No5:邪馬壹國(2)

  さて帯方郡から狗邪韓国まで七千余里を陸行したのか水行したのかという問題で
すが、韓地を陸行して狗邪韓国に至ったのであれば、弁辰涜廬(とくろ)国と狗邪韓
国が界を接していることはすぐに分かりますが、全行程を水行したとすれば狗邪韓
国が倭の北岸であることは分かっても、弁辰涜廬国と界を接しているところまで分か
ったか、ということにつきましては疑問とせざるを得ません。

甕棺で見える韓半島西南部及び南部の状況
  実は韓伝では半島の中央部及び東南部については今まで見てきましたようにかな
り詳しい記述があるのですが、西南部については見るべき記述がありません。その
一帯を含めて馬韓であると思われるかも知れませんが、馬韓は半島の西側中央部
付近にあったと考えられており、南に下がってくるのは後の百済の時代に高句麗に
圧迫されるようになってからであります。当時はまだ西南部までは勢力は及んでいな
かったと考えられます。

  では西南部はどうなっていたかということですが、倭人が居たと考えるのがすんな
りと説明できるように思います。根拠の一つは甕(かめ)棺墓です。ご承知のように甕
棺墓は日本では弥生時代の北部九州を中心に発達した独特の墓制で(他の地域で
は見られない)、素焼きの大型の甕棺に死者を葬るものです。同じような甕棺墓が韓
半島西南部を流れて木浦にそそぐ栄山江の流域を初めとして韓半島の西南部及び
南部一帯から沢山発掘されています。

  甕棺の源流は中国に見られます。中国では甕棺に子供を葬る風習が全土に広ま
りましたがその年代は放射性炭素(「はじめに」参照)による測定の結果紀元前4000
年ごろと考えられます。同2500年ごろには子供だけでなく、成人も甕棺に葬るところ
もでてきました。このころのものは形(合わせ甕棺)が北部九州のものとそっくりのも
のもあります。大きさは子供用のものは全長80センチほど、成人用のものは180セン
チくらいのもあります。中国全土ではその後、この風習は消滅するようです。その理
由としては時代と共に北方系の木槨・石槨・石室等の墓制が浸透したことによる影
響だと考えられます。これまでにわかっている限りでは、最後まで(戦国時代終わり
ごろまで)甕棺の風習が残っていたのは長江河口地域です。

  長江河口地域での甕棺の風習が見られなくなる頃から北部九州で甕棺の風習が
始まったと考えられます。それから遅れて韓半島南部でも甕棺の風習が始まること
を発掘結果は示しております。残念なことに現段階では日本と同様に韓国でも土器
編年が主流で放射性炭素による年代測定は殆んど行われておりませんので甕棺の
風習がはじまる正確な年代はわかっておりません。一応、北部九州では紀元前2世
紀末ごろ、韓半島南部では4世紀ないし5世紀とされておりますが正確な測定が行
われれば今少し古いことが明確になると考えられます。(一部ですがそれを裏付ける
データも得られております)

  韓半島の北部からは甕棺墓は全く見つかっておりません。このことから考えて韓
半島南部の甕棺の風習が、古代中国から韓半島の北部を経由して伝わった風習が
時間を経て残ったものである、とは考えにくいようです。また、長江河口地域から直
接伝わった可能性も考えなければなりませんが、北部九州に比べて時間的にかなり
差があることからそれも考えにくいようです(長江河口地域で風習がなくなって何百
年も後に伝わるとは考えにくい)。尤も、北部九州と韓半島南西部及び南部の甕棺
は多少形が異なっていますがこれは甕棺の作り手の違いとして理解できる範囲だと
考えられます。以上のことから甕棺墓は長江河口地域→北部九州→韓半島南部へ
と伝わったと考えるのが一番理解し易いのではないでしょうか。

  従来、東アジアの文化伝播ルートとしては、中国→韓半島→日本、或は、中国→
日本というような線は考えられても、日本→韓半島という線はあまり考えられてこな
かったようです。少なくとも甕棺に関しては日本→韓半島という流れを考える必要が
あるように思います。

  ここで少し考えて頂きたいことは、墓制というものがそれだけで単独に伝わるもの
なのか、ということです。ごくわずかの例外もないとまでは申しませんが、墓制を守る
人々の移住に伴って伝わるものであると言うことに異論は挟みにくいのではないでし
ょうか。しかも長江河口地域と北部九州との間には広い海が横たわっています。そ
の海を隔てて単に墓制だけが伝わったとは考えられません。必ず人の移住があった
はずです。そうだとすれば、長江河口地域から北部九州へ甕棺文化を伝えた人々の
移住の痕跡があるはずです。

長江河口付近から日本への人々の移住
 中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。

  同様に、韓半島南西部及び南部の甕棺墓は彼の地に進出した(或は元からいた)
倭人の葬祭様式であると考えざるを得ないように思われます。が、残念ながら北部
九州から韓半島南部一帯への倭人の移住は、史料も乏しく呉から北部九州への
人々の移住ほど明確ではありません。その理由としては二つのことが考えられると
思います。一つは元々対馬海峡を挟んで両側に倭人が居たので特に移住の史料等
はないというもので、今ひとつは移住の史料はあったが長い年月のうちに失われてし
まった、というものです。いずれにせよ、当時、半島の西南部や南部に倭人が居たこ
とは以下の二つの史料からも窺うことが出来ます。

韓半島に倭人が居た痕跡
  三国志の時代からはだいぶ後になりますが、継体紀の6年(512年)に百済から使
いが来て任那の国の四県(上??《おこしたり》、下??《あろしたり》、娑陀《さだ》、牟婁
《むろ》)を貰い受けたいとの申入れがあったという記事あります。??守(たりのかみ)
穂積押山は、この地は百済に近く日本からは遠いので百済に賜るのが良い策であ
る、しかし、たとえ百済に合併しても後世の安全は必ずしも保証されないが、まして
百済と切り離しておいたらとても何年も守り得ない、という意見具申を行います。それ
を受けた大伴の大連(おおむらじ)金村は承諾して、物部の大連麁鹿火(あらかい)
を勅使として遣わそうとしますが、麁鹿火の妻が、神功皇后の時代に授けられて以
来の海外の領地を削(さ)いて他国に渡すようなことがあれば後の世まで汚名が残り
ます、と諌めたので麁鹿火は仮病を理由に勅使を降り、他の人が使いとなって任那
の四県を与えた、となっております。

  後でそのことを知った勾兄(まがりのおおえ)皇子(後の安閑天皇)が、隣の国から
の申し入れだと言って軽々しく与えるべきではないとして、百済の使いに対して使者
を出して白紙に返すべく申入れさせますが、百済の使いは、皇太子といっても天皇
の許したことに反対できるはずがない、という趣旨のことを言って帰ってしまいます。
これを聞いた人々は大伴の大連金村と、話を取り次いだ穂積押山(??守)は百済か
ら賄賂を受け取ったに違いないと噂した、と記されています。

  任那につきましては日本府の問題について議論があり、後日あらためて触れるこ
とになると思いますが、ここでは対象となった任那の四県がどこにあったのかという
点に注目しておきたいと思います。岩波文庫の日本書紀によれば、現在の全羅南道
のほぼ全域にあたるとされており、この理解に異論はないようです。とすれば少なくと
も6世紀はじめまでは半島の西南部一帯は倭人の国であったと考えられます。いま
少し踏み込めば、単に倭人が住んでいたということではなく、6世紀初めには倭国の
県(あがた)がありその長(守)がいたということです。倭国の県がいつごろから置か
れるようになったのかということははっきりしませんが、この地域が相当の期間にわ
たり倭人の領域であったことは疑えないように思います。

  また、半島南部の海岸地帯の中央部付近には浦上八国と言われた倭人の国々
があったと考えられます。位置的には弁辰の西南になると思われます。卑弥呼が魏
に使者を遣わした時代の少し前になりますが、三国史記の新羅本紀によれば、奈解
王14年(209)に浦上八国が伽耶を攻めるので伽耶が新羅(辰韓)に助けを求め、新
羅が兵を派遣して浦上八国の軍勢を破ったという記録があります。このことから考え
て半島南部の倭人の国々はかなりの勢力を持っていたと考えられます。

  魏使が仮に半島西岸及び南岸を全部水行したとすれば、明らかに馬韓とは異な
る西南部及び南部の倭人の国々について韓伝に一言の記述もないのは理解しにく
いところです。この一帯は韓国の古代史の中でも空白地帯とされ不明な部分が多く
あります。このことから考えて魏はこの一帯の情報を明確に持ってはいなかったと考
えられるのではないでしょうか。魏使の一行が半島西南部を水行していれば、もう少
し明確な記述があっても良いように思います。

韓地水行説の里程上の問題点
  さて、狗邪韓国にいたる地理的また歴史的状況がある程度つかめたところで、帯
方郡から狗邪韓国まで七千餘里という記述自体を吟味してみたいと思います。狗邪
韓国をどこに比定するかという問題はありますが、釜山あるいは金海一帯まで広げ
たとしても大差はないと見て良いと思いますので、従来からの理解のように全行程を
水行すると、韓地が方四千里と捉えられているわけですから、帯方郡を出てすぐの
水行を無視したとしても西側と南側の行程だけで八千里となってしまい、七千餘里を
オーバーしてしまいます。

  魏使が通った実際の里数については今のところ知る由がありませんが、韓半島は
西南の部分が膨れて海に突き出すような形になっているため、出発地と思われる地
点から大雑把に直線距離を計っても西側部分が約430キロメートル(約5500里)で、
南側部分が約330キロメートル(約4300里)、合計すると9800里となり約一万里となっ
てしまいます。つまり、七千餘里と記述してあるにもかかわらず、水行とした場合は
論理上では8000里(四辺形の二辺)プラスアルファ(帯方から韓地までの水行距離)
となり、実際上では約一万里というわけです。

  実際の里数が七千餘里をはるかにオーバーしている、ということも問題ではありま
すが、魏使が実際に測量をしながら歩いたとも思われないため、そこまで厳密に考
えなくても良いかもしれません。むしろ、ここでは論理として一辺が四千里と捉えられ
ている方形の二辺を進み、それが七千餘里とされることへの論理矛盾が気になりま
す。出だしから明らかな論理矛盾を抱えては読者(皇帝及び高級廷臣)の理解が得
られるとも思われず、この点だけから見ても韓地水行は容易には成り立たないよう
に思われます。

  今ひとつ、最近当マガジンのアドバイザーとの議論の中で基本的な問題点が浮か
び上がりました。

  三国志・韓伝は、「韓は帯方の南にあり、東西、海を持って限りとし、南、倭と接
す。」から始まることは2号マガジンで述べたとおりです。東西が海に対して南が倭と
いう書き振りからすると、陳寿は、南の小さな点で倭と接しているよりは南側の全面
で倭と接していると認識していたと思われます。それに続いて、韓には馬韓、辰韓、
弁韓の三種がある、と記されていることは4号マガジンで紹介いたしました。また、半
島南部方面には倭人が居たことは今号で説明したとおりです。つまり、韓伝では半
島西南部から南部にかけては「韓地」と捉えられていなかったことになりますし、出土
物や他の史料等もそれを裏付けております。

  ということから考えますと、仮に狗邪韓国まで全部を水行したとしますと、半島西岸
のある部分から先は「韓」でない場所を通ることになり、「韓国を歴(ふ)るに」とは言
えなくなってしまいます。その一帯を「韓」ではないと認識していた陳寿が、全部を水
行とした場合に「韓国を歴るに」と書くはずがなかったのであります。

魏使が卑弥呼の都に遣わされた背景
  この辺りで魏使のことについて少し考えてみたいと思います。
  前号で東夷伝には序文があることを述べました。その中で、実際に魏の使いが行
って得てきた情報に基づいて東夷伝が書かれているのですよ、と言っていると述べ
ました。では魏の使いはいつどのような形でどこまで行って女王国ほか倭人の国々
の情報を得たのでしょうか。

  倭人伝では、魏の最初の使い太守弓遵(きゅうじゅん)は正始元年(240)建中校尉
梯儁(ていしゅん)等と共に、魏の皇帝の詔書・印綬を奉じて、また、皇帝から倭人の
国及び卑弥呼に対して下された(豪華な)贈り物を携えて倭国まで来訪し、倭王に拝
仮(皇帝の代わりに会うこと)してそれらを(魏の皇帝に代わって)賜った、と記されて
います。

  普通であれば魏の都において夷蛮の王(或は使いの者)に渡せば済むものを、わ
ざわざ使者を遣わして品物を運び夷蛮の女王に渡したと言うのですから、きわめて
異例のことだと思われます。よほど特別の状況がない限り考えられないことではない
でしょうか。単に、魏から使いが来て贈り物を持ってきたよ、というように簡単に読み
過ごせることでは無いように思います。

  魏の明帝が倭人の国および卑弥呼に対してどのような贈り物を準備したかという
ことも詔書を引用したかたちで倭人伝に書いてありまして、先ず国に対しては絳地
(こうち)交龍絹五匹・絳地?粟?(しゅうぞくけい)十張・?絳(せんこう)五十匹・紺青五
十匹を、また特に卑弥呼に対しては、紺地句文錦(こんじこうもんきん)三匹・細班
華?(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹
各(おのおの)五十斤を賜う、と記されています。

  つまり、国に対して緋色の生地に色々な縫い取りを施した絹織物や毛織物、ま
た、緋色や青色の布を賜り、それとは別に特に卑弥呼に対して、紺地の錦、細かな
模様の毛織物や白絹と共に、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹を賜る、という意味になるよ
うです。

  これらの品々につきましては、女王国がどこにあったのかということを見ていく上で
大きな鍵になりますので、注目しておいて頂きたいと思います。

  それらの品々は皆装封して(卑弥呼の使いの)難升米と牛利に渡すので、国に帰
ったならばいちいち記録して受け取り、品々を国中の人に見せて、魏が卑弥呼を本
心から思っていることを知らせなさい。そのために鄭重に卑弥呼が好むものを賜る
のですよ、と詔書は結ばれております。使いの難升米と牛利の正確な呼び方はよく
分かりませんが、ここでは難升米(なしめ)と牛利(ぐり)としておきます。

  ここでも注目すべき点が出てきております。魏の皇帝が卑弥呼に単に品物だけで
はなく詔書を出しているということは、卑弥呼の国では詔書を読めることが前提にな
っていると思われます。その上で記録して受け取りなさい、と言っているわけです。少
なくとも卑弥呼の国には文字を読み書きできる人が居ることを前提にしているのでは
ないでしょうか。卑弥呼自身が読み書きできたのか、とまでは分かりませんが、いわ
ゆる文字の伝来ということについて大いに考えなければならない問題を含んでいるよ
うに思います。

  それはともかく、通常であればそのまま卑弥呼の使いが品々を持ち帰るところでし
ょうが、魏の明帝は年が明けた景初3年早々に病を得て亡くなってしまいます。贈呈
の儀式どころではなくなってしまいました。恐らく使いの難升米と牛利は急遽帰って
卑弥呼に報告したことでしょう。そして明帝の喪が明けた正始元年(240)になって今
度は魏の使いが品々を持って倭人の国にやってくることになったわけです。

  ではなぜ魏がそのような豪華な品々を卑弥呼に対して賜ったのか、ということです
が、それは景初2年(238)に卑弥呼から魏の明帝に対して朝献されたことに対する
答礼の品々でありました。ここで二つの点が注目されます。その一つは卑弥呼が贈
った品は男生口(奴隷)四人、女生口六人、班布二匹二丈と記されておりまして、魏
からの答礼の品々と比べるとはるかに見劣りがすることであります。二つ目は朝献し
たとされる景初2年6月という時期についてであります。

  実は景初2年という年は魏が永年の煩いであった公孫氏を討伐するため思い切っ
た戦いを仕掛けた年でありました。三国時代、魏は前面と側面で呉、蜀と対立し攻防
を繰り返していましたが、後漢末期から遼東を中心に勢力を伸ばし、表面的には魏
に臣従しているとはいえ隙あれば中原を窺う公孫氏から常に背面を脅かされ、その
方面にも大きく神経を使わなければならない状態にありました(この時期には独立を
称していました)。諸葛孔明が亡くなって蜀の脅威が薄れ、呉の孫権も公孫氏との提
携に失敗し(使者が斬られています)江南から容易には動かないと見て、この時期に
(景初2年春)後顧の憂いを断つべく討伐の軍を起こしたわけです。それに先立ち公
孫氏のさらに背後にある高句麗と和親を結ぶ、また、ひそかに軍を海を越えて韓地
に上陸させ公孫氏を挟み撃ちにする態勢を作る等、周到な準備から魏の力の入れ
方が窺えると思います。卑弥呼が使いを出した景初2年6月はまさに公孫氏を遼東
の一角に追い詰めつつある戦いの最中でした。

  実は、卑弥呼が使いを出した景初2年は景初3年の間違いであるというのが、三
国志に誇張や間違いが多いと言われている点の一つでもあります。日本書紀にもこ
の段が、魏志に曰くという形で引用されておりますが、景初3年と書かれております。
戦いの最中に使いを出すわけがない、というのが書記編者が3年とした理由ではな
いかと考えられますが、今となっては確かめるすべはありません。江戸時代にも松下
見林によって景初3年の間違いとされ、その見方は現在も一部に引き継がれており
ます。常識的には戦いの最中の使者は考えにくいかもしれませんが、公孫氏によっ
て長年中国への道を閉ざされていた卑弥呼にとって、討伐は歓迎すべきことであっ
たと思われます。さらには、卑弥呼もその背後に狗奴国という敵を抱えており、魏の
支援はなによりも欲しかったのではないでしょうか。それが戦いの趨勢を見極めた上
で、戦中にいち早く使いを出した背景にあると考えられます。

  東アジアの片隅にありながら盟主としての中国や周囲の国々の状況を的確に把
握していたことが窺がわれます。なかなか国際関係に敏感だったように思われます。

  景初2年6月という時点は魏の優勢が見えつつあった時ではありますが、まだ公
孫氏は滅んだわけではなく(滅亡は8月)洛陽(魏の都)までの道のりは相当の困難
が予想されました。従って、帯方郡の太守劉夏は護衛の人数を割いて都まで卑弥呼
の使いを送り届けています。少なくとも後漢の時代に朝見の使節が通ったと見られる
こと(金印の受領)から、倭人にとって洛陽への道は分かっていたはずであり、平時
であれば案内や護衛など必要なかったはずです。このことから考えても安易に景初
2年は景初3年の間違いであると片付けることは出来ないように思います。

  また、帰趨が未だはっきりしないこの時点で旗幟鮮明に魏を支持したということが
魏の明帝を喜ばせ、「親魏倭王」の号を授け、貧弱な贈り物に見合わない豪華な答
礼の品々となったと考えられるのです。もし景初2年を景初3年の誤りとしてしまえ
ば、都までの護衛も豪華な答礼品に対する説明もつかないように思うのですが皆さ
んはいかがでしょうか。

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参考文献
・三国志 陳寿
・三国史記 金富軾(著) 金思Y(訳) 明石書店
・日本書紀 坂本太郎 他校注 岩波文庫
・太宰府は日本の首都だった 内倉武久 ミネルヴァ書房
・「邪馬台国」はなかった 古田武彦 朝日文庫
・親魏倭王 大庭脩 学生社
・古代史の未来 古田武彦 明石書店



第5号 邪馬壹國(2)


































































































































































































































































































































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