No7:邪馬壹國(4)
この辺りで
倭人伝全文の読み下し文(古田武彦氏による)をご紹介しておきます。
お時間のあるときにじっくりとお読み頂ければと思います。尚、MS社のWord2000で
はきちんと表示されるのですが、メールやWebでは文字の表示が崩れる場合がある
ようです。ご希望の方には添付ファイルでお届けしますので、発行者までお知らせく
ださい。また、以前のメールは削除してしまったが今一度読み返したい、と思ってお
られる方は「
科学の目で見えてきた日本の古代」のホームページからバックナンバー
の確認ができます。
いわゆる邪馬台国論争
前メールまでで倭人伝を記述に従って素直に読めば邪馬壹國(女王国)にどのよう
に行き着くかということを説明いたしました。
いわゆる邪馬台国論争は倭人伝の「南、投馬國に至ること、水行二十日。」の読み
方辺りから混乱してくるようです。魏使は邪馬壹國まで行っていないとか、女王には
会っていないとかの論が少なくありませんが、それは不彌國の次にある投馬國を傍
線行程とは見ずに主線行程と見て、不彌國から水行二十日で投馬國に行き、論者
によってはそれから更に水行十日、陸行一月を掛けて女王国に至る、とされている
ためと思われます。多くの場合、倭人伝は前半は里程で後半は日程で記されてい
る、と説明されているようです。
普通に考えれば里程を、7000里、1000里、1000里、1000里、500里、100里と詰め
てくれば目的地は近いと思うのではないでしょうか。そこから日程に切り替えて、水行
二十日、水行十日、陸行一月を掛けて目的地に着く、というような読み方は不自然
だと言わざるを得ないと思います。それまでのそれなりに精緻な記述が、南という方
向を示しただけで途中の様子の記述も無い水行二十日という大まかな記述に変わ
るというのは、恣意的な読み方だといわれても仕方が無いように思います。水行二
十日も掛ければ「邪馬台国」は糸の切れた凧のようにどこまででもさまようしかありま
せん。さすがに南へ「水行二十日」し、更に「水行十日、陸行一月」をかければ南海
に浮いてしまうので、南は東の誤りだとして女王国を関西や関東また東北地方など
に持っていく論も見られますが、いずれも倭人伝の読み方を誤ったものと言わざるを
得ないと思います。女王国の位置は先ず(短里による)里程で書かれ、(確認のた
め)日程を併記してあるというのが自然体の理解であると思います。
実は、「投馬國(薩摩と見られる)」は傍線行程と見ても、最後の「水行十日、陸行
一月」を帯方郡からの総日程とは見ずに、倭国についてからの行程の鍵だとされて
いる論者が少なくありません。関西方面やそれより東に邪馬台国が在ったほうが都
合が良いと思っておられる方々は、女王国直前の「南」は「東」の間違いだとして改定
し、更に「陸行一月」である程度のフリーハンドを確保して、あとをそれぞれの論者な
りの論点で説明をされているようです。魏志倭人伝は誇張や誤りが多いということが
定説化しているため、(納得できる説明があればともかく)たいした説明も無いまま論
者に都合の良い改定を行うことがそれほど不思議とされない状況があります。それ
に慣れた一般の読者の方々をますます混乱させている、と言っては言いすぎでしょう
か。
今まで韓地陸行か水行かということを、くどいと思われるくらいに説明してきました
のも、この点をはっきりしないと皆さんの疑問や混乱が容易に解消されないと思った
からであります。もう皆さんは納得して頂いたと思うのですが、仮に陸行を九州到着
以降と捉え、「南」を「東」に改定し、さらに総里程を無視して「陸行一月」も掛けれ
ば、日本の中で大抵の所にいわゆる「邪馬台国」を持っていくことが出来ると思われ
ます。「陸行一月」の大部分は韓地で消化されていたわけです。「郡自(よ)り、女王
國に至る、萬二千餘里。」という記述を帯方郡から女王国に至る総里程と理解する
限り、女王国は九州の外へ出ることはありえないと思います。
女王国の検証
一応は分かった、では具体的に女王国はどこなのか、という皆さんの今ひとつ釈然
としない顔が見えるようです。残念ながら、「それはここだ」と、ピンポイントで指し示
すことは相当困難です。ですが、断定はできなくても、この辺りではないかということ
は言えるのではないかと思っております。そのことを出土物を含めた別の角度から
検証してみることにしたいと思います。
と書きますと古代史に詳しい皆さんは、例の鏡のことだな、と思われるかもしれま
せん。勿論鏡のことも取り上げなければ納まらないと思います。が、その前に倭人伝
の中から手掛りになりそうな、物に関する記述を検討してみることにしたいと思いま
す。
取りあえず倭人伝に従って手掛りになりそうな部分を抜き出してみます。
(1)「兵に矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨
鏃なり。」
(2)「其の死には棺有るも槨(かく)無く、土を封じて冢(ちょう)を作る。」
(3)「宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有り、兵を侍して守衛す。」
(4)「今、汝を以って親魏倭王と為す。金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して
仮授す。」
(5)「難升米を以って率善中朗将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、」
(6)「今、絳地(こうち)交龍絹五匹・絳地?粟?(しゅうぞくけい)十張・?絳(せんこう)五
十匹・紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地句文錦
(こんじこうもんきん)三匹・細班華?(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五
尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各(おのおの)五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛
利に付す。」
(7)「卑弥呼以って死し大いに冢を作る。径百余歩。」
一番分かり易いのが、(4)です。卑弥呼に下された親魏倭王の「金印」が出てくれ
ば文句なしなのですが、僥倖に期待して先に進まないと言うわけには行かないでしょ
う。また、(5)の難升米と牛利に下された率善中朗将及び率善校尉の「銀印」につい
ても同様です。
で、他のものについて順次検討してみたいと思います。まず、(3)に「宮室・楼観・城
柵」があり、そこには常に兵が守衛しているとあります。「宮室・楼観・城柵」の跡が発
掘されれば有力な手掛りになります。近年発掘され注目を集めた吉野ヶ里は、この
条件を満たしているように思われます。さらには、近畿では唐古・鍵遺跡など以前か
ら見つかっていながら、九州では発見されていなかった環濠集落、それも現時点で
は日本最大の環濠集落が九州の一角から発見されたことで、弥生時代の大きな環
濠集落の存在は近畿の先進性を示すものと思われてきた通説に対する大きな反証
となりました。他の条件も満たせば邪馬台国の有力候補ということになるのですが、
しばらく保留して先に進んで見ましょう。
No7-2:邪馬壹國(4-2)
次に(1)を見て下さい。「矛・盾・木弓・竹箭(鉄鏃、或は骨鏃)」が出てきます。ここ
で「鏃」は矢尻のことです。この内、盾・木弓・竹箭は湿気の多い日本ではよほど条
件に恵まれない限り現在まで残ることは難しいと思われます。では矛・鉄鏃はどうで
しょうか。
まず「矛」から見てみることにしましょう。弥生時代の遺跡からは多くの銅矛が出土
していますが、
全国の銅矛の出土状況の分布には大きな特徴があります。図をご覧
頂けば明らかなように、その中心は筑前(福岡市一帯)であることが明白で、筑前か
らは大量の実物が出土しています。また、「銅矛」が生産されていたことを示す鋳型
もすべて筑前の出土です。「筑紫矛」と名前がある通り、矛の本場は筑紫であること
は疑いありません。それは、細矛、中細矛、中広矛、広矛と呼ばれているもののどれ
をとっても例外はありません。何よりも特徴的なことは、近畿の弥生時代の遺跡から
は「銅矛」の出土は皆無なのです。鉄に比べると腐りにくいため保存され易いと考え
られる「銅矛」が、近畿から一つも出土せず北部九州から集中的に出土することは
女王国が九州にあったことの一つの裏付けであるように思います。
次に「鏃」を見てみましょう。実際の狩や戦闘場面では弓矢が威力を発揮したと思
われますが、金属の鏃はそれまでの石や骨の鏃よりも一層効果的であったことは疑
いありません。石鏃や骨鏃に代わるものとして最も早い時期と見られる金属の鏃が
出土したのは福岡県の今川遺跡で、縄文時代最晩期と弥生時代初期の土器が一
緒に出土した地層から、鉄鏃と銅鏃の両方が出土しています。この時代の金属の鏃
は極めて少なく同じ層からも石鏃が沢山出土していることから、大半が石鏃の使用と
いう中で金属の鏃が(貴重品として)限定的に使われ始めた様子を窺うことができる
と思います。
弥生時代になって金属の鏃の使用が増えていったと考えられますが、それは各地
で同じような増え方をしたのではなく、地域差があったことが出土状況から分かりま
す。
鉄鏃・銅鏃出土状況表をご覧ください。弥生時代の遺跡から全国で鉄鏃・銅鏃合
わせて約1300点の出土がありますが、鉄鏃についてみると全国では約900点が出土
しています。大半は弥生後期の出土で(中期は60点)、そのうち7割近い約600点が
九州からで、近畿からは約100点と九州の6分の1の出土にすぎません。これに対し
て銅鏃は全国で約350点が出土していますが、九州は35点と鉄鏃に比べ桁違いに少
ないのに対し近畿は111点と鉄鏃とほぼ同数が出土していることが特徴的です。
九州での出土状況からは、弥生初期において鉄鏃と銅鏃の両方がほぼ同時に使
われ始めたが、程なく鉄鏃に重点が移り銅鏃はあまり使われなくなったことが分かり
ます。また、九州における時代別の変遷から、弥生中期になると石鏃が少なくなり鉄
鏃の時代を迎えたことがわかっております。これに対し近畿では(石鏃中心の時代
が長く)金属の鏃の出土絶対数が少ないだけでなく、かなり遅い時期(弥生末期)ま
で鉄鏃と銅鏃が併用されていたことが窺われると思われます。また、京都を除いて
近畿では鉄鏃よりも銅鏃のほうが後の時代(弥生晩期)まで多く使われていたことが
分かります。さらには、銅矛に比べるとはるかに小さな銅鏃が出土することは、別の
角度から銅矛の不在を証言しているように思います。
鉄の文化圏
韓伝に「韓、?(わい)、倭、従いて鉄を採る。」「中国で銭を用いるように取引には皆
鉄を用いる。」とあるように、いわゆる邪馬台国は鉄の文化圏でもありました。武器
の石器等から鉄器への移行も日本列島内で最も早かったと考えられます。そこで、
鉄鏃を除いた
鉄製の武器の出土状況をご覧頂きたいと思います。
まず鉄剣ですが、全国で確実なところで138点が出土しています。このうち九州から
約4分の3の104点が出土し、九州以外の全国の出土は合わせても34点に留まって
おります。次に鉄戈(てつか)を見てみることにします。鉄戈は北部九州だけに出土
する大型の鉄製武器で、現在20点が出土していますが、うち15点が福岡からの出
土です。この武器の製作地につきましては他に例がないことから長年九州と考えら
れてきましたが、近年韓国の慶州の近くから古い時代の鉄戈が出土し、見直しの必
要が言われております。古さをとれば韓国、出土数から見れば九州ということで論議
が注目されます。いずれにせよ、製法的には芯部には柔らかな鉄、刃部には硬い鉄
を合わせて鍛えた可能性が高いと言われており、本質的には後の日本刀と同じ作り
方です。当時としては格段に進んだ製法であると思われます。
次に鉄矛です。北部九州からだけ15点出土しています。鉄剣などに比べて鉄矛の
出土例が少ないのは、従来鉄剣とされていたものの中に長い柄をつけて槍としたも
のがあるのではないかという見方もあります。
次に(6)の中から五尺刀に注目してみましょう。柄頭に環を作りつけた特長ある刀
を素環頭(すかんとう)大刀または素環頭刀子(とうす)といいますが、卑弥呼が貰っ
た刀も
素環頭大刀の類と考えられております。弥生時代の出土は大小あわせて51
点ありますが九州から42点が出土しており、内32点が福岡からの出土です。近畿
からはわずかに2点が出土しているだけです。
素環頭大刀・刀子と共に重要な鉄製武器に
鉄刀があります。全国で46点のうち九
州から27点が出土しています。
以上鉄製武器の出土状況を見てまいりました。近年各地で発掘が進み、出土数も
増えていますが弥生時代においては鉄製武器が北部九州から集中出土する傾向は
変わらないようです。鉄の文化、中でもその中心をなすと思われる鉄の武器の出土
状況は弥生時代中期までは北部九州中心に分布し、弥生後期に入って西日本各地
にわずかに広がる傾向が見られるものの、鉄剣・鉄刀・鉄鏃などが副葬品として各
地において普遍的に埋納されるようになるのは弥生時代の終末期から古墳時代に
なってからであります。
こうした出土状況から普通に判断する限り、卑弥呼の時代における鉄の先進地域
は北部九州であることは明らかであると思います。北部九州に本拠を置いた勢力
が、半ば独占的に鉄を確保することで他の地域より有利な立場にあったと考えられ
るのではないでしょうか。古墳時代に入って状況が一変することは、卑弥呼の時代
の少し後に鉄をめぐる構造的な変化が起こったことを示唆しているのかもしれませ
ん。
一方、通説では西日本(近畿以西)ではほぼ同じ時期から同じように鉄が普及して
いたと考えることになっているようです。そのような考えの中で、弥生時代において九
州に比べて近畿からの出土が少ないのは、繰り返し使われた(再利用)からであると
か、たまたま近畿では保存条件が悪かったため残っていない、とか言う説明がされ
ているようです。しかしながら、古墳時代に入ると九州集中が薄れ各地の王墓から
沢山の鉄製品が出土することに対しては、保存条件の変化など納得できる説明は
無いようです。
また、弥生時代の鉄器が北部九州以外の地からあまり出土しないことに対して、考
古学者の間では「現在の出土数によって過去の存在の有無を論じてはならない」と
いうことが言われているようです。将来どのようなものが出土するか分からない、とい
う訳です。このような理屈を受け入れるならば、現在までの状況はほとんど意味が無
いものとなってしまいます。また、膨大な時間と費用を掛けて日本列島全域について
調査でもしない限り何も言えない、と言うことになるのではないかと思います。
確かに出雲・荒神谷から青銅器が大量に出土したようなことが無いとは言えませ
ん。荒神谷からの大量の青銅器の出土は、古代出雲を神話の世界に閉じ込め、歴
史から外してきた戦後史学にとって大きな警鐘となりました。しかしながら、少しでも
可能性があれば懸命な調査が行われてきた近畿地方と、発掘・保存と言うことに対
する力の入れ方が全く違う近畿以外の地方とを同列に並べ、それでも足りなくて、将
来出土する(かもしれない)ことを仮定して(→そのうちきっと出てくる)、現在の状況
を認めないのは他に意図があるのではないかと疑われても仕方が無いように思いま
す。現在の状況をありのままに受け止めないために「現在の出土数・・云々」と言わ
れているとすれば本末転倒と言わざるを得ないのではないでしょうか。
倭人伝の絹
次は(6)の中の絹(錦)です。日本全国の弥生時代の遺跡からの
絹の出土は24例
報告されていますが、内22例は福岡県で残りの二例は佐賀県と長崎県です。近畿か
らの出土例はありません。ここでも北部九州の優位は動きません。
倭人伝には魏からの下賜品にも、倭からの献上品にも錦類(絹織物)が多く記録さ
れています。古代の絹はその織り方の緻密さや糸の断面積の形状などから産地が
ほぼ特定できるようで、華中系と楽浪系とに大別できるようです。北部九州から出土
した絹は材質的には華中系に近いようですが、織り方が華中系や楽浪系に比べて
荒いことから日本製と考えられるそうです。
中国では殷や周時代の遺跡から絹の出土がありますが、日本で一番古いのは福
岡市の有田遺跡から出土した細形銅戈に付着していた平絹で弥生前期と見られま
す。絹は古代中国においてはその製法や原料としての蚕、などの国外への持ち出し
が禁止されておりました。そのような中、弥生前期に華中系の原料(蚕)が伝わった
と考えられるわけですが、どのようにして北部九州に伝わったのかということは未だ
解明されておりません。春秋・戦国時代の頃に移住してきた人が持ち込んだと考え
れば説明できるような気もしますが、今後の課題ということにしておきたいと思いま
す。いずれにせよ、日本列島の中で弥生時代における絹の先進地帯も(鉄同様)北
部九州であったことは疑えません。
今まで見てきました範囲では考古学的に見れば倭人伝の記述と北部九州から
の出土物は一致することを示しております。文献の記録と考古学的出土物が一致
することは即ち、女王国が北部九州にあったことを無言で証言しているのではないで
しょうか。
卑弥呼の墓
鏡に取り掛かる前に今ひとつ確認しておきたいと思います。それは(2)と(7)にでて
くる「冢(ちょう)」です。「冢」は「塚」と同じものと考えてよいと思いますが、三国志の
中でも「墳」とは明確に区別されています。「墳」が人工の山であるのに対し、「冢」は
棺が入る程度の封土を言います。当時女王国では人を葬るのに際し、棺に入れ(棺
を納める槨は無く)棺の上から直接土を封じて冢を作る、と記されております。これは
ある程度の身分がある人に対しての埋葬形態だと考えられます。棺がどのようなも
のであるかについての記述はありませんが、北部九州の弥生遺跡から多く出土する
甕棺の可能性が高いと思われます。
卑弥呼の死に際しては、古田武彦氏の読み下し文では、大いに冢を作る、となって
おりますが、私は、大きな冢を作る、と読んでもよいのではないかと考えております。
「径百余歩」というのがどの程度の大きさなのか検討する必要がありますが、ここで
再び問題となるのが一歩の長さです。
3号メールで1歩を6尺(約138センチ)とする
通常の歩に対し、1歩が25センチメートル程度の短歩の存在の可能性を上げてお
きました。この場合どちらでしょうか。
まずその形ですが、「径百余歩」という記述からは直径が百歩程度の円墳または
円冢と受取るのが自然な理解だと思われます。これを通常の歩で考えると直径140
メートル弱程度の巨大円墳ということになりますが、そのような巨大円墳は全国どこ
を探してもありません。ここはやはり短歩で考えなければならないでしょう。その場
合、直径約25メートル程度の「円墳」または「冢」ということになります。これは「冢」と
しては確かに大きいですが、円墳というほどではありません。倭人伝の記述を「大き
な冢」と読めばまさにぴったりと言う感じがします。
通説では、「径百余歩」を長手方向の長さが150メートル程度の前方後円墳と理解
して、近畿地方を中心に卑弥呼の「墳」探しが古代史の一つのテーマとなっている感
があります。が、もし卑弥呼の墓が前方後円墳(最近ではこの呼び方自体に議論が
ありますが、ここでは一応従来からの呼び方に従っておきます)であったとすれば、
それを「径百余歩」と言うような一言で言い現わせるはずが無く、また、倭人伝には
はっきりと「冢」と書いてあるものを「墳」の中から探すという方法に何の疑いも持た
れていない様子が腑に落ちません。この点でも通説は無理をしていると言わざるを
得ないと思います。
では直径約25メートル程度の「冢」が北部九州にあるのか、と言う問いに対して
は、例の吉野ヶ里にある墳丘墓(径3〜40メートル程度)を含め、北部九州に多く見
られる「冢」の内いくつかが候補として挙げられるのではないでしょうか。とはいえ卑
弥呼の墓を探すのには若干の困難を伴います。
という訳は、卑弥呼の伝承自体が残っていないことに示されるように、卑弥呼を祖
先として祀っていた権力はいずれかの時点で力を失ってしまったと考えざるを得ない
と思います。少し踏み込めば伝承を消された可能性も無視できないでしょう。そうした
中で卑弥呼の「冢」も大きさや形が変わってしまっている可能性が無いとは言えない
ように思います。或は(私はこの可能性の方が大きいと考えておりますが)、北部九
州から今までに沢山見つかった甕棺墓の中のどれかが卑弥呼の墓ではないのか、
という目で検討しなおして見ると言うことが一番の近道かもしれません。
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参考文献
三国志(魏志倭人伝) 陳寿
倭人伝を徹底して読む 古田武彦 朝日文庫
鉄の古代史 奥野正男 白水社
絹と布の考古学 布目順郎
ここに古代王朝ありき 古田武彦 朝日新聞社