No30:国生み神話(3)
古代史書を比較することで原大八洲とも言うべきものが浮かび上がり、更に原大八
洲を追求する中で、大日本豊秋津洲は九州北東部の豊である可能性、更には大日
本豊秋津洲は後代に付け加えられた可能性が大きく浮かび上がってきました。国生
み神話が出来た当初の勢力圏は原大八洲から大日本豊秋津洲を除いた7洲であっ
た可能性を、前号で仮説として提示しました。仮説ではありますが、大日本豊秋津洲
という誰が見ても中心地であると思われる地名全体が後の時代に付加されたという
ことになりますと事が大きいだけに、もう少しこの問題を掘り下げて見たいと思いま
す。
史書による大八洲の違い
国生みの段に具体的な地名が記載されている史書は、日本書紀の一書群を含め
まして8書あり、それらを
表にしてみました(丸数字は生れた順序)。大日本豊秋津洲
はその全ての史書に記載がありますが、よく見ると扱われ方に差があります。日本
書紀では「胞」をどう見るかによって多少の違いがありますが、実質的には本文を含
めてどの一書も、最初に生れたのが大日本豊秋津洲とされております。(一書第七
及び一書第八では淡路洲が「胞」ではなく第一子となっているので、形の上では二番
目が大日本豊秋津洲)いずれにせよ中心地はここだと言う書き方であります。これに
対して古事記及び旧事本紀では、どちらも大日本豊秋津洲は最後の八番目に位置
しております。
順番などたいした問題ではないのではないか、と思われる方もあるかもしれません
が、古代におきましては序列をめぐる争いは少なくありません。むしろ人間は本質的
に序列を争う生き物であることは一々例示しなくても多くの場面で見る事が出来ま
す。相対的にどちらが優位であるかを争い、優位に立ったほうは劣位と見たほうを貶
める、劣位にある方は他日を期して逆転の機を窺う、と言う構図は枚挙に暇がないと
思います。現在でも必ずしも表面に出るとは限りませんが、国や民族間の争いや不
信感の多くはそのような相対的な優劣(の歴史的な積み重ね)に根ざしている部分が
大きいのではないでしょうか。
と言う目で見ますと、中心地名と思われる大日本豊秋津洲が、一方では(実質的
に)一番目とされ、他方では最後(八番目)とされているのは見過ごせないように思い
ます。今ひとつ、日本書紀(含、一書群)と古事記、旧事本紀との間には大きな差が
あります。史書の比較分析から原大八洲を想定しましたが、壱岐洲及び対馬洲は日
本書紀の中で、第七の一書を除いて、記載がありません。唯一記載のある第七の一
書におきましても両洲は7番目と八番目と言う扱いで最後に並んでおります。これに
対し古事記及び旧事本紀では両洲は筑紫洲の次という順位になっております。
青銅器に表れた対馬の位置
両島における青銅武器の出土を見てみますと、壱岐島から12本、対馬島からは
135本の青銅武器が出土しております。両島共に銅剣、銅矛が主で銅戈は各1本とい
う偏った出土です。初期の細形銅剣に限ってみますと壱岐島4本、対馬島11本であ
り、青銅武器が渡来した当初の頃から両島にも、渡来の一団の痕跡が濃厚に認め
られます。平野部が多い壱岐からの出土が少なく、対照的に全島が山と言っても良
いくらい平地が少ない対馬から多くの青銅武器が出土しており、このことから推定し
ますと、半島方面から渡ってきた集団にとりまして、対馬は単なる通過点を超えた位
置づけであったのではないでしょうか。
対馬は島とはいうものの海中の山と言ってもよいような複雑な地形であり、また、南
北両島の間にある浅茅湾をはじめ天然の良港が各所にあって、海人集団が根拠地
とするには絶好の場所であります。中でも浅茅湾はその懐の広さから、大規模な船
団でも安全に停泊でき、また、地形の複雑さを利用して船団を見つけ難い場所に隠
しておくことも出来るなど、天然の要塞として申し分のない地形です。
海人集団にとりましては早い時点から有力な拠点になりえたと思われます。また、
半島からの集団が海人の力も得て、この島まで到達したとしたら、この島を有力な根
拠地としたことは十分考えられます。一方、壱岐島は対馬に比べれば平野部が多く
耕作などには便利なように思われますが、何と言っても狭い島であり、住める人間に
は限りがあります。と言う点から、半島方面からの集団は対馬を軍事拠点、壱岐をあ
る種の兵站拠点としたと推定出来るのではないでしょうか。いずれにせよ半島方面
から来た集団にとりましては重要な位置を占める二つの島だと思われます。
また、対馬の青銅武器の特色は祭祀用と思われる中広形銅矛と広形銅矛が数多
く(合わせて100本以上)出土している事です。中でも広形銅矛の出土が多く、全国で
160本以上の出土のうち九州から8割以上が出土していますが、その半数強が対馬
からの出土です。広形銅矛のことは対馬矛と言う呼び方があるように、それほど広い
とは言えない島から全九州より多い数の広形銅矛が出土しております。
念のため確認しますと、銅矛は初期の細形のものは刃が鋭く砥いであり完全な武
器としての条件を備えていますが、中広形から広形と変化するに連れて、大きくなる
と同時に刃の研ぎ方も装飾的になり、形も実用には耐えないような形に変化します。
更に広形の2式と呼ばれるものになると刃も砥がないものとなります。これらの形式
変化から細形のものは実用武器ですが、中広形以降のものは祭器と考えられており
ます。対馬からはこれら全てのタイプの銅矛が出土しており、その数も少なくありませ
ん。また、石棺墓の中から広形銅矛が出土することもあります。対馬は地質的に見
れば(きれいに割ることが容易な)頁岩が多いと言う特徴があります。そのため早い
段階から石棺墓が使われており、石棺墓だからということで時代を判定することは難
しい(一概に新しい時代とは言えない)のですが、少なくとも弥生中期後葉から弥生後
期の全期間を通じて銅矛による祭祀が継続していたことは言えるようです。
また、韓国南部の良洞里から日本製と思われる広形銅矛が出土しておりますが、
これは伴出した遺物から古墳時代の初期に埋められたものと考えられております。
この銅矛は福岡平野から対馬を経由して渡ったと考えられるところから、対馬におい
て古墳時代まで銅矛による祭祀が続いていた可能性もあながち否定できないように
思います。以上の状況から、対馬は北部九州に青銅武器を携えて渡って来た集団と
の関わりが当初からあっただけではなく、少なくとも弥生時代後期一杯、或いは九州
では銅矛による祭祀が行われなくなっていた古墳時代まで銅矛を使った祭祀が行わ
れていた可能性もあり得るのではないでしょうか。
と見てきますと原大八洲に重要な拠点と思われる対馬、壱岐の両島が含まれるこ
とは自然な流れのように思われます。ところが、日本書紀本文におきましては壱岐洲
及び対馬洲は、大八洲に含まれないだけではなく、国生みの最後に「是に由りて大
八洲国の号起れり。即ち対馬嶋、壱岐嶋及び処々の小嶋は、皆是潮の沫(あわ)の
凝りて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れるとも曰ふ。」と記載されていま
す。この言い方は、古事記や先代旧事本紀は勿論一書群の中にも無く、本文のみに
出てきます。日本書紀本文では後の時代に付加されたと見られる大日本豊秋津洲を
一番目の勢力圏とする一方で、壱岐、対馬の両嶋についてはその名を挙げた上で、
わざわざ「潮の沫」とか「水の沫」が固まったものと言う言い方で、処々の小嶋と並べ
てその他大勢の泡沫的な扱いになっているのです。
単に勢力圏に記載しないだけではなく、沫が固まって出来たという言い方は、重要
度が低い島である事を強調しようとしているように感じられます。地理的状況から、ま
た、青銅武器の出土状況から考えて、大八洲に含まれる重要拠点と思われる両島
の日本書紀における扱い方を、時間の経過とともに記憶が薄れ、偶々記載から漏れ
たと言うように受取ることは難しいのではないでしょうか。銅矛が祭祀の道具となり、
対馬において、いつまで続いたのかということは、上で述べましたことから判断しても
相当長期にわたることは間違いありません。短めに見ても3〜4百年、見方によって
は数百年にわたるかもしれません。そのように続いてきた銅矛という特別な祭器を伴
った伝統を書紀編纂者が知らなかった、或いは偶々記載から漏れた可能性がゼロと
は言えないにしても、敢えて(国生みの地点としては)書かれなかったと言う方が自然
な理解であるように思います。
両島は朝鮮半島との交通と言う点から見れば、日本列島周辺の多くの小島とは位
置的な重要性が全く異なります。それは出土物が裏付けている通りです。にも拘ら
ず、両島を他の小島と並べて記載した理由は、日本書紀の編纂者にとりまして対
馬、壱岐の両島は無視したい、或いは軽く扱いたい島であったため、敢えて小さな扱
いとしたと考えざるを得ない様に思われます。
上古における権力交替の可能性
何故そのようなことになるのでしょうか。考えられる有力な理由は、権力の交替であ
ります。伊奘諾、伊奘冉両尊による青銅武器を伴った福岡市西郊への最初の進出
(侵入)によって始まった歴史は、それ以前から住み着いていた人々を支配下に置き
ながら相当期間続いていたことは、青銅武器の形式変化や広がり方から見て、疑い
難いと思われます。しかしながら日本書紀編纂の段階では、その流れとは別の流れ
を汲む人々が支配する世の中になっていたのではないでしょうか。その間に権力の
交替が一度きりであったのか、複数回あったのかと言うことはよく吟味する必要があ
りますが、少なくとも書紀編纂時点での編纂者達は伊奘諾・伊奘冉両尊の流れを汲
む人々ではなかったと考えられるように思います。
そのように考えると27号マガジン(伊奘諾尊の禊)で検討しました、禊によって天照
大神ほか多くの神々が一度に生れた訳、また、書紀本文では伊奘諾尊の黄泉の国
の説話がなく、伊奘諾尊との繋がりだけを主張しているように見える訳も理解できる
ように思われます。つまり、書紀編纂者の一団は自分達が日本列島での正当な権力
の後継者であることを主張するために日本書紀を編纂し、伊奘諾尊との繋がりを強
調しましたが、一方で他の多くの氏族に残っていた伝承等を全く消し去ることも出来
なかったのではないでしょうか。
日本書紀は天武天皇10年(681)に、詔して「帝記及び上古の諸事を記し定めしむ」
とされ編纂が始まりましたが、完成は元正天皇6年(720)であります。その間40年とい
う長い期間が経過しております。この間の事情は必ずしも詳らかではないのですが、
壬申の乱による記録等の喪失なども考えると、相当な難事業であったことは十分想
像されます。おそらく有力氏族の協力も得ながらの編纂作業であったかと思われ、編
纂作業は断続的に続いていたと考えられます。その途中の時期の持統天皇5年
(691)に「十八の氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」という不思議な詔勅が出
されております。墓記を差し出させると言うことは氏族に伝わる伝承を含めて差し出
させたと見ることも出来ます。この詔勅は書紀編纂との関わりを抜きにしては考え難
いのではないでしょうか。とすれば、書紀編纂の困難が伝わってくるような詔勅であり
ます。
上古のことは各氏族の協力も得て編纂されたとすると、各氏族にとってその出自は
譲れないものであるのは当然です。統一的な体系としたい編纂者側と出自の伝承を
守りたい氏族との妥協の結果、伊奘諾・伊奘冉両尊との繋がりを、禊によって三貴
子が生れたとして主張する一方、多くの一書群を取り入れた異伝併記と言う形を取ら
ざるを得なかったように思われるのです。
大日本豊秋津洲に対する扱い方の違い、またそれと対照的な対馬・壱岐両嶋の扱
いの違いから予想もしていなかった古代の一段面が見えてきたように思います。思
い切って私の推測を述べますと、日本書紀編纂者の一団に取りましては国生み時点
で大日本豊秋津洲が入ることは譲れない一線であった。一方、古事記や旧事本紀に
は元々は入っていなかったが、執拗な説得(強要または脅し)等によって入れざるを
得なかった。そのためお義理のように最後の洲として入れられた。一方、対馬・壱岐
両島は本土から離れている事もあり容易に新しい支配者に馴染まなかったのではな
いでしょうか。従って日本書紀ではことさら無視、或いは低い扱いとされた。そのよう
に考えると対馬では九州島では銅矛による祭祀が行われなくなった後もかなりの期
間に亘って銅矛を用いた祭祀が行われたことが理解できるように思われます。皆様
はいかがお考えでしょうか。
以上の私なりの結論は、古事記と日本書紀は、編纂姿勢の違いを見る限り、同じ
王朝(所謂大和朝廷)で編纂されたものとは考え難いように思われます。また、日本
書紀が所謂大和朝廷で編纂されたことは疑い難いと思われます。すると古事記は所
謂大和朝廷以外のところで編纂されたと考えざるを得ないことになります。旧事本紀
が物部氏によって編纂され伝えられていたことは、記紀にはない物部氏の系譜を伝
える独自の第三巻(天神本紀)があることによって明らかです。古代史研究家の間で
は、旧事本紀は問題ありとして無視する方も、研究上の立場の違いはあっても、古
事記と日本書紀は所謂大和朝廷によって(時間を隔てて)編纂されたとする見方は
共通しているように思います。私なりの結論はそうではないことを示しております。思
いがけないことになってきてしまいました。
古事記成立に含まれる謎
古事記の成立についての疑問は従来から多くの人によって提示されてきました。日
本書紀と古事記の編纂姿勢の相違が明らかとなった今、古事記の研究について触
れておく必要があると思います。が、内容的には細かな話になりますので多くの読者
の方には煩わしいと感じられるかもしれません。従って詳しく研究されており一応の
集大成とも言うべき大和岩雄氏の「古事記成立考」に基いて簡単に要点に触れてお
きたいと思います。因みに、「古事記成立考」に対しては一部の情緒的な反論を別に
すると、各論点について筋の通った反論は寄せられていないようです。
古事記の序文がその記述の通り和銅5年(712)に書かれたものかは疑わしいとす
る考えは古くは江戸時代からあったようです。賀茂真淵が本居宣長に出した手紙の
中に「古事記の序は太安万侶とは違う人物が和銅年間より後で書いたもの」と言う疑
問を書いております。対して宣長は「ひがこころへ」であるとして、あっさりと斬り捨て
ております。その後も色々な人によってこの問題が論じられておりますが、経緯は省
略して論点を「古事記成立考」に従って整理しますと、
一つの疑問は、8年後に成立した日本書紀が古事記を参照していない(一書にな
い)ことです。また、続日本紀には和銅7年に紀朝臣清人らに国史撰録を勅したこと
は載っていても、和銅年間に太朝臣安万侶による古事記撰録の記事は無いことが
挙げられます。次に、聡明とされる稗田阿礼は正史に何の記録も無く(日本書紀、続
日本紀を通じて稗田という姓の記載なし)、正史に記録されており墓誌の発見によっ
て実在したことに疑いのない太安万侶も古事記を撰録したとはどこにも記されていな
い。ことを挙げられます
大和氏は、正史に全く記されていないという不思議な事実を私本的解釈で逃げてし
まうのが通説化しているが、私本的なものであるのなら麗々しい序文をつけるのはお
かしい。その上序文は私本的性格とは逆に口述者の才能や撰録者の苦心を宣伝す
るような内容となっている。序文をつけること自体が私本的解釈と矛盾するのに、そ
の序文が宣伝臭の強い異例の序文(本来序文は謙辞である)であることは、いよい
よもって、従来の私本的解釈を否定するものではないか、とされます。
これらのことから、日本書紀や続日本紀の書かれた時代には、現存古事記は存在
していなかったために、正史に記録されていないのであり、序文の宣伝臭は和銅年
間の勅撰書にしたてようとする序文作者の意図が反映したものと見れば矛盾しな
い。また、正史に載っていないが、序文の日付は間違いないと見た場合、内々の詔と
する解釈があるが、その証拠はまったく無い。序文が無ければ秘密文書とも考えら
れるが、麗々しい序文の存在自体が秘密文書を否定しているとし、序文の日付も、
正史に載っていないこともいずれも正しいと見ずに、どちらかが間違っているとした場
合疑問が氷解する、とされます。つまり、序文の日付は本当では無いと結論されてお
ります。ここまで読まれると、それでは現存古事記は偽作との主張かと思われるかも
しれませんが、ことはそう簡単ではありません。
通説では現存古事記が額面どおり和銅5年成立で間違いないとされていますが、
その有力なキメテの一つとされているものに、万葉集第3263番歌にある古事記の引
用が挙げられます。木梨の輕太子(かるのみこ)が同母妹の輕大郎女(かるのおお
いらつめ)と許されぬ仲となって太子は伊予に流され、大郎女は儚んで死を選び、太
子も自ら死を選ぶのですが、その時に歌った歌です。この歌の左注に「古事記を検
(けみ)するに」とあるところから、万葉集成立時点には古事記が既にあったとされて
おります。ところが、万葉集に記載の歌と古事記に記載されている歌とは微妙な違い
があるのです。万葉集の歌は次のようです。
こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に い杭を打ち 下つ瀬に 眞杭を打ち い杭には
鏡を懸け 眞杭には 眞玉を懸け 眞玉なす わが思ふ妹も 鏡なす わが思ふ妹
も
ありと 言はばこそ 國にも 家にも行かめ 誰故か行かむ
これに対し現存古事記記載の歌は後半が
鏡なす 吾が思ふ妻 ありと言はばこそ 家にも行かめ 國をも偲(しの)はめ
となっており、左注に「古事記を検(けみ)するに」と記載があります。
二つの歌は似てはいるのですが同じではありません。歌のニュアンスも異なるよう
です。従って、万葉集に記載の歌が現存古事記にあったと言う確証にはなりません。
同様に90番歌が挙げられます。その中に「やまたず」という言葉があり、その表記
は万葉集は歌も注も「山多豆」となっていますが、古事記は歌は「夜麻多豆」、注は
「山多豆」となっています。万葉集の編者が見た古事記は、歌も注も「山」表記であっ
たため「山多豆」となっていたと思われ、現存古事記の「夜麻」とは異なっております。
歌謡表記において「夜麻」という表記は後の時代に表記が統一されるようになってか
ら使われるようになった表記ですので、現存古事記の表記は万葉集より新しいことが
推定されます。つまり万葉集編者が見た古事記は現存古事記とは違っていたと考え
られます。
他にも古代の音韻から見た新旧の例などを根拠として、現存古事記と万葉集に記載
の古事記とは別のものとされております。つまり原古事記とでも言うものがあり、万葉
集の編者は原古事記を見ていたと考えれば一見不可解と思われたことが解消すると
されます。原古事記があった痕跡は、従来殆ど無視されてきた「琴歌譜」記載の「一
古事記」、「万葉集」の「古事記」、「令集解の」「古事記」などに残っており、別に「多氏
古事記」というものもあるようで、これ等は現存古事記とは異なる古事記であると説
明されております。
どうも現存古事記は後の時代に書かれたものであることは間違いないようです。と
すれば、いつ頃どのような人によって書かれたのか、また、原古事記とはどのような
ものであったのか、など、疑問が増えてきます。次号ではそれらの謎に迫ってみま
す。
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参考文献
日本書紀 坂本太郎他校注 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
旧事本紀 大野七三 批評社
古事記成立考 大和岩雄 大和書房