No8:三角縁神獣鏡
鏡の検証
前回までで先入観に捉われずに自然体で倭人伝を読めばどのように女王国に行
き着くか、また、それは考古学的出土物等による裏づけが認められるのか、と言うこ
とについて説明してまいりました。ここまでお読み頂いた方は、倭人伝を自然体で読
む限り女王国は九州を出ないこと、また、考古学的出土物等は女王国は北部九州
にあったことを指し示していることをご理解いただけたのではないかと思っておりま
す。
女王国の具体的な場所につきましてはいくつかの候補地が考えられますが、その
検討に入る前に、通説では女王国のありかを探る上で決め手に近い鍵として扱われ
ることが多い「鏡」の問題を検討することにしたいと思います。いわゆる邪馬台国論
争におきましては、鏡こそが女王国の場所を探す決め手である、と言うような論調が
あり、皆さんも新発見等があるたびに話を聞かれ、或は目にされていることと思いま
す。多くは三角縁神獣鏡こそ卑弥呼が魏から貰った鏡だと説明されております。果た
してどうなのでしょうか。倭人伝では前回抜き出したように卑弥呼は100枚の銅鏡を
貰ったと書いてあります。この鏡がどれであるかが分かれば女王国探しへの近道で
あることは間違いありません。
ご承知のように日本列島の古代遺跡からは沢山の銅鏡が出土しています。それら
の銅鏡は大別すれば2種類に分けられると言っても良いかも知れません。「漢式鏡」
と呼ばれているものと、「三角縁神獣鏡」と呼ばれているものです。「漢式鏡」にしろ
「三角縁神獣鏡」にしろ、後代の学者が便宜上命名した区分で、鏡自体にそのような
名前が刻まれているわけではありません。「漢式鏡」と呼ばれているものには前漢
鏡、後漢鏡や新の王莽(おうもう)鏡があることが分かっております。いずれにせよ銅
鏡であることは間違いありませんので、まず列島全体の
銅鏡の分布を見てみる事に
します。
第1図(左側)をご覧ください。新しく発見されるものがあるので出土数は変化しま
すが、「漢式鏡」は今までに約170面、出土しています。その内、約9割の150面程
度が福岡県からの出土です。近畿地方からは兵庫県から2面が出土していますが、
いわゆる邪馬台国の候補地とされる奈良や京都の弥生時代遺跡からは一面も出土
していません。
次に第2図をご覧ください。同様に、いわゆる「三角縁神獣鏡」は日本各地から沢
山出土しています。「漢式鏡」に比べれば集中度は低いものの、その中心が奈良・京
都をはじめとした近畿にあることは疑いありません。それもいわゆる天皇陵を除外し
てのことですから、もし天皇陵とされている古墳の学術調査が行われるようなことに
なれば、もう少し増える事になると思われます。
他の条件は無視して鏡だけから判断すれば、卑弥呼が貰った鏡が「三角縁神獣
鏡」であれば女王国は近畿が有力となり、「漢式鏡」であれば北部九州が有力となる
ことになります。
ではもう少し仔細に検討してみることにしましょう。
「漢式鏡」と「三角縁神獣鏡」はその出土する遺跡の年代に大きな違いがありま
す。「漢式鏡」は北部九州の「冢」から大半が出土しているのに対し、「三角縁神獣
鏡」はそのほとんどが近畿を中心とした「古墳」から出土しています。少しお考え頂け
ばお分かりいただけると思いますが、時代的には「冢」はほぼ弥生時代と重なるのに
対し、「古墳」はその後の文字通り古墳時代で、時代的なずれが生じます。
少し横道に入りますが、ご承知のように日本の時代区分は、縄文、弥生、古墳、奈
良と続きます。縄文、弥生は土器の形式であるのに対し、古墳は埋葬形態、奈良は
都の場所、しかも同じ土器形式といっても縄文は模様の特徴であり、弥生は発見さ
れた場所と言う具合で、まことに一貫性に欠けていると言わざるを得ません。慣れて
しまえばそんなものと思ってしまいますが、一歩下がって考えるとまことに曖昧模糊と
していて、時間の物指しとして本当に機能するのだろうかという疑問が湧いてきま
す。
伝世鏡理論
それは一旦横において、「冢」から出土した「漢式鏡」は無条件で卑弥呼の鏡の可
能性の対象となるのに対し、「古墳」から出土した「三角縁神獣鏡」は時代的には早
いものでも100年以上後になるため、そのままでは可能性の対象から外れてしまい
ます。
そこに「伝世鏡理論」と言う仮説が登場して何とか対象に留まることになりました。
簡単に説明しますと、卑弥呼が貰った弥生時代の末期には一枚も副葬品として埋納
されることは無く、神宝として大切に地上で保管され、100年以上後の古墳時代にな
ってから副葬品として古墳に埋納されるようになった、というものです。
大半が弥生時代の遺跡から発見されており中には古墳から発見されるものがあ
る、というような状況でしたら、そういうこともあるかもしれない、と納得できるかもしれ
ません。が、貰った時代には一枚も埋納されず、100年〜200年以上も経った後で
(一斉に)埋納されるようになった、という説明を聞いて皆さんはすんなり理解できま
すでしょうか。
古代は死を穢れとして忌み、死者が持っていたものを家に留めておくことを避ける
風習があった時代とされております(朝鮮には最近までこの風習が残っていたようで
す)。それにも拘らず、死者と一緒に埋められずに地上で保管されたのは、神宝とし
て大切に扱われたからだと言うわけです。
その同じ神宝が、少し時代が下がると今度は一斉に死者と一緒に埋められるよう
になったとされます。その理由は、「鏡(神宝)の管理者が(新しく成立した)天皇の承
認を受けた代表者であるということの方が有力になってきた、そうなると、たとえ天皇
から禁止命令が出なくても、神宝の保管が軽視されるようになったとしても仕方が無
い、それで、伝世鏡を中止して司祭者の古墳に埋めてしまうという現象が期せずして
4世紀に各地で続発した、その背景にはこうした政治的な動向があったと推測した
い。」(古鏡、小林行雄)と説明されています。
ある時期までは大切なものだから地上で保管され、次の時代には保管が軽視され
副葬品として埋納されたというのです。そのような変化を生じさせた「こうした政治的
な動向」ということについての具体的な説明はありません。仮に4世紀に天皇制が成
立し、天皇の承認を受けた代表者であることが有力なものとなったとしても、それま
での埋葬慣例を一挙に変え、禁止命令が出なくても神宝の保管が軽視されるように
なるほどの政治動向であった、と観念的に説明されても納得できる人は多くは無いと
思います。
「伝世鏡理論」とは近畿の古墳から多く出土する「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時
代に合わせるために考え出された机上の理論である、といっては言いすぎでしょう
か。
空白の3世紀
一方、北部九州からその大半が出土する「漢式鏡」について、考古学会の定説は
次のようになっております。
「糸島郡三雲、福岡市須玖岡本、これらの甕棺墓から出土した銅鏡を「前漢鏡」と
名付け、1世紀内に位置付ける。立岩遺跡(飯塚)の鏡もこれに準ずる。叉、糸島郡
井原、唐津桜馬場、これらの甕棺墓から出土した銅鏡を「後漢鏡」と名付け、2世紀
初頭に位置付ける。佐賀県二塚山から出土した鏡(方格規矩鏡)」も、これに準ず
る。」
北部九州から出土したこれら形の整った銅鏡(漢式鏡)は、いずれも3世紀よりず
っと前だと認定されてきたのです。その結果どのような考古学書を見ても3世紀の北
部九州にはめぼしい出土物がない、ことになっています。倭人伝の行路記事中、最
初の九州本土上陸地である末盧国から伊都国、奴国、不彌國が北部九州にあった
ことは疑いにくいと思います。いずれもかなりの人口を擁しています。つまり、3世紀
当時この北部九州はかなり繁栄していたと想像するのはそれほど無理なことではあ
りません。
にも拘らず、そこに3世紀の遺跡・遺物でめぼしいものは殆どないのは何かおかし
い、という疑問が湧いてきますが、これに対してある大家の説明は、「遺跡事実はそ
の通りです。その理由は、恐らく川のせいだと思いますよ。」「え、川?」「そう、川で
す。川の流れや洪水で流されたのです。3世紀の遺跡は、ちょうど流されやすい地層
に当たっていたんでしょうなぁ。ですから、今はこの玄海灘の底に堆積していると思い
ますよ」ということだったようですが、皆さんは納得されるでしょうか?
1世紀頃のものは各所に沢山残っているが、3世紀のものは揃って洪水に流され、
どこからも出てこない。1ヶ所だけに欠落しているのであればともかく、北部九州に沢
山遺跡はあり1世紀の層は残ったが、その上にあったと思われる3世紀のものは跡
形もなく消えてしまった、というわけです。私は最近注目を浴びている近隣某国の説
明を聞いてこの話を思い出してしまいました。
叉、神武東征のときに皆持っていってしまった、と言う説もあったそうです。地上に
あったものはともかく、墓の中も掘り返して…。それも1世紀のものは残して…。叉、
仮にそうであったとしたら、2世紀末から3世紀に掛けて近畿大和から沢山の漢式鏡
が出ているはずです。出土しない理由に困らなければなりません。事実は文字通り
全く出ないのです。
唐津にせよ糸島にせよ博多湾岸にせよ、それ程広い領域ではありません。そこに
点在している遺跡のどこからでも、何度もの発掘調査の結果、上の地層の3世紀の
埋蔵物は出ないで、下の層の1世紀前後のものは沢山出る、こんな摩訶不思議な話
は怪談の世界に留めておいて欲しいものです。北部九州は弥生期の言わば繁華街
です。その場所から3世紀のものが出ないと言うのは理解しにくい話しで、これは「未
だ見つかっていないのではなく、考古学の年代判定の尺度のとり方に問題があるの
だ」ということにならざるを得ないと思います。
考古学の年代判定
この辺りで日本の考古学の年代判定方法について触れておきたいと思います。
は
じめに、でも述べましたように日本の考古学は絶対年代に大きなハンデを負ってい
ます。縄文期はもとより、弥生期、古墳期を通じて絶対年代(例えば中国の年号な
ど)がしるされている出土物は殆どありません。例外的なのは志賀島出土の例の金
印です。これは中国史書により建武中元2年(AD57年)とはっきりしています。その
ほか今回のテーマである鏡がありますが年代の正確性という点ではやや劣ると言わ
ざるを得ないでしょう。これ以外は全て絶対年代は不明なのです。
従い、もっぱら頼りになるのは相対年代と言うことになります。模様、形、一緒に出
たもの、等々から精密な比較検討を行い前後関係をつけていかざるを得ないので
す。これを相対編年と言います。そしてその相対編年の研究はかなり進んでいるの
で、なにか出土品があった場合、その相対関係の中では小さな誤差で年代が確定で
きるようになってきていると言われております。
が、問題はこの年代判定の方法上の基礎です。出土物の年代が「10年以内の誤
差」とか「5年以内の誤差」とかで判定できると言われます。表現は厳密そうですが、
基準になるもとが鏡である以上かなりの誤差を伴っていると見るべきだと思います。
さらには、地域間で異なると思われる相対編年をどのようにして統一的な基準に摺り
合せるのか、という基本問題がそれほど真剣に検討された様子は見られません。先
進地域であった(はずの)近畿地方の編年を基準に他の地域はそれを準用すれば
よい、という暗黙の了解がなされているかのようです。
相対編年の方法についていま少しご辛抱ください。ものによって違いはあるのです
が、青銅器について見てみたいと思います。代表的なものとして近畿を中心に出土
する銅鐸と、九州を中心に出土する銅矛、銅戈、銅剣についてその方法論を見てみ
ます。まず銅鐸ですが、その形や鈕(ちゅう:銅鐸の耳に当たる部分)の様式変化等
の分析の結果、「小型銅鐸→中型銅鐸→大型銅鐸」と発展した跡が精密に裏付けら
れており、それは「弥生前期→弥生中期→弥生後期」に位置付けられておりますが、
これは出土状況等から納得できるものであると考えられます。
これに対して銅矛、銅戈、銅剣の場合は若干様相を異にするようです。銅矛を例に
とって見ると、同じように「細矛→中細矛→中広矛→広矛」と言う様式の想定がなさ
れているのですが、銅鐸の場合は、棺内などではなく、一見なんでもない山の中腹な
どからイキナリ出土するという、ほぼ共通した出土状況なのに対して、銅矛、銅戈、
銅剣の場合は出土する状況がものによって異なっております。
中・細型のものは甕棺などから出る場合が多いのですが、中広・広型の場合は棺
内から出ることは殆どなく、圧倒的多数が整地時の溝跡や田畑のなか、村はずれの
道の中などからポコッと出るのです。時には5〜10本、更には何十本とまとまって出
ることもあります。このように出土状態が違うものを単純に並べて意味があるのかと
いう問題があります。さらには、それらは銅鐸と同じように「弥生前期→弥生中期→
弥生後期」に当てはめられておりますが、相互の関連性については全く分からない
銅鐸と銅矛等とを、同じ頃に始まり同じような発展経過をたどったとして、さしたる論
証もなしに同じような年代に位置付けるのは少々飛躍がありすぎるのではないの
か、という疑問に繋がります。
細型は作りが精巧・緻密であることから以前は舶載つまり大陸製だと言われてきま
したが、志賀島から鋳型が発見されたことにより、国産だったことが判明しました。中
広・広型は細型に比べると作りが雑な感じは否めません。従い、細型が舶載とされて
いたのに対し、中広・広型は国産とされてきました。そうすると新たな疑問が出てきま
す。編年が正しいとすると、(両方とも国産ですから)弥生中期には精巧・緻密な細型
を作ることが出来たのに、弥生後期になると拙劣、大味な中広・広型矛しか作れなく
なった、ということになります。
使用されなくなった後の時代であれば技術の退化と言うことも考えられますが、弥
生後期は矛の全盛期です。その時期にそれまで作られていた精巧・緻密な細型はや
めて、拙劣大味な中広・広型矛ばかりを作るようになった、と言うのは普通に考えて
納得できないのではないのでしょうか。要するに、九州の場合、質も違い技術も違う
細型と中広・広型を(近畿中心の)銅鐸と同じように同一の進化の過程をたどったと
見て年代順に並べる、という編年方法に問題があると言わなければならない様で
す。
従来の考古学ではこの不可解な結果に対して、次のような説明をしてきました。
「弥生中期は舶載(と信じられていました)の細型銅矛・銅戈・銅剣が「首長の宝器」と
されていた時期で、弥生後期は国産の中広・広型の矛や戈が「共同体の祭器」とし
て、一般に用いられた時期である」。
これは古代史の常識とされているそうです。
その実際の場面を頭に描いてみると次のようになります。
即ち、弥生中期には一握りの「首長」なる者がいて、舶載(実際は自前で作った)の
細型銅剣類を「宝物」のように大切にしていた。しかし彼(彼女)は、技術者を有して
いたにも拘らず、そのような精密な細型銅剣類を部下達には一切持たせなかった。
ところが次の時代(弥生後期)になると、いきなり「部下たち」が大量の中広・広型の
矛や戈を作り始めた。その際に首長の後継者は以前のように「宝器」を作ることをや
め、墓にも入れられなくなった。だからこの時代からはめぼしい埋納遺物が出土しな
い。「宝物にあふれた墓」が盛んであった時代から、古墳時代に向かう中間の時期
に「墓などかえりみぬ」時代が出現し、その後大型の古墳時代に入っていった。
いささか理解に苦しむ状況といわざるを得ないのではないでしょうか。九州はその
ような理解しにくい歴史をたどったのでしょうか。
もう一つの視点は、器物の使用目的の違いです。「細」の方は、材質、技術、数量
等の面から見て、少数の権力者の身辺の所持品としてふさわしく思われます。いわ
ば「護身の佩刀」といった感じです。従い、死ねばその人の墓に埋葬されるのに何の
不思議もありません。
これに対し「中広・広型」の方は様相を異にしております。一人一人が自分の護身
のために持つ、と言ったものではなく、大勢で他(王、貴族、神殿等)を守るためのも
のであったとするならば理解し易いと思います。勿論、実際の戦闘用具は「木弓」な
どであったと考えられますが、「中広・広型」の矛は威嚇・デモンストレーション用のも
のであったと思われます。或は祭器としても使われたかもしれません。だから、通常
は死んでから墓に入れるという性格のものではないと思われます。「弥生中期」は自
分を守る器物だけ、「弥生後期」は大勢で他を守る器物(或は祭器)だけ、というのは
いかにも不自然な感じがします。
銅鐸の場合と異なり、材質、技術、使用目的が違う細型と中広・広型を一緒に考え
て大小だけで時代の前後に見たてる、そのような編年方法そのものに矛盾があった
と言わざるを得ないと思います。その挙句に、「弥生期後半」即ち3世紀の北部九州
は、やたら中広・広型の矛や戈を作るだけで、それ以外には何もない空白の時間帯
になってしまったのです。
このような一見奇妙なことになったわけは、鏡の研究史の中に知ることが出来ま
す。鏡の研究は明治以降富岡謙蔵氏によって大いに進められました。それまでは好
事家的な趣味の域に過ぎなかったものを、一気に学問の世界へと引上げるものでし
た。それまでは「中国の鏡は魏晋以降のもの」と言う観念が一旦成立していました
が、後漢鏡の存在を明らかにし、更には「新」の王莽の文字を持つ「王莽鏡」の存在
も立証しました。
最終的には三雲・須玖から出土した鏡の調査から、これらに書かれていた文字の
様式が前漢時代の様式であることを発見したのです。しかしながら学問的に慎重で
あった富岡氏は、「その様式が前漢代のものであるからと言って、作られたのも前漢
時代とは限らない」と一言留意するのも忘れませんでした。「その様式が後の時代ま
で続くこともあり得る」と言い残していました。 後の時代まで続く例として「原型の簡
略化した様式が三雲・須玖にもあり得る」と論じ、三雲・須玖の鏡を「前漢式鏡」とは
称しても「前漢鏡」と断定してはならぬ、と注意を促していたわけです。
しかしながら富岡氏から後の時代になり考古学の編年作業が進む中で「前漢式
鏡」は「前漢鏡」と、「後漢式鏡」は「後漢鏡」とされ、北部九州出土の鏡は弥生前期
ないし中期(BC300〜AD100)に当てはめられ、卑弥呼の時代より100年ほど前
に押し上げられて今日に至っています。
普通に考えて、器物等の様式は新しいものができたといって、すぐに全面的にそれ
までの様式を捨てて新しい様式に切り替わるようなものでしょうか。ある程度の期間
は異なる様式が平行して使われることはそれほど特別なことだとは思われません。
皆さんの身の回りを見渡しても古くからの様式を守っている多くの例が見つかると思
います。そういう目で見れば、様式の変化はその様式についての上限(始まった時
代)を示すものではあっても下限(使われなくなった時代)については分からないとす
べきだと思います。
有史時代の日本の先進地帯は近畿であったという、いわば近畿中心史観とでもい
うべきものが前提にあって、それに合わせる様に編年がなされ、仮説が提起されて
いる、そしてそのことが、いわゆる邪馬台国論争がいつまでも、もっともらしく続く大き
な原因となっていると言っては刺激が強すぎますでしょうか。
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参考文献
三国志(魏志倭人伝) 陳寿
ここに古代王朝ありき 古田武彦 朝日新聞社
三角縁神獣鏡 藤田友治