べると塩分が少なめで、汽水域に近い状態とな
っております。そのことはマリンワールド(水族館)の話によれば、今でも汽水域を好
む鯔(ぼら)が湾内を飛び跳ねる姿が見られたり、同じく汽水域を好む鱸(すずき)が
湾内に少なくないところからも窺えます。

 以上から博多湾も淡海の候補であることが言えるのではないかと考えます。こちら
の難点は多賀と言う地名の名残が見つからないことです。伊奘諾尊の終焉の地の候
補地は近江や淡路島は別にして、古遠賀湾の多賀か博多湾岸のどちらかになると
思われますが、出土物や記紀の記載状況に良く合致する点から博多湾岸に分があ
ると言うのが私の検討の結果です。皆さんは地名や伝承に重点を置いた古遠賀湾
か、出土物や記紀の記載状況と矛盾がない博多湾岸か、どちらとお考えになります
でしょうか。

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参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
旧事本紀 大野七三 批評社
神社名鑑 神社本庁
古代の博多 中山平次郎 九州大学出版会
福岡平野の古環境と遺跡立地 小林茂他 九州大学出版会

その他
福永晋三 私信




第25号:伊奘諾尊



































































































































































































































































































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多賀神社御由緒
多賀神社御由緒
飯盛山(能古島から望む。手前は小戸海岸)
飯盛山(能古島から望む。手前は小戸海岸)
能古島(小戸海岸より)
能古島(小戸海岸より)
小戸海岸
小戸海岸
小戸大神宮、説明版
小戸大神宮、説明版
飯盛山から能古島を望む(右手前の突き出た所が小戸。後方は志賀島)
飯盛山から能古島を望む(右手前の突き出た所が小戸。後方は志賀島)