No26:伊奘冉尊と軻遇突智神

 前号では記紀の記述と出土した青銅武器から、国生み神話の時代に迫ってみまし
た。その中で、伊奘諾尊・伊奘冉尊の説話の舞台が博多湾岸であることが浮かび上
がってきたように思います。そのポイントは小戸の位置でありました。記紀が過去の
ある時期に起こった事に基づいて述べられているとすると、伊奘諾尊・伊奘冉尊の活
躍の時期は最初の青銅武器が埋葬(副葬)された頃と考えられます。最新の考古学
的な見方では、その時期はBC400年からBC350年の間と考えられるようです。そし
て、北部九州で(日本全体でも)最古の青銅武器の3点セット(銅剣・銅矛・銅戈)が
出土した遺跡は福岡市の西部に位置する吉武高木遺跡であります。以上のことか
ら、吉武高木遺跡が青銅武器を持った最初の渡来系と思われる伊奘諾尊に関連し
た遺跡である可能性が高いと推定いたしました。が、異なった伝承等もある事も前号
で述べた通りです。

十握剣
 上記推定は日本書紀の記述と出土遺跡の状況を結びつけることによって生れまし
た。このうち、出土遺跡の年代につきましては多少の変動の余地はあっても大筋で
大きく動くことは考え難いように思われます。これに対して日本書紀などの記述には
どの程度の信頼を置いたら良いのでしょうか。大家と言われる方々は「神代の記述
は事実ではない」などとして思い切り良く切り捨てられる方も少なくないのですが、何
故そのように断定されるのかという説明は見たことがありません。全てを額面どおり
に受取ることは難しくても、また、誇張や潤色、極端な場合は改竄などがあったとして
も、それらを吟味し適正な評価をしていくことに古代の解明がかかっていると申し上
げても過言ではないように考えております。そのような目で見ると、実は前号で示しま
した第6の一書の要約には、時間的な視点からは、大きな疑問があるのです。或は
お気づきになった方がおられるかもしれません。

 伊奘諾尊は、伊奘冉尊が軻遇突智神を生む時にその熱のため亡くなったので怒
り、軻遇突智神を斬る話が3つの一書に出てきます。第7の一書では剣を抜いて斬る
とあり、第8の一書ではただ斬るとあるのですが、第6の一書では十握剣(とつかのつ
るぎ)を抜きて斬るとあります(古事記、先代旧事本紀でも十握剣と記載)。この十握
剣がどのような剣であるのかが分かれば時代の解明に一歩近づくと思われます。

 ただ剣とあれば銅剣なのか鉄剣なのか判定は難しいと思われますが、ここで出てく
る十握剣というのは掌10個分の長さがある剣と考えられますから、当時の人の掌が
現在の人の掌より小さいと見ても1m程度の長さにはなると思われます。現在の眼か
ら見れば、長さ1m程度の剣はそれほど大きな剣とは思われないかもしれませんが、
当時としては大形の剣であります。このような大型の剣は、実用的な細形銅剣(一部
の中細形銅剣を含む)では日本列島内は勿論、半島にも出土例はありませんから、
記述が正しければ鉄剣であることは疑えないと思います。このような大形の鉄剣が出
現する時代は弥生中期後葉から弥生後期、即ち紀元直前ころ以降の時期であると
考えられております。

 もし日本書紀を初めとした古代の史書の記述が正しいとすれば、この段は大きな
矛盾を含んでいる事になってきます。つまり、考古学的に見た場合、最初に細形銅
剣が渡来した時期と大形鉄製武器が出現した時期では約300年の乖離があります。
とすれば、細形銅剣の時代に大形の鉄の剣(十握剣)を振り回すことはあり得ません
から、これは伊奘諾尊の渡来時期か、所持していた武器のどちらかに誇張か潤色が
あると考えざるを得ないと思われます。これをどのように考えればよいのでしょうか。

 一つの可能性として、鉄製の武器を持って渡来した、ということが考えられるかも知
れません。その場合、渡来の時期は弥生中期後葉から弥生後期ということになり、
北部九州では実用的な青銅武器の時代はほぼ終わり、鉄製武器がそれほど珍しく
ない時代になっております。そのような時代背景の中で、「天之瓊矛を指し下して探
(かきさぐ)り」と言う、ややのんびりしたとも見えるような記述に見られるやり方で威
力を伴った偵察を行い、戦闘らしいものが無いままに集団が移住することが出来ると
は考えにくいのではないでしょうか。

 また、もし渡来の時期が紀元前後の頃だとした場合、それ以前に青銅武器を持っ
た集団の渡来があったことになりますが、約300年に及ぶ青銅武器の時代や、その
集団と新に渡来した鉄製武器をもった集団との関わり方が史書から全く欠落してい
ることになります。或は欠落していても、それが事実なら仕方が無いではないか、と
思われるかもしれません。後に触れることになりますが、鉄製武器をもった集団の渡
来話は時代が下がると別の形で史書に出てきます。従って、最初の渡来集団(伊奘
諾尊の一団)は鉄製武器を持っていなかったと考えるのが自然なようで、第一の可
能性は少ないと思われます。

 いま一つの可能性は、本マガジンで推定しましたように、渡来時期が概ね細形青銅
武器の時代であるとする考え方です。その時代であれば、軻遇突智神を斬った武器
は細形銅剣である可能性が高いと思われます。それが史書では、どれをとっても(鉄
製の)十握剣となっております。これは、普通に考えれば、伝承の経過の中で、より
優れた武器である十握剣に変化したと言うことになるように思われます。その場合、
青銅武器の伝承から十握剣の伝承に変化したのは弥生後期以降のある時期という
ことになると思われます。或は、史書が編纂された時点では青銅武器の時代ははる
か昔のことになっており剣と言えば鉄製と考えられる時代になっていた、そのため史
書の編纂段階で潤色されたと言う可能性も検討しなければならないかもしれません。

 実は、今後次第に明らかになって来ますように、古代史書(特に日本書紀)には改
竄と言ってよいほどの書き換えがあったと考えなければ辻褄が合わない話が多く登
場します。ではありますが、意味もなく書き換えられていると考えるのも考え過ぎで、
書き換えるにはそれなりの筋道があった、つまり編纂時点での編纂者側の立場や主
張によっては書き換えられる場合があり得た、と考えるのが一番納得できるようで
す。

 この点は説明を始めますとそれだけでマガジン何号分にも相当しますので、ここで
はこの程度にとどめ、マガジンの経過と共に理解して頂くよりないのではないかと考
えております。言い方を変えますと、古代史書の書き換えを検討することが、ある意
味で、古代の解明に繋がるとも言えるように思われます。そのような眼で見ますと、
青銅武器を鉄製武器に書き換えたとしてもそれほど意味が(或は主張や立場が)変
ってくるようには思われず、編纂段階で潤色が行われたと考えるよりは、伝承の過程
で武器がより立派なものになったと考えるのがすんなりと理解できるように思われま
す。

 私の推定が大筋で間違っていないとすれば、日本書紀を初めとした古代の史書に
は、少なくとも伊奘諾尊が持つ武器に関しては、後の時代の潤色あるいは伝承の中
での誇張があることになります。これからはそのような潤色等があり得る事も考えな
がら、惑わされないように用心して探求を進めていくことにしたいと思います。次に考
えてみたいのは軻遇突智神であります。軻遇突智神を通常の煮炊きをする、或は土
器を焼いたりする火の神と考えられないことはないのですが、その場合は、はるか以
前の縄文初期には存在していたと思われますので、わざわざこの場面で生まれたと
主張するのは納得し難いようです。となると、この神は金属を加工(鋳造・鍛造等)す
ることができる強い火力の出現およびそれを司る神を意味すると思われます。つまり
金属製造技術の渡来を意味するのではないでしょうか。

軻遇突智神(火神)
 金属製造技術だとした場合、精錬や鋳造技術なのか鍛造(鍛冶)技術なのか、ま
た、青銅技術なのか鉄の技術なのかということが検討対象になってきます。どちらに
せよ大した違いはないのではないか、と思われる方もあるかもしれません。が、必要
とされる温度が全く違うのです。もし鉄の精錬ということであれば約1500度という高温
が必要とされるのに対し、銅の精錬であれば1000度より少し高い程度の温度で済み
ます。当時土器を作ることは出来たのですから、それと同程度の、銅の精錬に必要
な温度を得るのは比較的容易であったと考えられます。が、それよりも約500度高い
温度の獲得は簡単ではなかったと考えられ、このことは西欧では鉄の鋳造技術が完
成したのは12、3世紀と言われていることからも頷けると思います。

 通常、古代の鉄の利用は砂鉄などを直接鍛造して行う鍛冶(かじ)技術から始った
と考えられております。現在の中央アジアからトルコ付近で始ったとされる鉄の利用
技術は、中国に伝わると、それまでに蓄積されていた青銅技術と融合して独自の発
達をしたようです。即ち、中国では鉄の利用は鋳造から始ったようなのです。上で述
べましたように非常な高温を必要とする技術がどのようにして生れたのかよくは分り
ませんが、世界で最も早く鉄器を鋳造できる技術水準に達していた事は、「漢書」の
西域伝に「大宛(パミール高原の北側)より西、安息国(カスピ海周辺)に至る。鉄器
を鋳する事を知らず。遠征の漢兵が捕虜になるに及んで、兵器などの鋳造法を教え
た」とあることからも窺われます。

 鉄の利用はシルクロードを経由して中国に伝わりましたが、鉄の鋳造技術はシルク
ロードを逆に伝わったというわけです。その技術が西欧で完成を見るのが上述しまし
たように12、3世紀のことですから、当時の中国の鉄の鋳造技術の先進性が窺われ
ると思います。その技術が日本に伝わったのがいつ頃のことなのか、今の時点で
は、詳しくはわかっておりません。

 弥生中期になると各地から鋳造鉄斧の破片を再加工した斧・鑿(のみ)・ヤリガンナ
などが今まで80点ほど見つかっております。その元になった鋳造鉄斧の鋳型は見つ
かっていないことから列島内で作られた可能性は少ないようです。そのほかの事情も
加味して前々号で紹介しました「考古学はどう検証したか」の中では、「結局、鉄器は
弥生中期の初めに現れ、それは鋳造鉄斧またはその破片を『硬質・良好な石』素材
という感覚で、磨製石器を作るように研磨して製品化したに過ぎなかったのであろ
う。」と結論付けてあります。我が国で鉄滓(てつさい=鉄を溶かす時にできるかす)
などによって確実に鉄の精錬が確認される遺跡の出現は古墳時代も後半の6世紀ま
で待たねばなりません。

 以上の状況から、軻遇突智神の説話は鉄の鋳造(精錬)技術である可能性は低い
と思われます。残るのは青銅の鋳造技術、或は鉄の鍛冶技術のどちらかと言うこと
になりますが、古事記の校注では、この神様は鉄を鍛える神様だとして、この神が斬
られて次々に新しい神様が生まれる様子を、刀を鍛える時の様子を表したものだと
説明してあります。つまり、砂鉄から直接鉄の塊を作り、それを鍛えて刀を作るやり
方を表しているのではないかと言う訳です。臨場感もあり有力な解釈であると思われ
ます。その場合は刀と言ってもすぐに想像されるような大きな刀ではなく、ナイフのよ
うな刀子(とうす)と考えれば時代的にはかなり接近すると思われます。

 ではありますが、上の考え方に多少の難点があるとすれば、北部九州において鉄
の鍛冶遺跡が確認されるのは弥生中期中頃であることです。細形の青銅武器の出
現からは100―150年程度遅れると見られます。その点、青銅の鋳型は弥生中期初
頭の遺跡から出土しておりますので、時代的にはピッタリ合致します。私はそれでほ
ぼ間違いないと考えますが、それで伊奘冉尊が軻遇突智神を生んだ時にその熱に
よって亡くなる説話を旨く説明できるのか、という問題は残ります。これから先は大幅
に想像が入りますことをお断りした上で、私なりの一つの想定を述べておきたいと思
います。

軻遇突智と伊奘冉尊
 この段には11の一書がある事は既に述べました。それらの中で軻遇突智が登場す
るのは7つの一書です。登場の仕方や伊奘冉尊の亡くなり方は一書によって少しず
つ異なっております。軻遇突智は3つの一書において伊奘諾尊に斬られるのです
が、2つの一書には何故斬られるのかが書いてありません。また、5つの一書に伊奘
冉尊は軻遇突智を生んだ時の熱の為に亡くなるとあるのですが、4つの一書では単
に熱のために神去(かむさる=亡くなること)とありますので、様子がよく分りません。
が、第4の一書では亡くなる時の様子を、「軻遇突智を生む時に伊奘冉尊、悶熱(あ
つか)ひ懊悩(なや)み、吐(たぐり)す。」と記してあります。熱で苦しんで嘔吐したとい
うことです。

 この段、古事記では「この子を生みしによりて、みほと灸(や)かえて病み臥(こや)
せり。」と言う記述です。日本書紀の第4の一書とほぼ同様な記述です。先代旧事本
紀の記述はより具体的で、「この時、この子を生むことによりて美蕃登(みほと)灸れ
て、病み臥せ給う。且つ、神避まさん時、悶熱ひ懊悩む。因りて吐なし(以下略)」とあ
ります。軻遇突智を生む時の出来事により寝込み、嘔吐して亡くなったと云う訳で
す。これは単に焼け死んだと云うことではなく、大火傷をして苦しみ寝込んで亡くなっ
た事を示しているように受取ることが出来ます。他の一書などは憚ってそこまでの詳
しい様子は書かなかったのではないでしょうか。

 これらから次のように考えてみました。

 伊奘諾尊の一行には青銅の製作技術者もいたのではないかと考えてみました。恐
らく技術者は材料である銅や錫の鉱石も一緒に持ってきたのではないでしょうか。し
かし、精錬を行う設備(勿論当時としてのある種の炉です)は新たに作る必要があり
ます。それが出来て試作或は本格生産を行いだしてすぐに、何らかの事故が起きた
のではないでしょうか。うっかりして炉に水分が入り水蒸気爆発のようなものが起こっ
た可能性もあり得ます。それがもとで(大火傷をして)伊奘冉尊は亡くなります。鉄の
鍛冶で事故が起こり死に至るような火傷をする可能性と、青銅の溶解作業の中で起
こる事故での火傷の可能性とを考えた場合、青銅の溶解作業の方がはるかに大き
な事故になる可能性が高いと思われ、このことも軻遇突智は青銅技術であった可能
性を示しているように思われます。伊奘諾尊は怒って技術者を斬り、伊奘冉尊の殯
(もがり=古代の葬送儀礼)を内陸部で行ったと思われます。

 伊奘諾尊一行の最初の根拠地は小戸付近であったと考えられますが、そこで事故
のため伊奘冉尊が亡くなったとすると、埋葬する場所としてすぐ目に付くのは形が整
った飯盛山であります。恐らく飯盛山の麓付近に埋葬されたのではないでしょうか。
そこは現地の先住者にとっても聖地であった可能性が高いのではないかと考えまし
た。伊奘諾尊一行が小戸付近でうろうろしているのを、興味半分、恐れ半分で見てい
た先住者は、伊奘冉尊を埋葬するに及んで、自分たちの聖地を汚したとして伊奘諾
尊を追いかけた、というのが黄泉の国や泉津醜女の説話だったのではないでしょう
か。

 以上が私の想定ですが、吉武高木遺跡を西側から見下ろすように位置する飯盛神
社の由来を改めて読んでみて少々驚きました。その部分を抜き出しますと「当社は畏
(かしこ)くも国土万物を生成し万(よろず)の事を始給いし伊邪那美命を斎き奉る。
太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨の砌(みぎり)、天之太玉命この日向
峠、飯盛山を斎き定めて伊邪那美命外2柱を祀り国土開発"むすび"を祈らせ給う」
とあります。つまり、飯盛山を御神体とする飯盛神社は伊奘冉尊が祀られている神
社であり、祭られた時点は(国生みから少し時代が下がると思われる)天孫降臨の時
代である、と書かれているのです。

神社の由来
 我が国には多くの神社があり、夫々の神社には夫々の由来があります。それらの
由来は通常、由緒書あるいは由来書という形で伝えられております。神社の由来は
本来その神社に伝わる古伝承等をそのままの形で伝えるものなので、古代の一側
面を現在に伝える、いわばタイムカプセルのような性格を持っているものですが、注
意しなければならないのは、長年の変遷の中で祭神が変っていたり、由来が不確か
になっていたりする例が少なくないため、現在伝わっている由来をそのまま事実(史
実)として受取ってよいとは限らないという事です。神社の由来については注意深い
吟味を必要としますが、吟味をクリアーできた場合は古代の一断面として受取る事が
出来るのではないかと思います。

 神社本庁に所属する神社は全国で約8万社と云われております。それらの神社は
古くから色々な形で格付けがなされております。以前には官幣社とか国幣社などとい
う格付けがありました。また、平安時代中期の延喜年間の詔勅によって選定され、延
喜式神名帳に記載のある神社は式内社と呼ばれております。古代の探求において
重要と思われるのは、通常のそのような格付けとは別に、独自の由来を伝えている
神社ではないかと考えております。

 中には由来がはっきりしない神社も少なくありませんし、また、他の神社から、分祀
や、勧請によって創建されたことが明らかにされている神社も相当数見られます。む
しろ大部分の神社は分祀や、勧請によって創建されたと云う方が実態に近いかも知
れません。そのような中で、分祀や勧請ではなく、独自の由来を持った神社には古代
の一つの史実の断面を伝える大きな手掛りが隠されている可能性があると思われま
す。その手掛りは、独自の由来の中でその根拠がどこに置かれているかと云うことに
よって、大きくも小さくもなるように考えております。

 前号で見ましたように、独自の由来の根拠が古代の史書である日本書紀や古事記
に置かれている神社も少なくありません。この場合、二通りの可能性を検討しなけれ
ばならないように思われます。一つはそれが古代の一定の史実を伝えている可能性
であり、今ひとつは日本書紀や古事記に合わせて伝承が作られた(改編された)可
能性であります。ご存知のように日本書紀は養老4年(720)に成立し、その後日本の
正史として全国各地で講釈や学習が行われ定着して行った経緯があります。歴史を
正史と云う形で編纂する場合、編纂者(権力者)の立場や主張によって改編が行わ
れる可能性は否定できないと思われます。さらにそれを講釈し学習すると云うことに
なると、それらの過程の中で正史に合わせる形で伝承が変化する場合もあり得るか
も知れません。このように考えますと、由来の根拠が記紀に置かれているものについ
ては、額面どおりに受取る事が出来ない場合がある事を考慮に入れておく必要があ
ると思われます。

 他方、記紀には記述されていない、より詳細な伝承を伝えている神社の由来や、記
紀とは異なった形の伝承を伝えている神社の由来については、記紀には何らかの事
情で採り上げられなかった、史実を伝えている可能性を検討してみる価値があると
思われます。何故ならば、記紀成立以降に敢えて(正史である)記紀とは異なる話を
創ることは考えにくく、記紀成立以前の伝承の可能性を含んでいると考えられるこ
と、また、その神社にとってはそのような事実があったと確信されてきたからこそ、長
い時間を経ても残ってきたと考えられるからであります。

 もし国生みの時代が私の推定から大きくは外れていないとした場合、国生みの時
代から日本書紀の成立までに1000年以上が経過している事になります。これは考え
ようによっては長い時間であり、細かな点については不確かになる可能性が大きいと
思われますが、根幹部分については簡単に忘れ去られるほどの時間だとも考え難い
ようです。現代のように刺激が多く1年前の事でも忘れられることが多い時代とは異
なり、刺激が少ない時代です。変化が緩慢な時代と言ってもよいかもしれません。そ
のような時代に神社が作られるほどの(今の神社とは異なり簡単な社殿、或は社殿
がない場合も含めて)、その地域にとっては大きな出来事が、簡単に忘れ去られてい
たとも考え難いのではないでしょうか。いずれにせよ、総合的に納得できるかどうかと
云うことが判断の分かれ目になると思われます。

 そのように考えた場合、飯盛神社の由来には、記紀には記載がない伊奘冉尊の祭
祀についての伝承が含まれている事から見て、容易に捨て去ることが出来ない古代
の一断面が含まれているように思われるのです。

 私は当初、最初の実用的な青銅武器の遺跡である吉武高木遺跡と古代史書に最
初に登場する天之瓊矛とは結びつくのではないかと考え、この遺跡を伊奘諾尊に関
連した遺跡ではないかと推定して探求を始めたのですが、その中心を伊奘諾尊に置
き過ぎていたために、最初飯盛神社を尋ね由来書を頂き、読んだときに祭神が伊奘
諾尊でないことで、伊奘諾尊に関連があると思いつつも余り強く印象に残らなかった
ようです。今回、軻遇突智を考える中で改めて由来書を読み、祭神が伊奘冉尊であ
る理由がはっきりと分ったように思います。祭神が伊奘諾尊ではなく、伊奘冉尊であ
ることには大きな意味が隠れていたのです。大いに勉強になりました、と同時に、危
うく見過ごしていたかも知れないと思い、体が熱くなったように感じました。古代の探
求には一寸の緩みも許されない事を改めて感じております。

 此の由来には続きが有りまして、「尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢門、若杉山鎮座の
太祖神社の縁起に曰く、『神功皇后、三韓を平伏し当社に報賽(ほうさい)の御祭祀
を営ませ、且つ神殿を西に向け造営あらせられたり、その所を尋ぬるに早良郡飯盛
山に鎮座せらるる伊邪那美命の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁有り』
と、太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向かいあえる縁(えにし)
なり。」となっております。つまり、大きな意味での福岡平野の西側にある飯盛山に伊
奘冉尊を祀る社殿が東向きに建てられている事を知られた神功皇后は、三韓平定
後、東側にある若杉山に伊奘諾尊の社殿を(西の飯盛山にある)伊奘冉尊の社殿に
相対するように建てられた、と云うことになります。地図でご確認頂けばすぐに分りま
すが、若杉山と飯盛山はほぼ東西の一直線状に位置しております。この由来からは
伊奘諾尊が埋葬された場所までは分りませんが、二つの神社が伊奘諾尊と伊奘冉
尊とに関連した神社であることは疑いにくいように思われます。

 念のため此処で表記の仕方についてお断りしておきます。本文の表記は断らない
限り日本書紀に合わせ、引用文は原文の表記の通りに行うことにしたいと思います。
そのため、伊奘冉尊と伊邪那美命のように同じ人でありながら異なった表記が出てく
る場合がありますが、ご理解をお願いします。

 神功皇后につきましては述べなければならないことが沢山あるのですが、時代が
ずっと下がりますので、その時に改めて検討することにしたいと思います。少なくと
も、広い意味での福岡平野の西と東に一直線状に離れた異なる神社で、伊奘諾尊と
伊奘冉尊が夫々祀られており、それを繋ぐ伝承が僅かながらも残っていることはご
理解頂けましたでしょうか。考古学的出土物、古代史書の記述に現れる説話の内容
や地理的関係、また神社等の伝承が矛盾なく繋がって来たように思われます。日本
で最古の青銅武器が出土した遺跡と、日本の史書に最初に出てくる天之瓊矛を擁し
た集団とは結びつくのではないかという処から出発した探求は、当初の予想をはる
かに超える実際的な姿となって私たちの眼前に現れてきたように、思われるのです。
皆さんにはどのように受取って頂けましたでしょうか。

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参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
旧事本紀 大野七三 批評社
鉄の文化史 新日本製鐵(株)広報企画室 東洋経済新報社
考古学はどう検証したか 春成秀爾 学生社
最古の王墓 常松幹雄 新泉社
神社名鑑 神社本庁




第26号:伊奘冉尊と軻遇突智神



































































































































































































































































































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