No10:三角縁神獣鏡(3)

紀年銘鏡(続)
 前号に続き、紀年銘が入った代表的な鏡について検討して見ることにしましょう。中
でも「景初三年」と「正始元年」の紀年銘が入った鏡が注目されます。

 通説では卑弥呼が魏に使いを出した年は、倭人伝に記載されている景初二年は誤
りだとして、景初三年が正しい、とされていることは5号メールでも書いたとおりです
が、改めて書店に並んでいる本を手にしてみますと、年表等を含めて大半が無条件
に景初三年と記載されていますので、このことはもはや既成事実となっており何の疑
いも持たれていないようです。

 通説に従えば、景初三年(239)は卑弥呼が魏に使いを遣わした年であり、正始元
年(240)は魏使が、詔書や銅鏡100枚を含む沢山の贈り物を携えて女王国にやって
きた年です。その紀年銘が入った鏡を見れば、これこそ卑弥呼が魏より貰った鏡で
あると、思いたい気持ちは分からないではありません。果たしてどうなのでしょうか。

 景初三年から正始元年にかけての状況を簡単に説明しますと、魏の明帝は景初二
年12月に急病を発し、景初三年(239)正月早々に死去してしまいます。明帝の死去
に伴い少帝(斉王芳)が直ちに即位しましたが、その年中は喪に服すため工事中の
新宮殿の建設も中止されます。また、新皇帝が位を継承したその年はそのまま先帝
の年号を踏襲するという、漢の武帝以来の慣例に従い、引き続いて景初三年の年号
が使われました。そして、景初三年12月に詔勅が発せられ、先帝の喪明けに伴い、
停止していた諸公事の再開と、年号を正始に改元することが宣せられました。

 以上の状況を踏まえて通説に従って流れを追ってみると次のようなことになります。

 卑弥呼は喪中である景初三年6月に使いを送り、魏朝は喪が明ける直前の12月に
詔書を発して、卑弥呼を親魏倭王に制紹すると共に、卑弥呼に対する答礼の品々を
用意し、喪が明けた正始元年に使いを使わして贈り物等を女王国に届けたことにな
ります。

 すぐにお気づきのように色々と不自然な点が出てきます。卑弥呼は何の目的で使
いを遣わしたのでしょうか。倭人伝には「郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求
む。」とあります。喪中で諸公事を停止している天子に対して「弔問」ではなく「朝献」し
たいと帯方郡の太守に願い出たことになります。それを受けた太守劉夏は、案内役
(護衛)をつけて都まで使いを送り届けています。平時の朝献使が道中に不安がある
と言うのも腑に落ちませんが、喪中であることを押してまで行う「朝献」にしては、献上
品が「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」と貧弱であることも気になります。

 三国志・魏志・三少帝紀によりますと、喪中とは言え「朝献」された例が無かったわ
けではないようで、景初三年2月に西域から幾重にも通訳を重ねて、火浣布(かかん
ふ:燃えても灰にならない布)が献上されています。これは大変珍しい布で、火をつけ
ると一旦は燃えるのですが、火が消えると真白に光り輝き、まるであく抜きした後の
ようだった、と記述されています。火浣布の西域からの献上は長いあいだ途絶えてい
たため珍しく思われたのでしょう、試した上で百官に披露されています。

 西域からの使いが着いたのは2月であることから考えて、国を出たのは明帝の死
去以前であることは明らかですが、卑弥呼が使いを出したのは6月で、明帝の死去
が伝わっていなかった可能性が全く無かったとは言えないとしても、動向に関心があ
れば死去が伝わっていてもしかるべき時期と思われます。西域からの遣使と同列に
は考えにくいと思います。また、献上品に対する答礼の品々がバランスを失するほど
豪華なことの説明はつきません。

 更には、魏朝は、なぜ喪が明ける直前の12月に、慌しく「親魏倭王」の詔書を発し、
使者の難升米および牛利に対し率善中朗将、率善校尉の位や銀印青綬を授け、引
見してねぎらうことにしたのでしょうか。また、使者は喪中にもかかわらず半年もの
間、何のために都に留まっていたのでしょうか。しかも留まった挙句、下賜された(は
ずの)品々は使者が持ち帰らずに、魏の使いが女王国まで持ってくることになったの
はご承知の通りです。

 通説ではどうにも説明がつかないことは明らかだと思います。卑弥呼の使いが遣わ
された年を、倭人伝の記載通り景初二年とし、その時の状況を多少の想像を交えて
述べると次のようになると思います。

 景初二年を迎えて、魏の明帝は目の上のたんこぶ的な存在であった公孫氏に対し
て思い切った戦いを仕掛けます。それを知った卑弥呼は、大勢を見極めた上、いち
早く6月に戦中の見舞いのため使いを遣わします。魏の優勢は明らかになりつつあり
ましたが、まだ戦いの最中でしたから、魏の明帝は喜び、使いはしばらく都に留まる
ことになります。9月に公孫氏が滅ぶと都は戦勝気分に沸きかえったことでしょう。や
がて、かなりの将兵が帰還し色々な戦勝行事が行われたことでしょう。中には卑弥呼
の使いも招待されたものもあるかもしれません。その場合、難升米や牛利は精一杯
お祝いの気持ちを表したと思います。

 そのような華やかな雰囲気の中で、卑弥呼が「親魏倭王」に、難升米および牛利が
それぞれ率善中朗将と率善校尉に叙されることが決まります。平行して女王国およ
び卑弥呼に対する贈り物が用意されます。物によっては準備に時間が必要であった
と思われます。準備も整い、贈り物は丁寧に梱包され、新年には華やかな贈呈の儀
式が行われる段取りになっていたはずです。そのときに突然、明帝が急病を発し、程
なく亡くなってしまいました。36歳と記されています。

 全ては中止されました。

 難升米および牛利は弔意もそこそこに、手ぶらで、そそくさと帰ったことでしょう。そ
して、1年間は全ての公事が行われず、喪が明けた正始元年に、今度は魏使が女王
国まで詔書や贈り物を持ってくることになった訳です。明帝の時に用意された詔書は
(新帝になっても)書き改められずに、そのまま下されたと思われます。

 という流れを頭に置いて、鏡の話に戻りましょう。景初三年という銘が入った鏡が二
ヶ所の古墳(島根県、大阪府)から出土しています。どちらも不鮮明な部分があるた
め正確には「景◯三年」とするべきですが、鏡の様式等から考えて「景初三年」と読
んでも差し支えは無いと思います。また、正始元年の銘が入った鏡が3ヶ所(群馬
県、兵庫県、山口県)の古墳から、出土しています。これも、どの鏡も「正」の字は破
損したりしているので正確には「◯始元年」と読むべきですが、同様に「正始元年」と
読んでも差し支えは無いと思います。通説では、年号だけから見て、これらの鏡は卑
弥呼が貰った鏡である(或いは最有力な鏡)とされてきました。

 しかしながら、倭人伝をそのまま読めば、贈り物は景初二年の暮までに一旦(丁寧
に)梱包されています。その梱包を開いて景初三年や正始元年にできた鏡を入れな
おす、ということが行われる可能性は考えにくいと思います。鏡にとっての生命は、き
れいに写る、ということであることは異存がないと思います。三角縁神獣鏡の大半に
は年号が入っていないことを考えれば、裏側の年号に意味を持たせる、と言うことを
主眼にして作られたり、贈り物として選ばれる、ということが行われたとは想像しにく
いと思います。そう考えると、これらの鏡が仮に魏で作られたものであったとしても、
卑弥呼が貰った鏡である可能性は限りなくゼロに近い、と言えるのではないでしょう
か。

 以上述べましたことから、「景初三年」や「正始元年」の紀年銘が入った鏡が卑弥呼
が魏から贈られた鏡である可能性は殆ど無いことがお分かり頂けたかと思います。
同時に、紀年銘から見て、これらの鏡が卑弥呼と同じ時代に作られたことは疑いにく
いと思われます。では、これらの鏡はどのような鏡なのでしょうか。

三角縁神獣鏡の疑問(謎?)
 三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏朝から贈られた鏡であるとした場合、腑に落ちないこ
とが幾つかあります。まず、倭人伝には100枚の鏡を贈ると記載されていることは、す
でにお馴染みの通りですが、現在までに出土が確認されている三角縁神獣鏡は、確
実なところで500面以上です。好事家が退蔵しているものや、未発掘のものを含める
と700〜800面くらいはあるのではないか、と言われております。1000面以上あるので
はないか、という人も居るくらいです。

 いくらなんでも多すぎる、というのが大きな疑問ですが、これに対して、今まで筋の
通った答に出会ったことがありません。

 次の疑問は、これが最大の疑問ですが、三角縁神獣鏡は中国では一面も発見さ
れていないのです。三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡であれば、魏の領域であった中
国北部から、少しくらいは見つかってもよさそうなものですが、中国北部はおろか南
部を含めた中国全域から、現在まで、文字通り一面も発見されていないのです。日
本でこれだけ大量に発見されていながら、本家本元である(はずの)中国で一面も見
つかっていないというのは、極めて理解し難いところです。

 このことは歴代の大家や権威と言われる方々の悩みでもあったようで、そのうち見
つかるのではないか、という一抹の期待もあったようですが、どうも難しそうだ、という
ことになって登場してきたのが、特鋳説と言われるものでした。つまり、卑弥呼に贈ら
れた鏡は魏朝が特別に作らせたものだというわけです。

 証明されない仮説が次々に出てくるのが邪馬台国近畿説の特徴でもありますが、
特鋳説も容易には成立しないことは、次のことでお分かり頂けると思います。今一
度、倭人伝をご覧頂きたいと思います。明帝の詔書の最後の部分です。「還り到らば
録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重
に汝に好物を賜うなり」とあります。

 (卑弥呼の使者が)還ったならば、贈られたものは記録して受け取った上で、悉(こ
とごと)く国中の人に示しなさい、それによって魏朝が卑弥呼に深く心を注いでいるこ
とを(国中の人に)分からせなさい、と言っているわけです。ここでは贈り物は(卑弥呼
の使者が)持ち帰ることが前提となっていることは明らかです。後日、魏の使いが持
ってくるのであれば、それなりの書き方があると思います。

 それはともかく、悉く国中の人に示すことで魏朝が卑弥呼に深く心を注いでいること
を(国中の人に)分からせなさい、と言う以上、贈られるものは誰が見ても魏から貰っ
たことが一目で分からないと意味を成さないと思います。贈り物の主たるものは(あざ
やかな)絹織物や毛織物であり、7号メールでも触れておりますが、当時の中国の絹
織物は日本のものより木目細かな織物であったようで、女王国の人を感嘆させるの
に十分であったと思われます。

 一方、銅鏡は贈り物としては最後のほうで触れてあることから見て、特別に力を入
れたものであるとは受け取りにくいと思います。また、漢の様式の鏡はすでに馴染み
があった時代です。それらとは明らかに様式が異なる鏡を特鋳するとすれば、その
旨の銘文をどこかに入れておかないと、魏朝から貰ったものであると示して分かると
いう訳にはいかないように思われます。証書の書き振りからすれば、「魏の皇帝から
親魏倭王卑弥呼に賜う」とでも入っていても不思議ではありませんが、そのような銘
が入った鏡は一面も見つかっておりません。

 さらには、中国から出土する鏡は三角縁神獣鏡に比べると小ぶりですが、呉の領
域から三角縁神獣鏡に似た様式の鏡は沢山見つかっております。平縁神獣鏡は外
縁部が平らで三角に盛り上がっていませんが、図案・模様等は三角縁神獣鏡のもの
と良く似ております。また、神獣鏡に似た鏡で画像鏡と呼ばれている鏡があります
が、その中には縁部が三角形になっている鏡もあります。つまり、三角縁神獣鏡の
形式や図案・模様などは呉の鏡との類似性が強いのです。もし魏が特鋳するとすれ
ば、強要したとはいえ漢の最後の献帝から禅譲を受けたことで、王朝の正当性を自
負する魏から見て、格下であり、時には臣従するものの本質的には敵対している、呉
の様式に似た鏡を作ることなど、万が一にもあり得ないのではないでしょうか。

特徴ある銘文
 三角縁神獣鏡は呉の様式に似てはいますが、呉の鏡に比べれば大きくて重いうえ
に、笠松文様と呼ばれる独特の文様などもあり、中国からは一面も出土しないことか
ら、謎の鏡と呼ばれたりもしております。いったいどのような素性を持っているのでし
ょうか。

 実は、それを解く鍵も三角縁神獣鏡の中にありました。上で取り上げました、島根
県の神原神社古墳から出土した、景初三年(正確には、景◯三年)の銘をもつ三角
縁神獣鏡の銘文に、次のような文言があります。通説では景初三年という年号だけ
が強調されますが、全体の文意を読み解くと興味深いことが浮かび上がってきます。

 「景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地命出 ・・以下略」

 この鏡は不鮮明な部分があり、正確には、「景◯三年 陳是作鏡 自有経述 本是
京師 杜◯◯出 ・・以下略」とするべきですが、鏡作りの職人が自らの経歴を述べ
るという点は明確であり、他の鏡には見られない銘文であることから、字画が明確な
部分をもとに、考えられる適切な文字を想定すると上記の字が当てはまり、意味は
次のようになるようです。

 景初三年に陳(製作者の名前)は鏡を作る。自ら経歴を述べれば、本は京師(呉の
領域の揚州の京城に住んだ作鏡師)であり、亡命して杜地(とじ)に至る。

 「杜地」とは耳慣れない言葉ですが、塞がれた行き止まりのような場所を言うようで
す。銘文の意味は、呉にいた鏡作りの職人が、何らかの事情で亡命して、行き止まり
のような場所まで来て鏡を作った、ということになるようです。そうであれば、呉から見
て「杜地」とはどこであるか、ということが次の問題になります。

 これを解く鍵が大阪府柏原市の国分茶臼山古墳から出土した、最も古いタイプとさ
れている三角縁神獣鏡の中にありました。銘文の中に、中国から出土した鏡には見
られない、「海東」という文字があることから「海東鏡」とも呼ばれておりますが、その
銘文は次のようです。

 「吾作明竟真大好、浮由天下◯四海、用青銅至海東」

「浮由天下◯四海」は他の鏡にも見られる文言で、「浮由天下、敖(ごう)四海」と読ん
で差し支えないと思われます。神仙が天下を浮遊し四海に遊ぶ、というようなことを表
すようで、全体の意味としては、「吾は真に大いに好い明竟(鏡)を作る。(神仙のよう
に)あちこち漂い歩き、青銅の持つ(不思議な)力で「海東」に至った。」ということにな
るようです。古代中国では、一見何の変哲もない石ころが、金属に変身するため、青
銅には不思議な力があると考えられていたようです。その青銅の持つ力の導きで(と
うとう)海の東(の果て)まで来た、と言っていることになります。「至海東」という銘文
は滋賀県の大岩山古墳から出土した三角縁神獣鏡にも見られます。

 呉から見て、海の東の果ての行き止まりの場所、としては台湾では近すぎます。
「海東」を日本と考えれば、旨く説明できるようです。何らかの事情で呉から亡命した
人が、各地をさまよった挙句、最終的に東の行き止まりの土地である日本に来て、よ
い鏡を作った、ということであれば納得できるのではないかと思います。

 そのことを裏付ける一つの鏡が福知山市の広峯15号墳から出土しています。斜縁
盤龍鏡と呼ばれる「呉」の様式の鏡ですが、それには「景初四年」という紀年銘が入
っているのです。お気づきのように「景初四年」となるべき年は改元されて「正始元
年」となりましたので、「景初四年」という年号は実在しておりません。このことから見
て、この鏡を作った人は改元されたことを知らなかったと思われます。もしこの鏡を作
った人が魏に居たとすれば考えられないことです。

 遠く離れた日本の地に居たと考えればあり得る話だと思います。というより、他には
理解が難しいのではないでしょうか。

 これに対して通説に立つ方々の一部からは、翌年の年号を入れた鏡をあらかじめ
作っておいたものだ、と言うような説明がされることがあります。しかしながら、この説
明もまず無理であると思います。景初三年がその年限りで、翌年には改元されること
は魏に居た人には周知のことであったわけで、正始という新年号までは分からなかっ
たにせよ、改元されることが分かっていながら前の年号を使うことなど全くあり得ない
ことだと思います。

 次号で詳しくご紹介することになる、中国社会科学院考古学研究所長である王仲
殊氏は両国から出土した銅鏡をよく見比べた上で、鏡の作りや銘文から見て、「景初
四年」銘の鏡を作った「陳」氏と「正始元年」銘の鏡を作った「陳」氏とは同じ人で、遠
く離れた日本にいたため、改元されたことを知らずに「景初四年」銘の鏡を作った
が、後日改元されていたことが分かり「正始元年」銘の鏡を作ったのではないか、と
述べられております。これは十分に首肯できることだと思います。

 今まで見てきましたように、近畿説の立場からは、証明されない仮説が次々に出て
くるのですが、説得力は今ひとつという状況が続く中で、中国社会科学院考古学研究
所長である王仲殊氏の論文が発表されて(発表時は副所長)日本の学会に大きな衝
撃が走りました。日本で言えば国立博物館の館長で、言うならば全国の博物館の収
蔵庫の隅までも見ることができるという立場ですから、日本の学者が中国に出張して
展示室に展示されているものを中心に調べざるを得ないという制約がある中での調
査とは、条件的に段違いの差がある立場の方の論文なのです。その中で、三角縁神
獣鏡は中国製ではない、ということが明確に述べられています。

 論文の内容は従来九州説の立場から述べられてきたことと大差はありませんが、
実際に中国内にある現物を確認した上でのことですから、説得力には格段の差があ
ります。もしかしたら、一つくらいは未だ発表されずに、中国の博物館の収蔵庫の中
などに、埋もれている物があるのではないか、という近畿説の淡い期待に止めを刺
すものでありました。

 次号ではその内容に触れて見ましょう。

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参考文献
三国志 陳寿
三角縁神獣鏡 藤田友治 ミネルヴァ書房
大宰府は日本の首都だった 内倉武久 ミネルヴァ書房
三角縁神獣鏡 王仲殊 著 西嶋定生 監修 学生社



第10号 三角縁神獣鏡(3)








































































































































































































































































































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