No17:女王国の検証(2)

 本号では最初に前号の訂正をしたいと思います。前号で多鈕細文鏡の分布につき
まして、「この鏡は日本では福岡県西南部から佐賀県の東部に掛けて集中的に出土
していますが、他の地域では極めて少数しか見つかっていないと言う出土面での特
徴があります。」と述べましたが、これは私の誤りでした。この鏡は地域的に分散して
全国でも10面程度しか見つかっておらず、「福岡県西南部から佐賀県の東部に掛け
て集中的に出土」とは言えないようです。この部分は取り消すことと致します。

 さて、前号の後、強い異論のメールを頂きました。匿名の方(TKとしておられます)
ですが、内容から判断すると考古学関係の研究所またはそれに類似したところで研
究に携わっておられるように見受けられました。メールの趣旨は以下のようなもので
した。

 今まで読んできて、細かい点については異論もあるが、大筋では最新の報告も含
め丹念に考古学的情報を整理して、また型式学的編年も尊重して論の展開があった
ので感心していました。しかしながら、出土状況が明らかでないキホウ鏡1面を持ち
出して、須玖岡本D地点が3世紀に下るというのは暴論です。確かに、梅原末治は丹
念に遺物を収集し、それを検証しつつ報告しておりますが、遺物の編年が進み、須
玖岡本の様相が判明しつつある現在、キホウ鏡は他の前漢鏡群と伴う余地は無いと
言えます。キホウ鏡の存在は、須玖岡本D地点付近に、王墓遺物群に紛れ込むよう
な弥生終末以降の墳墓があった可能性を示す傍証にはなりますが、それ以外では
ありえません。前漢鏡群、甕棺からの出土、青銅武器類の型式と出土などから、D地
点王墓は弥生中期後半で間違いありません。これは近在の同時期の墳丘墓(特定
集団墓)との関係からみても妥当です。

 書き振りから判断して、ためにする異論では無いように思われました。とはいえ、対
象は少なくとも考古学の大家と言われた方の論文ですから、解釈はともかく事実確
認においては大きな間違いはないのではないか、という気持ちもありました。しかしな
がら、メールの調子からは何らかの裏づけを持っておられるとも考えられ、念のため
確認作業を行いました。結果、出土状況に関する意外な知見を得ることが出来まし
た。今号では先ずその次第を、次いで私の考えを述べることと致します。

須玖・岡本遺跡関連報告書等の検証
 ご承知のように、須玖岡本遺跡は偶然発見された遺跡であります。古くからこの辺
りを少し掘ると土器片などが出ると言うことは良く知られていたのですが、特別な調
査などは行われていなかったようです。ところが明治32年にこの土地の持ち主が家
を建てることになり庭にあった大石を動かし、その下を少し掘ったところ、甕棺や銅
剣、銅矛、銅鏡、ガラス勾玉、ガラス管玉などが出現し一躍注目を集めることになり
ました。尤も、発見当時はガラス勾玉や管玉は変質しており、余りにも脆くて取り出す
こと自体大変だったようで、鹿角製ではないかと推定されていたようです。本格的な
発掘ではなく、家屋建築中の片手間に、ありていに言えば、素人が掻き回したことが
発見に繋がったと言う経緯が、後日混乱を招く遠因となったことは否めないと思いま
す。

 当時はこれだけの大発見にも拘らず、引き続いて調査が行われるようなことも無
く、関心を持った学者が半ば好奇心からたまに見に訪れると言う程度で、遺物も散逸
し状況が分からなくなることを懸念された中山平次郎博士により追跡調査が行わ
れ、「明治三十二年に於ける須玖岡本発掘物の出土状況」と題された報告書となっ
て世に紹介されたのは、発見から23年後の大正11年のことでした。

 中山博士は気になりながらも、家を建てた方も一時所在不明となるなど関係者の
手がかりが得られず困っておられたところ、たまたま当時発見や発掘にかかわった
関係者に関する情報を得られ、関係者を再三訪ねるなどして綿密な聞き取り調査を
行い、また、残っていた遺物などの調査を行われた上、報告書として発表されまし
た。

 報告書によりますと、庭の大石は、地面に半ば埋もれて上面だけが露出するような
形ではなく、地上から30cm程の土壇状の隆起の上に乗り全体が露出する形を長年
保っていたようです。支石墓(ドルメン)では無いようですが、報告書には「低い『ドル
メン』形を呈して居たようである」と記述されています。大石に寄り掛かるようにして少
し幅広の別の石が立っていたようで、大石と傍の石は現在、奴国の丘歴史公園の一
角に据えられております。大石の厚さは30cmほどありますから、石の上面は地面か
ら約60cmの高さになり、一時的に物などを置くには格好の場所であったということで
す。と書くと誤解を生むかもしれませんが、この大石は昔から穢すと祟りがあると伝
えられ怖れられていたそうで、常時気軽に物などが置いてあるようなことでは無かっ
たようです。

 石にまつわる言い伝えを博士は次のような形で拾っておられます。「或る日小児が
これに放尿した時、これを洗ひ清めて灯明を供へて謝罪した事があったといふ。又
田舎の事とて其上に藁を置く位のことはあったが、決して其上に乗ることをしなかっ
たといふ。子が乗れば親に祟るといふので、乗るなといふことは子供にも良くいひ聞
かせてあったといふ。」そのように怖れられ、言い方を変えれば神聖視されてきた大
石ですから、その下を掘るなどということは畏れ多いとして考えも及ばず、従って大石
の下には何かあるであろうという事は想像されていたようですが、掘り出すまでは何
が入っているのかなどは誰も知る由もないと言う状態であったようです。

 TKさんからメールを頂いて最初に考えた事は、よくある混入論を持ち出されたので
はないかということでした。というのは九州では近畿の編年では考えられないような、
時代が離れているとされる土器が一緒に出土するケースがしばしば見られるのです
が、そのような場合、編年自体に問題があるとは考えず、付近から紛れ込んだとされ
て深く追求されないケースが少なくないのです。付近に紛れ込むような可能性がある
遺跡等が全くない場合でも混入の一言で片付けられるケースがあり、先ず頭に浮か
んだのはそのようなことでした。

 しかしながら、D地点の状況は上で述べましたように、穢すと祟りがあると怖れられ
ていた状態から人為的に何かの拍子に紛れ込むことは考えられず、また、自然の状
態で甕棺があった大石下の地中約1mの深さに、どこかから入り込むなどと言うこと
は全く考えられないことから、通常言われる混入はありえないのではないか、と言う
のが第一印象でした。

 中山博士の報告書を読み進むうちに無視できない一節がありました。大石を動か
したあと、神聖視されてきた石のことですからこの下に何かが埋まっているとは誰も
が考えることであったようです。下を掘ってみようかと言う話が出た時に、土地の持主
をはじめ多くの人々は祟りを怖れてそのままにしておこうとしたのですが、実際に作
業に当たった若い人達は、今の世にそのようなことがあるはずがないとして、意を決
して掘り下げたところ遺物の発見に繋がったというのです。

 問題はこのあとです。神聖視されてきた大石の下を掘って沢山の遺物を発見したこ
とで、言い伝えられてきた祟りのことが気になり、天台宗の某僧に相談したところ、兎
に角発掘物は神物としてその全部を元の石の下に返したがよいだろうということにな
り、少し離れた場所に土壇に似せて煉瓦で槨を作り遺物を納め大石を置き、読経し
てあとに災害などが無いことを祈願したというのです。

 大石の下を掘ってから別の場所に煉瓦で槨を築き、遺物を納めなおすまでに何日
かは経過していると思われますので、混入したとすれば、埋め戻す時に、付近でそれ
以前に銅鏡を見つけて持っていた人が、気味が悪くなって同じ様なものだからとして
一緒に埋めた、と言う可能性が全くないとは言えないという考えが浮かびました。

 可能性としてはそうでありますが、実際には場所が異なり時間的にも差があるもの
を一緒に埋めるようなことをするかな、と考えると、これも殆ど可能性はないと言わざ
るを得ないように思いました。 
 報告書によりますと、暫くはそのままの状態で放置してあったようですが、ある時、
前メールで触れました、熊野神社にある著名な銅矛の鋳型を見に来た学者から、こ
の付近の出土物のことなどを尋ねられ、村人が大石下からの発掘物のことを話した
ところ、実物を見てみたいと言われ煉瓦槨を壊して中の遺物を取り出したことがあっ
たそうです。その後遺物は分散したものと推定されるようです。

 博士が23年後に当時の様子を村人に尋ねられた時には、遺物などは既に無いも
のとして大石の下はそのままにしておかれたのですが、その後知人からの問合せに
応えるべく大石下を覗かれたところ、少なくない甕片などが見られたため、改めてそ
の場所の調査を行なわれたそうです。日を改めるなどして本格的に石下の土を掻き
出すことで、思いがけず沢山の銅鏡の破片や管玉などを採集されたのです。小さな
破片などは誰からも持ち去られること無くそのまま残っていたわけです。

 博士の報告書にはいくつかの鏡の破片の拓影が記載されております。また、機会
を改めて図版や鏡の実物などを参考に小片から鏡の復元を試みられ、30数面の前
漢様式の銅鏡の存在が報告されております。が、その中には今問題の?(き)鳳鏡ら
しいものは見当たらないようです。

 ?(き)鳳鏡はかなり早い時点から知られるところとなっていたようで、大正7年に出さ
れた富岡謙蔵氏による「九州北部に於ける銅剣銅矛及び弥生式土器と供出する古
代鏡の年代に就いて」と言う論文にも記述があります。また、昭和5年に刊行されまし
た当時の京都帝国大学による「筑前須玖史前遺跡の研究」という報告書にも、旧二
条家の所蔵から東京帝室博物館(現、東京国立博物館:上野)の所蔵に移ったとして
記載があります。

 以上の状況を普通に考えれば、?(き)鳳鏡は須玖岡本出土として昭和に入っても
別段の疑いを持たれていなかったことになると思います。また、中山博士が採集され
た破片に見当らないのは、?(き)鳳鏡の出土は1面だけであるし比較的残存状態が
良好であったので、早い時点で持ち去られたものが二条家の手に入り、後に上野に
移ったと考えられると思います。前メールで触れましたように、上野に移ってから他の
破片を探し出す努力の結果、ほぼ完全な形に復元されております。博士が採集され
た鏡片は細かく砕かれたものが殆どですが、大き目の破片は早い時点で散逸したと
考えれば説明できない話ではありません。

 ここまでですと、混入の可能性は否定できないが、実際に混入があったということま
では考え難い、と言うことになると思います。私もそう考えておりました。ところが思い
もよらぬ事態が待ち受けていたのです。

 通常では実際の混入までは考えにくいと思い、TKさんに混入と言われる根拠をお
尋ねしたところ、福岡の郷土史家である原田大六氏の「邪馬台国論争」という著書を
紹介して頂きました。実はこの本はかなり知られた本ですので、私もだいぶ以前に古
書店で求めてはおりましたが、パラパラとめくった程度で、書棚の隅にしまっておいた
ものでした。

 指摘を受けて?(き)鳳鏡に関しての、該当個所を読んでみると意外なことが書いて
ありました。「(略)須玖の名前が有名になるのと同時に、骨董屋などが介入して、他
の遺跡出土品をあたかも須玖から出土したようにみせかけ、言葉巧みに二条家に売
り込んだものらしい」。そして注があり、直接筆者(原田大六)が聞知した、となってお
りました。狐と狸の化かし合いじみた、際どいやり取りが想像されました。

 原田氏が、これだけ重大なことで作り話をされるとは到底思われず、骨董屋の言う
ことに何処までの信頼を置くことができるかという問題は残りますが、言うことに真実
を感じ取られたからこそ著書に数行を割かれたのに違いないと思われました。私とし
ても、全く予想もしない展開に、自分の迂闊さに思わず血が逆流するような感じを覚
えた次第です。TK氏が自信を持った強い口調で異を唱えられた訳がはっきりと理解
されました。東京国立博物館で?(き)鳳鏡が常設展示されていない理由も、或はこの
ことに関係があるのかもしれません。事実確認には慎重の上にも慎重を期さなけれ
ばならないことを痛感した次第です。

 改めて奴国の丘歴史資料館に確認したところ、この鏡は現在では(伝)須玖岡本出
土という扱いになっているそうです。前に(伝)が付くということは疑問の余地があると
されていることになります。この問題は発掘当時に専門家としての目で確認した人が
いない以上、所詮水掛け論の域を出ないのではないかと思われました。

 以上の次第で、?(き)鳳鏡がD地点出土であることを前提として卑弥呼の墓がD地
点の可能性が極めて高いとした前メールの結論は、一旦白紙に戻したいと思いま
す。

報告書等の再検討から得た私の推定
 ?(き)鳳鏡の検討をしていくうちに私としては思いもかけなかった事実を再認識する
ことになり、それによって新たな可能性を得ることになりました。結果から述べます
と、やはり須玖岡本遺跡は有力候補地であると言わざるを得ないように思います。一
番の理由は、出土した鏡は前漢の様式であることは疑う余地がありませんが、副葬
された時期は大まかな推定の域を出ないと言うことです。それを補強するのが土器
等による編年なのですが、これについては何度も述べましたように、絶対年代の基
準とするには不確かな要素が大きいことがあり、決め手に欠けるのは否めないと思
います。

 また、鏡が前漢の様式であることは疑問の余地がありませんが、鏡が造られた年
代が前漢に限られるのかと言う点は明確には言えないのではないかと考えておりま
す。我々の周囲の様々な物を考えてみても、新しいものと古い形のものが並存する
ことはそれ程珍しくありません。最新流行のスタイルの人と和服の人が並んで歩いて
いてもそれ程奇異に感じることはないのではでしょうか。また、同じ人がその時の気
分などで新旧いろいろなものを使い分けるということも普通に行われていると思いま
す。同様に考えると、鏡も新旧の様式が平行して使われることも考えなければならな
いのではないでしょうか。鏡の様式は作られた上限を示す事はできても下限は容易
には分からないと言うのが実際ではないかと思います。

 鏡に限らず、時代や場所、或は集団によって様式が異なったり、互いに影響を受け
ると言うような事は大いにあり得ることだと思われます。そう考えると物の形式による
編年は一応の目安として参考にするべきではありますが、それに捉われ過ぎるとか
えって本質を見失うことになりかねないような気がします。どのように編年の技術が
進んだとしても、物の形式による編年を主たる基準として絶対年代を割り出すことに
は限界があることを、先年の国立歴史民俗博物館による放射性炭素に基づいた年
代測定が示しているのではないかと思います。このことは単に弥生時代が500年遡る
可能性を示しているだけではなく、全てのものについて今までの年代判定の見直しを
迫っているものではないかと考えます。

 見直した結果、時代が早くなるものもあれば、遅くなるものがあってもなんら不都合
はないのではないでしょうか。むしろ、国立歴史民俗博物館の発表以後、なんでも古
く持っていこうとする一部の動きがありますが、丹念に一つずつ科学的に測定しなお
すことからやり直さなければいけないのではないかと言う気がしております。尤も、こ
れは一介の在野の物好きの手には負いかねますが。

 次に、日本列島の住人には新しいことを受け入れることに積極的な面が見られる
のと同時に、古式を尊ぶという一面も根強くあるということを挙げたいと思います。人
の葬送のやりかたは簡単に新しいやり方に代るには馴染みにくい分野だと思いま
す。それは古代においても現在とそれほど変わらなかったのではないかと想像しても
それ程見当違いということにはならないように思います。偉大な指導者であれば、よ
り古いやり方で弔うということもあり得たのではないかと思います。まして、卑弥呼が
親交した魏は、秦や漢の制から周の古制に帰ることに努めた王朝であります。その
影響を受けて古式を尊んだと言うことも考えられるのではないでしょうか。

 私には以前から倭人伝の記述の中で腑に落ちない一節がありました。卑弥呼の葬
送に関する部分で、「卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩。徇葬す
る者、奴婢百余人。」とあるのは皆さん既にご承知のことと思います。これが一部の
邪馬台国近畿説の方々が言われるような巨大な前方後円墳を指すのでない事の説
明は繰り返しませんが、大きさについては径百余歩とあって、高さの記述が無いこと
が気持ちの隅に引っかかっておりました。直径30m程度の円墳だから高さは自ずか
ら決るという理解をしつつも、今一つしっくり来なかったのであります。

 今回須玖岡本遺跡の検証を進めるうちに、倭人伝に記載されている卑弥呼の冢は
低い円盤状の土壇ではないかとの考えが浮かびました。D地点にありました大石は、
中山博士の報告書にありますように、30cmほどの高さの低い土壇の上に乗るような
形であったと考えられており、奴国の丘歴史公園にもそのような説明図があります。
発見当時はそのような形であったとしても、埋葬当時は王墓の上には大石を覆うよう
に墳丘があったと最近では考えられているようなので、私もそうかと思っておりまし
た。が、大石は古くから怖れられていたという村人の話から、大石はそこに置かれた
当時から露出していたと見たほうが良いのではないかと思い至りました。耕作等で墳
丘が少しずつ削られていき大石が露出したのであれば、祟りがあるとした報告書に
あるような畏れ方は、説明し難いのではないかと思います。

 大石に寄り掛かるように立てられていた別の石は何らかの標識のようなものと考え
られなくもありません。そのように考えると、倭人伝に冢の高さの記述がない点も難な
く理解できると思います。低い土壇を築いて埋葬し、その上に支石墓に似せて大石を
置き、傍に別の石を置いて墓標としたのではないかと考えました。とすれば「径百余
歩」の冢とは、径百余歩の低い土壇であったことになるのではないでしょうか。もしそ
うだとすれば「大いに」と言う意味が説明できなくてはなりません。中山博士の報告書
には大石は花崗岩で、その付近の石とは異なる特徴を持つ、と記載されております
ことから、どこかから大石を運んだと考えられます。運ぶ作業は大変なものではなか
ったかと想像されます。そのことを「大いに冢を作る」と記述したと考えれば旨く説明
できるように思うのですが、如何なものでしょうか。

 今回須玖岡本遺跡の検証を進めるうちに、注目すべき報告がされていたことに改
めて気がつきました。1990年の夏から秋にかけて行われた須玖・岡本遺跡の第7次
調査において、王墓の西北30mほどの場所で多くの甕棺を含む墓群が発見されたの
です。この辺りでは甕棺を含む墓群自体はそれ程珍しくもありませんが、ここで見つ
かった墓群は自然地形に埋葬されていたのではなく、全体に盛り土を行った上で、そ
の盛り土を切り込む形で埋葬されていたのです。盛り土は一種の墳丘と考えられ、
第7次調査の報告では墳丘墓を確認したと特記されております。

 墳丘と言ってもすぐに想像されるような大規模なものではなく、推定された規模は平
面形が18×25m前後、甕棺の位置や壊れ具合から想定された盛土の高さは2m程
度のようです。この周囲をめぐると思われる溝の一部も見つかっており、周溝を廻ら
せた墳丘があったと推定されています。限られた範囲ですが甕棺18基、土壙墓2基、
そのほか数基の墓壙が確認されております。残念なことに、この調査も住宅の立替
に伴って行われたもので、遺構全体の調査には及んでいないため、残りは推定する
しかありません。

 なぜこの比較的小規模の墳丘に注目されるのかと言いますと、須玖岡本遺跡が含
まれる春日市域からは今までのところ類似の墳丘墓は見つかっていないのです。通
常見つかる甕棺は自然地形を切り込んで埋葬されているのですが、7次調査で見つ
かった墳丘は埋葬用に特に作られたと考えられます。後の時代の版築のような本格
的なものではありませんが、それでも何層かに土を突き固めて盛り土を行ってあった
ようです。調査に入る前は平らになっておりましたので墳丘は全く予想されていなか
ったようですが、版築状の土層の重なりが見つかって埋葬当時は墳丘があったもの
と判定されることになりました。TKさんのメールにある「近在の同時期の墳丘墓(特定
集団墓)」とは、このことを指しているようです。

 築造の時期としては王墓との土器の共通性から、王墓と同じ時期と考えられるよう
です。この付近では見られない墳丘墓と言うことで注目されているのですが、私が注
目したいのは墳丘もさることながら、この墳丘が特定の一人を埋葬するために作ら
れたものではなく、ある集団の埋葬を行うために作られたのではないかと見られるこ
とです。王侯クラスの人の埋葬用に墳丘が作られるのであれば、それ程注目するに
は値しないかもしれませんが、集団の埋葬用に墳丘を築いたとなると事情は少し違
ってくるように思います。この付近は元々春日丘陵の北端部に位置しており、集団の
墓地用にわざわざ墳丘を作る意味は無く、盛り上がった場所が必要であればいくら
でも自然地形の中に適当な場所が見つかると思われるからです。ある集団のために
特に作られた墳丘、と考えて私は、はっと思い至りました。

 私がはっとしたのは、卑弥呼の葬送に関しての今一つの「徇葬する者、奴婢百余
人」と言う記述が頭に浮かんだからであります。この記述に関しては以前読んだ頃
は、当時は残酷なことをしていたのだな、と言う以上の思いはなかったのであります
が、今回、この集団墓は徇葬された人々のためのものではないかと思い至ったから
であります。大石の下に埋葬された卑弥呼を守るように程近くの場所に墳丘を築き、
徇葬する人たちを葬ったのではないでしょうか。或は倭人伝の「大いに冢を作る」と言
う記述は徇葬者用の冢のことも含まれていたのかもしれません。

 私の推定の一つの裏付けとして、副葬品の乏しさをあげることができます。確認で
きた18基の甕棺のうち10基が完全に掘り出されたのですが、その中から見つかった
副葬品は一つの甕棺内から鉄剣、今一つの甕棺外から鉄矛、もうひとつの甕棺内か
ら石鏃が出土しただけです。北部九州一帯から見つかる甕棺墓は副葬品が見つか
らないものが大半であることを考えると、副葬品があるだけでも注目されるようです。
これまでに耕作などで墳丘が削られたりして壊された甕棺やまだ確認されていない
甕棺がかなりあると思われることから、これだけで判断する事は難しいのですが、そ
れにしてもわざわざ墳丘を築造して集団を葬った割には副葬品が乏しい事は否めな
いと思います。

 集団墓と副葬品からは倭人伝の次の記述が思い出されます。
 「王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。唯男子一人
有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳に設け、常に人有
り、兵を持して守衛す。」

 集団墓に葬られていたのは婢千人の内、特に卑弥呼の傍近くにいた人、見つかっ
た副葬品は守衛が持っていた兵器、と考えてみました。少々出来すぎのような気もし
ないではありませんが、少なくとも倭人伝の記述とは矛盾しないようです。鉄剣や鉄
矛は当時の守衛の持ち物としては立派過ぎるかもしれませんので、或は卑弥呼に近
い侍大将クラスの人物も徇葬されたのかもしれません。尤も、守衛が卑弥呼の代わ
りに兵器を持っていたと考えれば、立派過ぎる持ち物でも説明は出来るようにも思い
ます。集団墓に武器と共に埋葬された人物像については材料も乏しく、これ以上の
深入りは避けたいと思います。が、副葬されていた武器についてみますと、王墓の甕
棺内外から銅剣・銅矛が出土し、王墓と同時代と考えられている集団墓からは鉄剣
や鉄戈が出土していることから、既に実用上は鉄の武器の時代になっていたと思わ
れるのに、王墓に副葬されたのは時代が遡る銅剣類であったことになります。武器
の副葬状況も、古制によって葬られた卑弥呼を証言しているのではないでしょうか。

 また、この集団墓と王墓との間には甕棺は今までのところ見つかっていないようで
す。王墓と、王墓から少し離れて王墓を護るように配置された(徇葬者の)集団墓と
いう位置関係になると思います。王墓や集団墓の規模がはっきりしないので何とも言
い難いのですが、或は王墓と集団墓は接していたのかもしれません。

 もし私の推定が正しいとすると、当時の最先端の文明がある都と呼ぶに相応しい
場所で、倭人伝の記述による、位置関係、出土物、また、地名や地場の伝承など全
てが旨く説明できるように思うのです。只一つ問題となるのは従来の編年による年代
判定となるのですが、依然として土器を主体とした編年に、日本においては絶対年代
の物差しという役割を負い続けさせるのでしょうか。今までに営々と積み重ねてこら
れた先人達のご努力には敬意を払いつつも、編年は重要な脇役ながら、主役にはな
り得ないのではないかと考えております。皆さんのご判断は如何でしょうか。

 私なりにここまで詰めることが出来ましたのもTKさんから頂いたメールのお陰で、
一層の検証作業を進めることができたからです。まだお会いしたことがないTKさんに
厚くお礼を申し上げたいと思います。

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参考文献
三国志(魏志倭人伝) 陳寿
明治三十二年に於ける須玖岡本発掘物の出土状況 中山平次郎 考古学雑誌 巻
12
筑前須玖史前遺跡の研究 京都帝国大学
九州北部に於ける銅剣銅矛及び弥生式土器と供出する古代鏡の年代に就いて 富
岡謙蔵 考古学雑誌 巻8
鹿部と須玖 古谷清 考古学雑誌 巻2
須玖岡本遺跡 春日市教育委員会
邪馬台国論争 原田大六 三一書房
大宰府は日本の首都だった 内倉武久 ミネルヴァ書房
福永晋三 私信



第17号 女王国の検証(2)









































































































































































































































































































































































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