No29:国生み神話(2)
原大八洲
前号で各史書の比較及び地理的な状況から初期の勢力圏(原大八洲)と見られる
場所を推定してみました。朝鮮半島から青銅武器を携えて移動(侵入)して来た集団
によって記された一歩が現在に続く歴史の始まりとした場合、比較的抵抗なく受け入
れられる地名ではないかと思います。念のため再掲しますと、大日本豊秋津洲、伊
豫二名洲、筑紫洲、隠岐洲、佐渡洲、淡路洲、対馬洲、壹岐洲の8洲であります。こ
れらの地名を一見して気がつくことは大日本豊秋津洲の他は明らかに島を指してい
るということであります。海人集団の力も得てやってきたと思われる一団が勢力圏と
して島の名を挙げるのは理解できます。が、一つだけ明らかに他と違った書き方にな
っており、見方によっては説話の中心地とも見られる大日本豊秋津洲とはどこを指し
ているのでしょうか。
大日本豊秋津洲
大日本豊秋津洲(古事記では大倭豐秋津嶋)は通説でも考えが分かれております
ので一応ご紹介しますと、岩波文庫版の坂本太郎他校注の日本書紀の補注では、
ヤマトの最も古い記録は魏志倭人伝の「耶馬台(ヤマト)」であるとした上、近畿説と
筑後山門の二説がある事を紹介し、音韻上の見地も示しながら結論としては、「大日
本(オホヤマト)は本州の称」としてあります。これに対して同じく岩波文庫版の倉野
憲司校注の古事記の注では、「大倭豐秋津嶋は大和を中心とした畿内の地域の名。
本州の呼び名ではない」と明確に畿内と比定した上で本州説を否定してあります。大
日本豊秋津洲(大倭豐秋津嶋)といういわば国生みの根幹とも見える部分で校注者
によって説明が異なっている事は、裏返せばそれだけ理解が難しい事を示している
ように思います。両説ともその根拠が今ひとつ不明確なためこれ以上のことは判りま
せんが、後世の知識に邪魔をされずに自然体で見れば、少なくとも字面を見る限りで
は本州にせよ畿内にせよ、すんなりとは理解し難いように思います。
畿内説の検討
先ず、畿内説は容易に成り立たないことから説明したいと思います。伊弉諾・伊弉
冊両尊の説話と考古学的出土物の対応から、説話の舞台を福岡市西部と推定いた
しましたが、その契機となったのは青銅武器である銅矛でした。今一度、青銅武器の
全国出土表をご覧下さい。銅剣、銅矛、銅戈は全国で1500本弱が出土しています
が、そのうち半分以上が九州からの出土で、近畿地方からの出土は40本程度(全国
の3%弱)です。出土数で見れば、青銅武器に関しては中心地は北部九州であり、近
畿は辺境ということになると思います。
畿内の中心とされる奈良県からは、完品に近いものとしては、国生み神話の時代
からは下がると見られる中広形銅戈が1本、それも出土根拠に疑問があるもの、今
ひとつは大幅に時代が下がる古墳時代の横穴式石室から半島系とは様相を異にし
た銅矛が1本、合わせて2本が出土しているだけで、他に唐古・鍵遺跡から銅矛の破
片が1個出土していますが、北部九州と同系統の初期形式の細形銅剣や細形銅矛
の出土はゼロであります。唐古・鍵遺跡からは鋳造関連遺物や銅戈を描いた土器、
また、銅矛を模した石製品なども出土しておりますが、銅矛の実物が容易に手に入
る状況であれば、わざわざ形を模した石製品を作らなくても良いと思われますので、
実用としてよりは何らかの祭祀に使われたものと考えられます。
考古学的に見ますと大和盆地は、鉄製武器の副葬品などが大量に出土するのは
古墳時代になってからで、弥生時代につきましては土器と、青銅器としては銅鐸以外
にはめぼしい出土品は殆どない場所なのです。説話と言うものは聞いた人が分らな
いと意味が無いわけで、日頃は海の見えない内陸部にあり、また、人々にとっては銅
矛など見た事もない時代に、「矛の鋒より滴瀝(しだた)る潮、凝りて一つの嶋に成れ
り」という、海を舞台とし矛を道具とした説話が出来、伝承されていくとは考え難いの
ではないでしょうか。
畿内説の中心地である大和盆地は海から遠く青銅武器の出土も極めて少ないこと
から説話の中心地とするのは無理と思われますので、近畿全体に範囲を広げてみま
すと、注目される遺跡がありました。淀川中流の茨木市にある東奈良遺跡です。ここ
は弥生時代の一大工房だったと思われ、銅鐸、(ガラス製)勾玉や銅戈などの鋳型
類が多数出土しております。銅鐸の鋳型は35点も見つかっており、多くの粘土製の
鞴(ふいご)も発見されていることから青銅の精錬工房があったことは間違いありま
せん。ここで作られたと思われる、銅鐸は和歌山や兵庫、四国などから出土してお
り、かなり広い範囲との交流があったことを示しております。
銅戈の鋳型破片は2個分出土しております。これは大阪湾型という独特の形式の
銅戈であり、日本列島では兵庫、大阪、和歌山の沿岸部または河川敷からしか出土
していないタイプのものです。数年前にこの形式の銅戈が淡路から新規に2-3本出
土したと報告されており、今年になって長野県からも出土したとの報道がありました。
朝鮮半島にはこの銅戈と良く似た形式や模様の銅戈の出土例がありますが、北部
九州やほかの地方からは出土していないことから、半島から北部九州に進出してき
た集団とは別の集団によって、持ち込まれ製作されるようになった物である可能性は
大きいと言えると思います。北部九州の初期青銅武器から少し時代が下るとは言
え、かなり早い段階で近畿地方に青銅武器が到達し生産が行われるようになってい
たことは注目に値すると思われます。
ではここが説話の中心地と思われる大日本豊秋津洲の候補地であるのかといえ
ば、残念ながら否定せざるを得ないと思います。まず、国生み神話の対象となってい
るのは大日本豊秋津洲、伊豫二名洲、筑紫洲、隠岐洲、佐渡洲、淡路洲、対馬洲、
壹岐洲の8洲ですが、そのうち現在検討中の大日本豊秋津洲を除いた7洲のうち、
佐渡洲以外の全ての洲から北部九州の系譜と見られる青銅武器が出土しています
が、大阪湾型銅戈はどの洲からも出土していません。東奈良遺跡の出土物の広がり
(影響範囲)もかなり広範囲に及んでいるのですが、国生み神話が対象とする地域と
は全く重なっていないのです。
次に、東奈良遺跡で、ほぼ同時代と見られる層から出土した武器は各種石鏃・石
剣・石刀・石槍などであり、青銅武器が実用武器として使われていたのかという点に
は疑問符がつきます。更には、北部九州の青銅武器も時代が下がると埋納と見られ
るものも見られますが、初期青銅武器は甕棺などから出土しており、被埋葬者が生
前武器として使用していたものと考えられるのに対し、大阪湾型銅戈は兵庫(8本)と
和歌山(6本)の出土は埋納と見られる状況で纏めて出土しており。大阪(2本)の出
土は河川敷からというように出土状況の違いがあります。兵庫や和歌山の出土状況
から、銅戈は何らかの祭祀に使われたことが想像され、銅鐸と同じような扱いをされ
ていたのではないかと思わせるものであります。
以上のように、@分布の範囲が説話と重ならない、A北部九州よりは時代が下が
る、B埋納と見られる銅戈の出土状況、C武器としては石器が主体であったと考えら
れ銅戈は武器としては使われていなかった可能性がある、という状況から見て東奈
良遺跡は弥生時代の一大生産拠点であることは疑いありませんが、国生み神話の
中心と考えるのは難しいのではないでしょうか。
以上のように、畿内から出土した青銅武器は数量的にも内容的にも説話の中心と
見るのには無理があると言わざるを得ないと思います。近畿説が生れた背景は、古
事記に書いてある大倭豐秋津嶋は(狭い意味での)大和に違いない、と言う一種の
思い込みというのが実態に近いのではないかと思われます。日本の歴史や文化は
独自に発生したと思いたい気持ち(主観)は分らないではありませんが、主観があっ
て歴史が出来るのではなく歴史の中から主観も生まれてくる、と言う関係を忘れては
いけないと思います。
本州説の検討
大日本豊秋津洲(古事記では大倭豐秋津嶋)が畿内を指すことが無理であれば、
当然本州島を指すのではないか、と思われるかもしれませんが、これまた一筋縄で
はいかないのです。坂本太郎他校注の日本書紀の補注では大日本豊秋津洲につい
て、大日本に注目し、「オホヤマトは本州の称」と説明してあります。が、実際問題とし
て大日本の読みとして「オホヤマト」が成り立つのでしょうか。また、本州を「オホヤマ
ト」と言った例はあるのでしょうか。大日本というのは一種の美称とも考えられるの
で、特定力を持つのは豊秋津洲の方だと思われますが、「ヤマト」に拘りながら音韻
上から(狭義の)大和を否定して本州とするのは、本州とする積極的な根拠が示され
ない以上、より以上に分り難いように思われます。
因みに、豊秋津洲を国語辞典で調べてみますと日本国の古称と説明されておりま
す。ある時期からは、日本の事を大日本豊秋津洲(略して豊秋津洲)と呼ばれるよう
になっていったようです。ではありますが、国生み神話の時点で豊秋津洲を日本全体
と捉えると、大八洲の中で豊秋津洲以外の島々は二重に勢力圏に含まれることにな
り、わざわざ別に主張する意味は無いように思われます。ということで日本書紀の校
注者は困ったのではないでしょうか。苦心の結果大日本に注目し、「オホヤマトは本
州の称」と言う説明が生れたのではないかと推測されないでもありません。
日本と言う呼び方がいつ頃から定着するようになったのか詳しいことは分っており
ませんが、卑弥呼の時代は「倭」と呼ばれていたことはご承知の通りです。唐の時代
の直後に書かれた旧唐書の日本伝には「日本国は倭国の別種なり。其の国、日辺
に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或は云う、倭国自らその名の雅ならざ
るを悪(にく)み、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併す、
と。」という記述があります。日本国は倭国とは別の国で日の出るところに近いので
日本と言った、或いは、小国であった日本が倭国を併せた、或いは、倭国自身が日
本と名前を変えたという三つの異なった由来がある事を伝えております。(この文に
ついては改めて後に検討します)隋書やそれ以前に書かれた中国の史書ではいず
れも倭国(隋書では?国)となっておりますので、中国では唐の初め頃に日本と言う国
名が認識された、と言うことは言えると思います。
列島の中で日本と言う名称はいつ頃まで遡る事ができるのでしょうか。単に倭人と
言われた時代を含めて、列島の王権が倭国と言う名称を永く使っていた事は、南北
朝時代の南朝の宋(420-479)の事を記録した宋書の中で、列島側の王権(通常、倭
の五王と言われる)から宋の皇帝に対して送った国書などの記録があり、その中で
自身が「倭国王」と称していることからも明らかです。少なくとも日本と言う名称が5世
紀以前に遡ることは考え難いと思います。普通に考えれば、5世紀から旧唐書の時
代の間ということになるのではないでしょうか。まして旧唐書の時代から千年以上前
の国生み神話の時代に日本という名称があったとはとても考えられません。
と考えてくると、大日本という呼び方は、国生みの時代から、はるか後の時代になっ
て付け加えられた事が容易に想定できると思われます。腰ダメ的に言えば、書紀編
纂からそれほど遠くない頃と考えてよいのではないでしょうか。大日本豊秋津洲とは
如何にも、中心地はここだ、という大仰な呼び方ですが、後の時代に付けられたと見
られる飾りを取り払って見ますと、豊秋津洲ということになります。日本書紀の校注者
が大日本と言う文字に着目して「オホヤマトは本州の称」と説明するのは時間的な関
係からは全く成立しない事になると思います。
では豊秋津洲とは一体どこなのでしょうか。日本書紀の校注者の説明は成り立た
ないとしても、どうも本州以外には該当しそうな場所はないのではないか、という消去
法的な考えが浮かぶかもしれませんが、果たして如何でしょうか。
日本書紀においては大八洲を生んだ後は、「次に海を生む。次に川を生む。次に山
を生む」となっております。この段は古事記及び旧事本紀には記述がありませんが、
生んだ順序に注目して頂きたいと思います。陸上の民であれば普通は、山→川→海
という順序になるのではないでしょうか。それが逆に海→川→山という順序になって
いることは、先ず島を確保し、海から川に入り、次いで川を遡り山まで達するという、
海の勢力が次第に勢力範囲を広げていく様子が神話的に表現されたものと見る事
が出来ると思います。この神話が作られた場所は内陸部で海が見えない大和を中心
として作られたものではないことを暗黙裡に示しているようにも思えます。比較的小さ
な拠点をいくつか確保し、次第にその範囲を拡げていった様子が現れていると捉え
ることもできます。
そのように理解すると、豊秋津洲を本州とした場合、この段階でいきなり本州全体
という大きな範囲が視野に入ってくると言うのは、説話の筋道と言う点から、また、他
の洲とのバランスという点からも違和感を禁じ得ないのです。更には、当時本州が島
として認識されていたか、という点も不明確なのです。ご承知のように続日本紀の時
代(8世紀)になりますと東国の蝦夷が叛いたので征夷将軍を任命して討伐に当らせ
るという記事が見られるようになります。この頃から統一王権の目が東方に向くよう
になり、蝦夷と言われた先住者を東へ北へ追い詰めて同化させていくようになるので
すが、その頃でも本州に北端があると認識されていたかどうか、即ち本州が島である
と認識されていたのかどうか明確ではありません。まして国生みの時代に、本州を島
と認識して大八洲の一つに加えたと、確信を持って言うことは難しいのであります。
何となく判っていたような気になっていた豊秋津洲は、具体的にどこを指すのかと
詰めていきますと陽炎のように遠ざかっていくのであります。歴代の学説も主観的に
はともかく、冷静に根拠を示しての説明が出来ていないのは以上のような難しさから
だと思われます。
豊の可能性
大日本豊秋津洲を畿内と見ても本州としても、すんなりとした説明が難しいとなれ
ば、他に可能性がある場所があるのか、という問いが発せられると思います。ここで
は大日本を後の時代に付けられた美称と見て、豊秋津洲を探してみる事にしましょ
う。分解すれば豊の秋津洲になります。古語辞典(金田一京助監修)によりますと、
秋津は蜻蛉(トンボ)の古名とし、神武天皇の国見の言葉から起こった日本国の称と
なっております。これは神武天皇紀の31年条に天皇が巡幸して腋上(わきがみ)の?
間(ほほまの)丘に登られて国を見渡して、素晴らしい国を得たことだ、と言われたと
書かれていることを指しております。その時の形容として「蜻蛉之臀?焉(あきづのとな
めのごとくあるかな)」と表現されたとあります。後に濁音が清音になり「あきつ」と言
われるようになったようです。
蜻蛉の臀?(となめ)とはトンボが交尾する時に二匹が丸く繋がる様子を表現したも
のとされます。高みに上がって国を見渡し平野を山々が囲んだ様子を表現したとされ
ており、古代人の表現力の豊かさに感心させられます。ではありますが、このような
風景は日本国中いたる所に有ると言っても過言では無いと思われ、特定力と言う点
では決め手に欠けると言わざるを得ないと思われます。とすれば、大日本豊秋津洲
を探すに当ってのキーワードは「豊(とよ)」となります。豊という地名で先ず浮かぶの
は福岡県の東南部から大分県北部にかけての一帯で、後に豊前や豊後と呼ばれた
地域の総称です。
豊が豊前・豊後の地であるとした場合、大日本豊秋津洲といういわば国生みの中
心地とも見える場所としての歴史的な裏付があるのか、と言う疑問が生じるかもしれ
ません。現在では左程注目を集める場所でもないため、歴史的に何かあったのか
と、すぐには思い出せないかもしれませんが、古代史における大規模な戦乱として名
高い、所謂磐井の乱において舞台の一つとなったのが豊であります。磐井の乱につ
いての日本書紀の記述には不審な点が多く、そのまま事実として受け止めることは
困難なのですが、ご存じない方のために簡単に磐井の乱を説明しますと、継体天皇
21年(522)から22年にかけて惹起した、古代における列島を二分した大戦乱であり
ます。
日本書紀によれば、所謂大和朝廷(大和朝廷という言い方には問題もあるのです
が、一般に馴染んでおり、代わる適当な表現の仕方が見当たらないため当分はこの
表現を使います)が新羅攻略に明け暮れていた頃、磐井は新羅と結び所謂大和朝
廷に従わず、高麗、百済、新羅、任那などから来る朝貢船を(自分が列島の王者だ
と)騙して貢物を横取りしていたので、将軍物部麁鹿火(あらかひ)を派遣して磐井を
滅ぼしたとされるものです。
磐井は火(肥)・豊二国を根拠としていたと記述されております。後に肥前・肥後、豊
前・豊後に分かれた地域であります。大まかに言えば北部九州は筑、肥、豊の三国
ですから、その内の二国を根拠としていたというのは、日本書紀の記述に従ってもか
なりの勢力であったことになります。筑、肥、豊の三国は時代によって勢力に消長が
あったようで、国境も動いていたことは記録などから窺われます。乱の勃発当時、現
在の筑後(当時は肥国の一部であったようです)にいた磐井は形勢に利なく、追われ
て豊の方向を目指して逃げていく途中で敗死したようです。磐井の乱につきましては
後に詳しく触れることになりますので、ここではこの程度に止めておきますが、日本書
紀の記述に従ったとしても、当時所謂大和朝廷に対抗するだけの大勢力であり、豊
がその根拠地の一部であったことが窺えると思います。また、豊の地には古代の廃
寺址等も多く一時期栄えた場所であることは疑い難いのですが、通説の側からは顧
みられることの少ない地域でもあります。
簡単に触れましたが日本書紀の記述通りとした場合でも、6世紀当時、火(肥)、豊
を根拠とした磐井の勢力は高麗、百済、新羅、任那などから見て列島を代表する勢
力と見られていたからこそ、朝貢の船が入港していたことになると思われます。日本
書紀の言い方ではそれが、騙されていた、ということになっている訳です。その当否
については後に譲りますが、少なくとも6世紀当時それだけの勢力があったということ
になると、その勢力にとりましては豊を拠点とした説話が作られることはそれほど不
思議ではないと思います。
豊の問題点
以上のように見てくると大日本豊秋津洲は修飾を取り払ってみると、豊の地を指し
ている可能性が大きく浮上してきたと言えると思います。ではありますが、いくつかの
疑問も生じてきます。まず、豊が歴史の舞台に登場してくるのはかなり時代が下がっ
てからであり、国生み神話の時代にはそれほど目立った存在ではないということで
す。豊秋津洲は神武天皇の国見の時代に登場した言葉であることは言えますが、そ
れが国生みの時代まで遡ると見るのは難しいのではないでしょうか。
国生みの時代を特徴付ける青銅武器を見ますと福岡県から400本以上の出土があ
りますが、その内半分以上の約250本が西部の筑紫地域から出土しており、次いで
筑後地域から85本程度、筑豊をあわせた豊の地域から70本弱という状況です。豊か
らの出土の内、少し時代が下がる祭祀用と見られる中細形の銅矛と銅戈が合わせ
て37本と半数以上を占めております。因みに、細形銅剣に限って見ますと筑紫40本
に対して、筑後3本、豊6本の出土となっております。豊地域からの出土もけして少な
い数ではありませんが、内容的に見ても一拠点としては考えられても、ここが中心地
だという大仰な名前が付くほどとは思われません。
これに対しては、国生み時点では一拠点に過ぎなかったが、後の時代に重要な位
置を占めるようになった事も考えられるので拠点として原大八洲に入っていても良い
のではないか、という見方も出来るかもしれません。そう考えた場合、他の原大八洲
と見られる場所が明らかに島であるのに対し、豊は筑紫島の一部でありますので、
筑紫島と明らかに九州全体と見られる地名を挙げながら、その一部である豊を重ね
て挙げるのはすんなりとは理解し難いという疑問が生じます。
大日本豊秋津洲は後代の付加か
以上のように見てきますと、大日本豊秋津洲はいずれを取りましても一長一短があ
り、まことに落ち着きが悪いのであります。と考えてきて、豊秋津洲は後の時代に付
け加えられた地名ではないのか、という疑問が浮かび上がってきてしましました。大
日本が後の時代に付けられた美称であることは先に述べましたが、大日本豊秋津洲
という文字全体が後に加えられた可能性に思い至った訳であります。国生み当初の
勢力圏としては筑紫洲の一部としての存在であったが、後に豊に相当の勢力が存在
し、一時期は日本の中心を称しており(少なくとも自称していたことは書記の記述から
明らかです)、その頃に国生み神話の一拠点として付け加える説話も生まれたので
はないか、という可能性も検討してみる必要があるように思えてきたのです。
もしそうであるとした場合、国生み神話の当時の勢力圏(原大八洲)は大日本豊秋
津洲を除いた、伊豫二名洲、筑紫洲、隠岐洲、佐渡洲、淡路洲、対馬洲、壹岐洲の7
洲であったということになってしまいます。古代史書の比較をすることによって当初の
勢力圏を分析して導かれるところは、当初の勢力圏は上記7洲となってしまいまし
た。これを大七洲と言うべきかどうかはともかく、一つの仮説として提示しておきたい
と思います。
----------------------------------------------------------------------
-
参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
旧事本紀 大野七三 批評社
日本神話の考古学 森浩一 朝日新聞社